27聖
日差し和らぐ地。雲溶ける空。徐々に下がる気温。赤みが差す空。
安らぎ消える地。期待溶ける空気。地の底まで下がる気合い。影が差す世界。
穏やかな夕暮れを眺める私の目は死んでいた。エーレはとっくの昔にいなくなっている。当然だ。現在選定の儀を受けるしかすることもできることもない私とは違い、エーレは選定の儀を用意する側であり、王城での仕事もあるのだ。その間に聖女忘却事件の黒幕を探し、私の安全を確保しようと一人で走り回っている。
大変だ。その努力を悉く砕いている身としては、本当に申し訳ない。さっき飛び移った屋根を掴み損ねて落ちたのは内緒にしよう。どうにも色々鈍っている。
「どうしたものでしょうねぇー」
時間が許す限り、エーレと私の共通点を探しつつ種を開花させる方法を探した。しかし、有益な記憶も有効な手段も見つからないまま解散となった。そもそも、私とエーレだけで行動した記憶など、当代聖女忘却事件から後しかないのだ。二人だけの行動なら、断然私と王子のほうが多い。
エーレも眉間に山脈を作って考え込んでいたが、有益な記憶は掘り返せなかった。
エーレと別れてからは、王城にいるのを見つかっては流石にまずいと神殿に戻り、サヴァスから逃亡し、食堂に忍び込み林檎を頂戴して料理長が投げたジャガイモが後頭部に直撃し、逃げた先で林檎を囓っていたらカラスに取られ、サヴァスから逃亡しと、なかなか忙しい時間を過ごした。
目を閉じたまま溜息を吐く。吐いた溜息が鼻に降ってきた気がする。
王子を味方にできたのは大きい。協力者としても戦力としてもだ。だが、黒幕かもしれない敵の名も大きい。そっちは大きくなくてよかった。
ここアデウス国には五人の王子がいるが、母親を同じくしているのは側室の子である第二王子と第四王子、第三王子と第五王子だ。正妃の子である王子に兄弟はいない。いなくなった。
どの王子にも母方の家がある。どの家も自身の血族を玉座に座らせたい。そうでなければ娘を側室に座らせたりするはずがないのだ。
ようは、先代聖女派が黒幕だったほうがどれだけいいか案件である。それならば神殿内だけで対処が可能だ。王城が、それも王族が絡むと神殿だけで閉ざせなくなる。それに、今は王子が第一継承権を持っているが、サロスン家が本当に黒幕だったのなら王子の立場が危うくなるだろう。
何一つ解決していないのに、問題ばかりが積み重なっていく。しかも規模が広がって。
私が忘れ去られた件だけでも手に負えないし解決の兆しは欠片も見えていないのに、どういうことだ。
神様、試練を与えるなら小出しにしてください。読書仲間の神官と、新刊が出る度に感想を語り合っている本があるが、一つの問題が解決したら次の問題が現れて、その問題が解決の兆しを見せたらどかんと大きな黒幕が現れるのが定石だ。
私は確かにこの事態の解決を望んでいる。黒幕だって早く知りたい。だが誰が、どかんどかんどかんと問題だけ現れろと言ったのだ。解決策も揃いで出してほしい。順番というものがあるだろう。
アデウスの神様、常識も定石も知らなければ加減を知らない。
そもそも、試練とは神様が与えるものなのか?
唐突に疑問が湧いた。
降りかかる試練の量や難易度には個人差があると思う。つまりはわざわざ一人一人分配して、試練を、与える? ……ないな。神様が百人いたって足りやしない。人生の試練とは勝手に発生する自然災害と考えるほうがしっくりくる。
これも悟りか……。じゃあ仕様がない。神様には、私が無事に試練を乗り越えていけるよう応援してもらおう。
かくなる上は私が強大な進化を遂げ、超絶超越突出最高聖女になるしかない。腕の一振りで山をも砕き、くしゃみ一つで海をも吹き飛ばすような聖女に……魔王かな?
