2聖
膿んだ傷のままお湯に浸かるのは気が引けていたけれど、私の汚れがあまりに酷すぎてそれどころではなくなった。洗うだけで湯船のお湯を全部使い切ってようやく半月前の状態を取り戻せた私は、身体と髪を擦りすぎて疲れた腕を振りながら風呂を出た。
脱衣所には、いつの間にか綺麗なタオルと紙袋が二つ用意されていた。中を開けると、一つは服で一つは下着だった。
着てみてびっくり、ぴったりだ。聖女の服を含め、私が仕事で使用する衣類は全て用意されるのだから、聖女に仕える神官である彼が寸法を知っていてもなんらおかしなことはない。ありがたいけれど少し微妙な気持ちになったのは内緒である。
しかし、この足でどうやって家の中を歩こう。絶対に血で汚してしまうと悩んでいると、脱衣所の扉がノックされた。
「入っても宜しいでしょうか」
「あ、はい」
「失礼致します」
念を押して確認した後、宣言通り扉が開いた。上から下までざっと確認したエーレの掌がびたんと私の額に張り付いた。
「痛い! ありがとうございます!」
一瞬で温かさが髪の間を走り抜け、髪が乾く。軽くなった髪を指先に巻き付ける。
私は聖女の力はあるが、それ以外の力が一切ない。聖女の力は歴代の聖女によって違うが、聖女の力以外、つまり神官が持っているような神力を全く持たない存在は私が初めてである。
「髪は、どうされたのですか。無駄に長かったでしょうに」
「正装が映えるから伸ばせと言ったのは貴方達でしょうに。あれ面倒なんですよ。それに、叩き出された当日に売りました。どうせ手入れが出来なければ傷んでいきますから、値段を下げられる前に売ってしまった方がいいでしょう。でも、駄目ですね。足下を見られて安く買い叩かれました。横暴な対応をしても問題ない人間と判断されて。まあその通りなんですけども。食い下がったら石を投げられたので深追いは止めました」
自分より身体の大きな人間にぶつかっていく人間は多くない。ぶつかりそうになれば道を譲るだろう。もしくは危険を回避する為礼儀正しく接する。ぞんざいに扱っても報復されない相手を前にした時こそ、人は真価が問われるのだ。
「うわっ」
「手を回してください」
予告なく私を抱き上げたエーレは、私の悲鳴を無視して不満げな声を出した。
「雑巾でも頂けたら足に巻いて自分で歩きますよ!」
「さっさと回してください。疲労した私の腕が、後三歩も堪えられると思わないでください。明日は筋肉痛です」
何故かきりっと高らかに筋肉痛宣言したエーレは、言葉通り腕をぶるぶる震わせている。だが、意地でも下ろす気はないらしく屈もうともしない。このままでは落とされると危機感を募らせた私は、渋々、本日二度目にして人生二度目の行為をエーレに行った。
足の裏から始まり、あちこち手当てしてもらった結果、包帯お化けになった。
容赦なく消毒液ばしゃばしゃぶっかけられた包帯お化けは、手当が終わる頃にはぐったりとソファーに沈み込む。ぴくりとも動けない私に慰めの言葉一つ吐くことのなかった男は、治療用品をしまうと部屋を出て行った。
綺麗な身体で綺麗な場所に寝転がれる幸せに、さっきまでの痛みも忘れてうっとり目を細める。肌に触れる感触全てが心地いい。このまま眠ってしまいたいくらいだ。
うとうとしていると、エーレが戻ってきた。視線を向けるのも億劫でソファーに沈没したままの私の向かいに座った音がする。そして、間にある机に何か置かれた音も。無意識に、鼻がひくりと動いた。
「話は食べながらしましょう」
がばりと起き上がれば、そこにはパンとシチューと肉のタレ焼きとサラダがあった。
「た、食べていいのですか?」
「がっつかずにゆっくり噛んでください。肉はあなたの好物でしたので一応用意しましたが、無理そうならやめ……人の話を聞いてください」
エーレの返事にかぶせて頂きます宣言した私は、淹れてもらったばかりのお茶を一気飲みしたのを皮切りに、一気に食べ始める。
カビの生えていないパン、腐敗して汁となったわけではないシチュー、虫が集っていない黒くない肉、道端で健気に道を突き破ってきたわけではない草。
美味しいのに、美味しいと思えない。嬉しいのに嬉しいと思えない。全部だ。それら全部の感情が一塊になって、味が分からない。ただ温かくて、お腹に入れても害にならないと思える物が身体に入っていく安堵感に、鼻の奥が痛くなってきた。
慌ててずびっと洟を啜りながら誤魔化す。
「エーレ、畏まるのはやめてください。ここは神殿ではありませんし、城でもない。何より、私は当代聖女としての認知を失いました」
「……確かに今の状態では悪目立ちしますね。では、失礼しよう。ならばお前も、聖女としての態度は不要だ」
神殿でも城でも、聖女らしい言動をしていなかったら氷のような視線を向けてきた男の台詞とは思えない。思わず笑えてしまう。言葉遣いだけは、何だかもう染みついてしまったが、時々荒れるのは許してほしかったのに、毎度毎度律儀に、神官長と一緒に苦い顔と氷のような視線を向けてきたのに。
面白いのに苦い気持ちも滲んでしまったのか、私の顔を見たエーレは険しい顔をした。
「エーレは、どうして」
向かいの先で同じ物を食べていたエーレは、静かにスプーンを置いた。
「一ヶ月の出張から帰ってくれば、神官長から未だ見つかっていない当代聖女を探すため選定を開始すると言われた。その時はお前が何かをやらかして叩き出されたのかと思ったが、それにしては奇妙だった。神官長は、未だ見つかっていない当代聖女と言ったのだ。止めに、お前のことを聞けば首を傾げられるときた。お前の部屋に行けば毎日清掃が入っているはずなのにその形跡がない。当代聖女が不在であっても毎日清掃が入るのに、どう考えてもおかしいだろう。お前の行方を聞こうにも、そもそも誰もお前を知らない。国を挙げて俺を担いでいると言われたほうがまだ納得がいくくらい信じ難いが、神殿をも巻き込める術を使った術者がいる」
深い息を吐きお茶を飲んだエーレは、揺れている水面をじっと見つめている。私も何となく自分のお茶へと視線を落とす。包帯とガーゼがついた自分の顔がゆらゆら揺れている。情けない顔をしていなくてよかった。
そう思って顔を上げれば、エーレが私を見ていた。
「マリヴェル、よく生きていた」
半月振りに呼ばれた私の名前に、まるで火傷したような痛みを味わった。神官長につけてもらった私の名前が、半月振りに音として世界に紡がれた瞬間、ひくりと頬が引き攣ったのが、水面を見ずとも分かる。
「……これくらい、平気よ。だって私は、神官長に拾われるまでこんな暮らしで、あの頃より断然大きくなったのだし、今までいい暮らしさせてもらっていたから元気一杯で、勉強嫌いだから無理やりだったけれど知識もそれなりにつけてもらったし、昔に比べれば断然楽で」
「俺はお前が、神官長をお父さんと呼ぶ練習をしていたことを知っている」
つらつら、包帯が巻かれて動かしづらい指を折りながら言い上げている私の言葉が、静かに遮られた。一度止められてしまえば、もう続けることは不可能だ。だからつらつらと続けていたのに、なんて酷い男なのだ。
「本当は半月前のあの日、神官長の誕生日に、そう呼ぶつもりだったのだろう?」
いつも呆れきった声か、どうでもいい対象に向ける声か、氷のように冷たい声しか向けてこなかったくせに。知らない人が聞いたら優しいだなんてとてもではないけれど思えないけれど、普段を知っていれば充分に柔らかい声を、どうして。どうしてこんな時に初めて聞く声を。
怒っていない時の神官長みたいな声を、するのだ。
「聖女に仕える神官として、職場を同じくする同僚として、謝罪する。見つけ出すのが遅れて申し訳なかった。お前が生きていたことに感謝する」
深々と下げられた頭を見れば、さっき堪えきったのに、もう駄目だった。鼻の奥を痛ませた熱が瞳からあふれ出る。ぼたぼたと落ちてお茶をしょっぱくしていく。水面は、投入される塩水と嗚咽の振動で激しくぶれ、もう私なんて映してはくれない。神官長と同じ色してるのに、私を見てくれない。
「ぅ、え…………ひ、っ…………」
去年の私の誕生日に、神官長は言った。お前さえよければ養子縁組をしないかと。返事は急がない。自分のことを父と呼んでいいと思えたら言ってくれ。そう、言った。言ってくれた。