「頭痛い……」
「そりゃあ、そんな格好でずっといたらな」
がさがさと茂みを掻き分け現れたのは、昼から私を探し続けたサヴァスである。私より日の光を吸い込んだかのような鮮やかな赤髪をがりがり掻きながら、茂みをべきりと踏み潰す。
「やってくれたな、てめぇ。もーう逃げてくれるなよ?」
「逃げるつもりなら、こんな所にぶら下がっていないでとっくに逃げてます」
私は両足を引っかけてぶら下がっていた枝に戻、ろうとして、戻りきれず諦めた。
「すみません。起こしてもらってもいいですか?」
「なんでぶら下がったんだよ!」
「いつもは戻れていたんですけどねぇ」
手を伸ばせば幹に届いたので、幹を支えに結局自分で起き上がった。逆さまになっていた視界が戻り、血の巡りも変わる。枝に跨がったまま、頭をぶるぶる振って痺れを逃がす。
「逃げ回ってくれやがったわりにはあっさり捕まったな。お前、何がしたいんだよ」
「一人で考える時間が欲しかったんです」
私が座っている枝の下で幹に背を預けたサヴァスは、やれやれと肩を回した。
「手間取らせやがって」
「悪役の台詞ですね!」
「ただの事実じゃねぇか!?」
仰るとおりである。
どうにも身体が鈍っているこの状況で、サヴァスと追いかけっこするのは分が悪いと山に逃げてきたのだ。それでも時間の問題だったが、考える時間は稼げた。
「ここは一般人立ち入り禁止だぞー。後で怒られても知らねぇからな」
「私、当代聖女なので平気です」
神殿の裏手にあるここは、霊峰との境だ。山と人里の境界ともいえる。人の領域か、山の領域か不確かな領域は、どこの山にだって存在するが、ここは少し特殊だ。
人の領域か、神の領域か。ずっと曖昧にされてきた。曖昧なままにされてきたのは、そのほうがいいからだ。きっぱり線引きすると、もし超えてしまったときに領域を侵した事実を作ってしまう。神の怒りに触れる機会は少ないほうがいい。だったら最初から領域を不確かにしてしまえばいいのだ。
そういえば、この霊峰が場となる試練もあった気がする。よく覚えていないが。……誰か私に「三分で分かる聖女の試練」をください。一分だと尚よし。
目次でも読むかなと思いつつ、ポケットから種を取り出す。
「どーすんだよ、それ。他の聖女候補は咲かせるか、少なくても咲かせる努力はしてたぜ?」
まだかろうじて赤く染まってはいないものの、ずいぶん傾いた日の光を頼りに透かせてみる。ただでさえ木々の隙間から零れ落ちる日は細いのに、今ではまるで糸のようだ。しかし、糸のようでも光は光だ。宝石のような種はきらめき、光を散らせる。
「心配してくれるんですか?」
「神兵つっても神官の一種だからな。神と聖女の敵じゃないなら、そうそう不幸は願わねぇぞ」
知ってる。サヴァスはそういう人だ。
人が集まれば、相性身分立場状況過去未来。様々な要因が絡み合い、一筋縄ではいかなくなるものだ。神殿内だって例外ではない。
それでも楽しかった。命は狙われるし、色恋沙汰には巻き込まれるし、大騒動には私が巻き込むし、いろいろ、本当に色々あったけれど、いつだって私はここに帰りたかった。
暮れの温度をまとった風が森を通り過ぎていく。人里から流れ込んだ風と山から下りてきた風が混ざり合い、まさしく狭間だ。
普通なんて知らない。普通の家も、家族も知らない。そんなもの、物心ついた頃には既になかった。ここにだって、たぶん普通はないのだろう。「普通」と定義された家も家族もないけれど、それでも私はここがよくて、神官長が好きなのだ。
「なあ、あんた、スラム育ちとか言ってたな。これに落ちたら、行くあてあるのかよ」
「落ちませんけど、ありませんよ」
「なら、子どもを保護する施設があるからそこ行けよ。なんなら俺がつれていってやる」
今日ずっと私を追いかけ回していたサヴァスの服は裾が解れ、汚れ、髪だってぼさぼさだ。けれどやるべきは果たす。そういう大人の存在を物語の中の理想ではなく現実として信じられた私は、恐ろしいほどの幸運の中にいた。