だけど、何だか恥ずかしくて、顔を見ればふざけてしまって。真面目な話をするのがとてもとても恥ずかしくて。だから、今度こそと。人のいない場所を選んでこそこそ練習して。前夜なんて緊張しすぎて遅くまで眠れなくて。
そうして目が覚めれば、お父さんは、私を忘れた。
「家族、家族にしてくれるって、言ったのに。私の、家族、に、私、を、家族に、して、くれる、って、言った、のに……なんで、なんでぇ……おと、おとうさんの、ばかぁ……!」
友達だと言ってくれた人がいた。妹みたいなもんだと言ってくれた人がいた。悪友だと言ってくれた人がいた。うちのちび共みたいなもんだと言ってくれた人がいた。家族も友達も、家も名も、何一つ持っていなかった私に、それら全てを与えてくれた人がいた。
どうして、それを根こそぎ奪われなくてはならなかったのだ。
半月間一度だって泣かなかった。なのに一度決壊すればもう止まらない。
エーレは泣きじゃくる私を何時間も黙って待っていた。
泣いて泣いて泣いて。我慢していた分を全て泣き尽くせば、猛烈に腹が立ってきた。何にも持っていなかった孤児が全てを手に入れたのは偶然の産物であった。だから偶然全部奪われていいと。そうかそうか殴り飛ばすぞ。
「……っ飛ばす」
「聖女の寝言としてどうなんだそれ。聖女じゃなくてもどうなんだ」
何かが目を覆うようにべたりと乗せられた。びっくりして目を開けば、真っ白な光景が広がっている。
「何……」
やけに痛む関節と頭に苦戦しながらそれに触れれば、濡れたタオルだった。
「起きたか」
顔だけ倒して視線を向ければ、エーレが座っていた。
どうやら泣き疲れた私はベッドで眠っているらしい。どうやってベッドまで移動したのかはすぐに分かった。握っていたらすぐに温かくなってしまったタオルを渡した腕がぶるぶる震えていたからだ。宣言通り、明日は酷い筋肉痛だろう。
その手を掴み、力を篭める。熱と光が私の身体を走り抜け、彼へと届く。病や怪我ではないので完全に消し去ることは難しいが、これで少しはましだろう。視線を上げれば、苦虫を噛み潰したような顔が私を見下ろしていた。
部屋の中は薄暗く、枕元で神力によって灯された淡い光が揺れているだけだ。厚いカーテンが閉まっていることもあるだろうが、外から漏れ入ってくる光はなく、どうやら今は夜らしい。
「……余計な体力を使うな。とにかく熱を下げ、身体を治せ。話は全部それからだ。医師の見立てでは疲労と衰弱、化膿による炎症によるものだ。栄養をつけて休んでいれば治る。だから寝ていろ」
「……ぶっ飛ばしに行きたい」
「十日後までに治せばいい」
「何が、あるの?」
「聖女選定が行われる」
成程。聖女が不在だと、災害や流行病が猛威を振るうと言い伝えられている。そのくせ聖女とは世襲制ではなく、先代が死ななければ当代聖女は現れない。どこに現れるかは分からず、国を挙げて探し出さなければならないのだ。
当代聖女が不在となると、当然聖女捜索と選定が行われるだろう。選定を通らなければ聖女にはなれない。これは国の都合でそうなっているのではない。神によりそうなっているのだ。他国では違うようだが、少なくともアデウス国の聖女とはそういうものである。
聖女は、選定を越え、就任の儀を執り行わなければ聖女としての力に目覚めない。聖女としての力の大きさもそれまで分からないのだ。
そこで一つ疑問になった。熱でがんがん揺れる頭を宥めながら、エーレを見上げる。
「私、選定の儀なんてやりましたっけ?」
「………………やっただろうがっ!」
「えー……? 覚えてない……」
やったのなら神官長からお前が聖女だと言われる前にやったのだろう。うんうん唸りながら記憶を掘り返す。
「選定って神殿でやる?」
「当たり前だ」
「えー……ん? あ、合宿?」
そういえば、色んな年齢の女性達と泊まり込みで色々したことがあった。鏡を覗き込んだり、祈りを捧げたり、色々したものだ。
神官長からは、一人だと勉強をさぼるから勉強合宿に入れると言われた気が……まさかあれか!?
「どう考えてもそれだ、大馬鹿者!」
成程。ちゃんと選定やってた。勉強してないけどいいのかなと思っていたけれど、藪をつついて蛇(勉強)を出すのも嫌だったので黙っていた自分を思い出す。
もう八年も昔なのに、今と全く変わっていない。成程、皆が勉強させたがるのも頷ける。
「でも私、選定に入れるかな……追い出されたのに?」
「聖女候補は自薦他薦問わないが、どちらにしてもお前は俺が候補として掲げる。何らかの理由で神殿に恐ろしい術がかかっていようが、選定の儀を歪められるわけがない。どんな不正も通らない。あれは、人の意思など関係の無いものだ。逆に、お前が選定を越えられなければ、この国はまずいことになる。当代聖女がいるにもかかわらず聖女としての任につけない。そんなこと、お前を選んだ神がお許しになるはずがない。この国は神の怒りを買うだろう。お前には、お前の為だけじゃなく、国の為にも聖女の地位に戻ってもらわねばまずい」
それは私だって分かっている。人の都合でどうのこうの出来るなら、歴代聖女は貴族や政治家の家系で構成されていただろう。人の手も都合も届かないものだからこそ、聖女は尊ばれるのだ。……男女混合型起床係を考えると、当代聖女は全く尊ばれていないし、私も尊ばれる言動をしていた自覚は欠片もないが。
「お前は、神官長達に聖女の力を使ったか? お前の術は、お前の言動からは到底信じられないが、歴代随一の癒やしと浄化だろう」
「一言余計だと思いますけどね、それ。どちらにせよ、私の力は対象者に触れないと発揮できない。あっという間に捕縛されて誰にも触れなかったから無理よ」
後ろ手に縛られたとはいえ、隙を見れば兵士の一人くらいには触れたかもしれない。でも、それでどうしろというのだ。哀れにも一人術を解かれた兵士が私の無実を訴えても、彼も共犯と見なされて罰を受ける。それで終わりだ。
幸いにも叩き出されるだけで済んだので、世界がひっくり返った絶望を知るのは私一人でいいと思った。
まあ、ここに哀れな子羊はもう一匹いたわけだけど。
「どうしてエーレは私のことを忘れなかったのかな」
「分からない。城から離れていたことは事実でも国中を巻き込んだ術だからな、出張先が国内だった俺も例外なくかかっていてもおかしくないが…………何にせよ、今は答えを出せる段階にない。選定の儀に備え、お前は身体を治せ。ひとまず今日の所は、お前を捕獲できたことでよしとする」
「保護って言おう?」
「お前も、大人しく捕縛されたことは褒めてやる」
「保護って言おう!?」
捕獲はないだろう捕獲は。捕縛はもっとないだろう。今回は木に登っていたわけでも屋根に登っていたわけでもなくゴミ山に登っていただけだ。そう言いたかったのに、少し疲れたのか、一つ息を吐いたところで沈むように意識が途切れた。
私は、眠りたくなんて、なかったのに。
悲鳴を上げた。けれど声は音にならず、熱く掠れた無残な吐息が喉から漏れ出しただけだ。
無残なほど暴れ回っている心臓を無意識に押さえ、鎮静を待つ。頭は夢と現実の境で混乱しながら、激しい動悸で送り出された血液でやけに冴えている。視線だけを動かし状況を把握しようと努めた瞳に、ちかりと光が差した。
カーテンの隙間から強い白が差し込まれている。夜が明けたのだと分かった。そして己が目覚めたことも。胸を握り潰していた手をそろりと解く。
夢を見た。あの日から毎晩見る夢だ。何のことはない。ずっと送ってきた穏やかで騒がしく、何気ない日々を辿っただけの、酷い悪夢だ。
「…………エーレ?」
ベッドの横を見ても人の姿はない。当然だ。よっぽどの病状でなければ、一晩中つきっきりになる必要もない。まして、状況が状況だ。彼も忙しい身の上である。それなのに、喉を大きな氷の塊が通り過ぎていく。冷たく固い塊は、胸元で止まり、張り付いた。
熱でがんがん揺れる頭より、無理やり起こして節々が痛む身体より、緩慢な動作で床に下ろした包帯が巻かれた足より、胸が痛い。寒い。寒くて暗くて痛い。