「聖女にならなきゃ食っていけないと思ってんならやめとけ。他の方法がある。憧れなら尚更やめとけ。お遊びでもおふざけでも、素質がありゃいいとこまではいけるさ。けどな、ここは国の中枢で、間違っても平和で安全な場所じゃねぇ。第二の試練でお前も見ただろ。神官が死体の処理に手慣れてんのは、ここがそういう場所だからだ。どんな厄介事に巻き込まれるか分かったもんじゃねぇ。そうなったら、後ろ盾のある人間だってどうなるか分かんねぇんだぞ」
「あはは、私も死体には慣れていますよ」
「俺はふざけて言ってんじゃねぇぞ」
「私も、ふざけてますけどふざけてないんですよ」
私はここがいい。ここに帰りたいのだ。
枝を跨いだまま見下ろせば、私を見上げるサヴァスと目が合った。思わずにへっと笑ってしまう。
「ありがとうございます。でも、結構です。私には、ここ以外にいきたい場所がありません」
どれだけ大きな問題だけが積み重なろうと、どこにも解決の兆しを見つけられなくとも、どうしようもない。どうしようもなく、目指す先がここにしかない。
掌の中でころりと転がる種は、一向に芽吹く気配がない。私には種に注ぎ込む神力はないし、サヴァスに追いかけられながら神殿も回った。神殿中を駆けずり回れば、聖女として過ごした日々に引っ張られて芽吹かないかと思ったが、そうもいかないようだ。
あと一時間もしないうちに、六時の鐘は鳴るだろう。さっきはかろうじて保っていた青空には、この僅かな間に赤みが差し始めていた。
種は種のまま、私の手の中にある。これが初めて受ける試練なら、私には聖女の素質がなかったのだろうと諦める頃合いだ。だが、私は聖女なのである。一度咲かせてしまったのだ。諦める方向性が違う。
聖女候補が生涯ただ一度咲かせられる花ならば、当然聖女は咲かせている。聖女は、咲かせなければならないのだ。
「サヴァス」
「あぁん? てめぇ呼び捨てかよ」
聖女が神官をさんづけすんな。そう言ったのはあなただ。
口を尖らせたサヴァスの前に、私はもう一度ぶら下がる。すると、さっきまでぶら下がっていた分で体力を使い切ったのか、枝に引っかけていた足が外れてしまった。
「うわっ」
「おぉん!?」
ずべっと枝からずり落ちた私を、サヴァスが慌てて抱え込んだ。縦に抱えたため、私はまるで大物の魚が持ち上げられたような体勢になった。地面に両手をつき、逆立ち体勢に移行する。
「どうもお手数をおかけしました」
「お前もうぶら下がんな! 禁止だ禁止!」
ったくと、ぶつくさ言いながらも手の歩行から足の歩行に移行するまで、サヴァスは手を離さず支えてくれた。よっこいしょと足を地面につけ、立ち上がる。
「あんた、動けるのか動けねぇのか分かんねぇ奴だなぁ」
「なんだか鈍ってまして。神兵と比べたら比べるのも烏滸がましいですが、まったく運動できないわけでもないはずなんですよね。逃げられない人間はスラムじゃ生きていけませんし」
「そらそうだわな」
あっさり納得してくれたサヴァスに改めてお礼を言い、軽く身なりを整える。
「ご迷惑ついでに、一つお願いがあるのですが」
「ぁあ?」
怪訝な顔をしながらも、話を通すだけならと承諾してくれたサヴァスは「ついてこい」と言うのを忘れず踵を返した。私も頼み事をした上に、逃走を図る理由はもうない。
サヴァスの後をついて歩きながら、種を指で摘まみ、視線の高さまで持ち上げる。相変わらず綺麗なだけで芽吹く気配はない。聖女を選ぶための種なのだから、当代聖女が手に取ったらその場で咲くくらいの気概を見せてもいいのではないだろうか。それとも当代聖女であるからこそ、手間や努力を惜しまず日々精進していけと言いたいのだろうか。
ずっと持ち歩いた。神殿中を駆けずり回った。それだけじゃ足りないらしい。
「思いつく方法は、あと一つしかないんですよねぇ……」
できるならあまりしたくはなかったが、そうも言っていられない。最後に趣味と実益を兼ねた確認をとり、やるしかない。
それでも駄目だったら、腹を抱えて笑いながら。
世界を呪うか祝うか、決めようか。