白い息が出ていないことが不思議なほど寒い。カーテンの隙間からは強い光が差し込んでいるのに、ここだけ深夜のように感じる。
ちかちかと点滅する視界を擦り、扉を開けた。
廊下をぺたぺたと進む。身体を支えきれず、壁に手をつき、半ば引き摺るように歩く。扉はいくつかあった。でも、どれを開ければいいか分からない。どれを開ければ正解なんだろう。どれも正解じゃなかったら、どうしよう。
そう思うとどの扉にも触れられなくて、結局出発した場所から一番遠い扉に手をかけた。少しでも結果を後回しにした、臆病な決断である。
熱のせいで体温が上がっている掌には酷く冷たく感じるドアノブを、ゆっくりと回す。そこには見覚えのある部屋があった。床いっぱいに本が積まれた中に、かろうじてスペースを用意されたテーブルとソファー。
昨日私が食事をした部屋だ。
そのソファーから伸びた足を見つけ、ふらふら近寄る。
随分久しぶりとなった食事と呼べる物が乗っていたテーブルにも、床にも、そしてソファーで眠るエーレの身体の上にも本があった。本の量から考えると読書ではなく調べ物をしていたのだろう。開きっぱなしになっている本は、ページの重みで勝手にページが進んだのか背表紙の裏が見えている。そこに押されている印は神殿の物だ。
元から借りていたのか、それとも私が寝ている間に借りてきたのか。どちらにせよ勤勉なことだ。
突っ立ったままぼんやりそれらを眺めていると、小さな声がした。唸り声とも呻き声とも呼べそうな、機嫌の悪い声につられて視線を向け、ひゅっと息が止まった。
私の気配で目が覚めたのか、エーレの目蓋が開いている。そして、大きく見開いた。
心臓が、止まったのか跳ね上がったのか分からない衝撃を生み出した。最後にし損ねた呼吸で空になった肺に無理矢理息を吸い込み、勝手に吐き出された言葉が呼吸の代わりとなった。
「申し訳ありません。何も、盗んではおりません。お疑いでしたらどうぞ身体検査を。お許し頂けるのであればすぐにお暇致します」
頭が凄まじい早さで回っている。けれど何一つ、本当に何一つとして有益な言葉も思考も出てこない。凄まじい速度で早鐘を打つ心臓と同じ速度で視界が点滅する。酷い吐き気がなければ、意識を失ってしまいそうだ。
縋れるものが自分の意思ではなく吐き気だなんて笑えると、全く笑っていない私が思考の端で嘲笑っている。
「お前……」
「ごめんなさい、すぐ出ていきます、すみません、ごめんなさい」
「こら、待て!」
後退りし、素足が本の山にぶつかった。反射的に振り向いた勢いのまま走り出す。本の山が崩れたと気付いたが止まれない。しかし、背後でもっと大きな音がした。衣擦れの音も相まって彼が飛び起きたのだと気付いて心が竦み上がる。
身体の末端まで全く力が入らず、逃げ遅れた手首を掴まれた途端、心の底が悲鳴を上げた。それなのに口から飛び出たのは、泣きたくなるほど情けなくか細い、糸のような呼吸だった。
「ごめんなさい殴らないで」
掴まれていない腕で自分の頭を抱え、目一杯エーレから逸らす。
「事情は分かっていても流石にいま、いま、は、知っている人から殴られるのは、ちょっと、無理。ごめんなさい、すぐ出ていきますから、ごめんなさい、見逃してください。すみません、見逃して、何も、何もしていません。だから、お願いします。見逃してください、お願いします、見逃して、殴らないで、ごめんなさい、殴らないで、見逃して」
頭も思考もぐらぐら揺れて、身体は煮えるように熱いのに芯から凍えていく。吐き気が酷い。寒くて熱くて目が回って、世界が砕ける。
砕かないで。お願いだから。縋る物が、知らぬ間に全て失っていた私の縁が、不意に思わぬ所から少しだけ帰ってきて、それを、いま、すぐに、砕かれたら。笑って立ち直ることは、できない。だって私は昨日既に一度折れてしまったのだ。砕かないで。痛みで記憶を、嫌悪で思い出を、軽蔑で想いを、砕かないで。お願いだから、せめて、いま、この瞬間だけは。
目眩が酷くなり足が縺れる。だけど早く、早く去らないと。昨日、張り詰めていた心が折れて初めて修復を開始できたはずの心が、それをさせてくれた人の拳で砕かれたら、死んでしまいたくなるだろう。
「マリヴェル!」
地上で溺れ焼けていく私の、掴まれたままの腕が強く引かれた。気が付けば、後ろから腕が回され、強く抱きしめられていた。否、抱きかかえられていた。宙ぶらりんになった私の足が床から離れている。
「お前、恐ろしいな!」
「……え?」
子どもが子どもを抱き上げたかのような体勢のまま、エーレはくるりと向きを変えた。その勢いで宙ぶらりんの私の足が振り回され、本の山を新たに崩したがエーレは視線をやりもしない。すたすたと廊下を進んでいく。
「現状唯一の味方である俺が、この状況下で記憶を失った可能性に思い至ったにもかかわらず、聖女の力を試しもせず姿を消そうとする奴があるか! 恐ろしい行動だぞ、それは!」
子どもよろしく抱えられたまま呆然と顔を上げれば、エーレは本当に青褪めていた。体勢が体勢なので顎を動かし視線を上げるしかなく、下から見上げていると、青褪めた顔に段々怒りが湧いてきたのが見えた。
「どんな手を使ってでも味方を確保しろ! 神官の前から去る聖女があるか! いつもさぼりの際に発揮する驚異的な発想と頭脳と機転と粘りはどうした! 俺を含め、多数の人間からあれは軍師の才かただのくそガキかと評される思わず拳が出そうになるふざけた策をこういうときに発揮せずしてどうするんだ!」
「……皆そんな風に思っていたの?」
「王子と一緒にメイドの格好をして城を抜け出したたわけはどこのどいつだ」
「発案は王子です」
そして衣装を用意したのは私である。
エーレの美しい額にびきっと青筋が走り、慌てて口を噤む。そのまま元いた部屋に運搬され、ベッドに下ろされた。いつものようにぶん投げられるかと思いきや、恐ろしいほどそっと下ろされ、心臓が凍りつくような思いをした。いつも容赦ない人が優しいと怖い。
「俺が驚いたのは知らない人間が家にいたからではなく、まだ動けるはずがないと思っていたお前が起き上がっていたからだ。寝ていろたわけが。記憶が無くなるなどとふざけたことをしでかされた前例がそこら中に転がっているのに、俺が何も対策をしていないわけがないだろう」
冷たい視線で吐き捨てられたものの、布団を掛けてくれる手つきだけが優しかった。
昔、風邪を引いたとき、布団を掛けてくれた大きな手を思い出す。いつも厳格で身形をきちんとしている人だったのに、熱が下がらず魘される私を一晩中看病してくれたとき、軽く崩した服と髪をしている姿がなんだかくすぐったかった。
優しい人。初めて、生まれて初めて、庇護されるというくすぐったくも不思議な暖かさを持った行為を私に与えてくれた人。今は、私の名前すら覚えていない人。
「何か食べられそうか」
「……いらない」
「なら寝ろ。まだ早朝だ」
そう言いつつ、ベッドの隅にどっかり座った衝撃で私の身体も揺れる。
「熱が高く、衰弱し、傷が膿み、栄養失調。お前ご自慢の悪知恵も鳴りを潜めるというものだな。気色が悪いからさっさと完治しろ」
本当に辛辣である。弱ってべそをかいてしまうという情けない醜態を見せた知り合いに、気色が悪いとはなんだ気色が悪いとは。
でも、その通りだ。本当に情けないし、こんなみっともない自分、今代聖女として、何より神官長に育ててもらったマリヴェルとして恥ずかしい。
ゴミに埋もれて眠りながら、目が覚めたら夢ではないかと何度も思った。いつも通り、往生際悪くベッドにしがみつく私を容赦なく起こしにきてくれる人がいて、一緒に朝食を食べてくれる家族みたいな人がいて。友達がいて、悪友がいて。夢のようだなといつも思っていた空間が、確かな日常としてそこにあって。
夢の中では確かに日常は続いていた。けれど目覚めれば誰もいない。存在しているのは、こちらを食い物にすることしか考えていない、者になりきれぬ物ばかり。私と同じ、物ばかり。
昔に戻っただけなのに、夢が覚めただけなのに、心臓を抉り出したいほどつらかったなんて、笑い話にもなりはしない。
「分かってる。もう一回寝たら、しっかり食べて、体力を戻す。十日あれば、充分。だから」
「ああ、こんなふざけたことをしでかした奴に天誅を下しに行くぞ。正直、ぶん殴るだけじゃ気が収まらん」
訳も分からず取り上げられて、はいそうですかと失えるほど、過ごした時間は浅くない。それにどうやら、私と同じほど怒っているらしい仲間もできたようだ。
泣くだけ泣いた。絶望だって知った。だったら次にすべきことは、正しい怒りを持って、奪われた夢を取り戻すだけだ。
いつもは品良く座っている姿しか見たことがないのに、今の足を開いてどっかり座っている様子は、全く違うはずなのに、むかし看病してくれた神官長を思い出した。立場も人目も気にせず、ただ当人だけである姿が、本当に、ずっと好きだった。
言えばよかったかな。お父さんが、神官長としてではなく、ただ人のいいお父さんとしてそこにいてくれる瞬間が大好きだって。ずっと、お父さんって呼んでみたかったって。言えばよかった。
また鼻の奥が痛み、目元が燃やされたように熱を持つ。泣くだけ泣いたのに、まだ泣けるから、絶望とはたちが悪いのだ。強制的に思考を舵取りし、方向転換する。
そういえば、ここは彼の家なのだ。しかも、もしかするとだが、私がいま寝ているベッドは彼の物ではなかろうか。
「……私、貴方に嫌われていると思っていたわ」
「俺がお前を猛烈に蛇蝎の如く地の底から嫌っていようがいまいが、当代聖女を守るのが神官としての務めだ」
「そこまで嫌われているとは思っていなかったわ」
ベッドを奪って申し訳ないという気持ちが消え失せた。このままぐっすり眠ってくれる。
腹をくくり、布団を引っ張り上げた。今更になって身体中がずきずき痛む。心が痛すぎてそれどころじゃなかった痛みが存在を主張してくる。痛みを逃がそうと深く息を吸えば、部屋の匂いも一緒に吸い込んだ。紙とインクと僅かに香る神殿で焚かれている香の匂い。飾りっ気のない香りは、普段エーレが纏っているものと何一つ変わらなくて、少し笑ってしまう。
「もしもこれを仕掛けた相手が私より聖女に相応しくても、絶対に負けないわ」
「お前が当代聖女なのは、生命の夢であり不可能の権化と呼ばれている不老不死の妙薬作成方法と同じかそれ以上の謎だが、こんな手段を用いてきた相手が相応しくないことだけははっきりしている」
「……そこまでの謎?」
いくら残念聖女と呼ばれ続けた私でも、そこまで壮大な謎にされる謂れはない。控えめに異議を申し立てると、横しか見えていなかったエーレの顔が私を向いた。そこには凄絶な笑みが浮かべられている。
「聖女の見合い相手を軒並み女嫌いにし、会談をさぼろうと裸足で逃げるなど日常茶飯事で、六階窓から逃げ出し、入浴中の風呂場からタオル一枚で逃げ出し、川を泳いで逃げ出し、衛兵に扮して逃げ出し、王子の執務机の下に匿われ、木の上で昼寝して落下して骨を折り、風呂場で駆けて転んで爪を割り、王子と遠乗りで逃亡して遭難し、王子の見合い相手を軒並み女好きにし、神官長の悪口を言った敵対派閥の頭領相手に幽霊騒動を巻き起こし、五十も後半になった男が一人で風呂にもトイレにも行けなくなった事件、これらが巻き起こした騒動の極一部というふざけた輩はどこのどいつだ」
「当代聖女と第一王子ですね」
「……一度聞こうと思っていたが、お前と王子はいつの間に親しくなったんだ。先代聖女と王家の関係は冷え切っていたんだがな」
「さぼり場所が被りに被って、一人優雅にさぼる為の縄張り争いに精を出した結果、悪友という名の友情が芽生えました」
「お前、本当にどうして聖女なんだ? 王子はどうして王子なんだ?」
私は、人ってここまで無表情になれるんだなぁと感心した。そんなもの、私が聞きたい。
微妙な空気を払拭する為と、元よりするつもりだった話へ向けて、一度目蓋を閉じる。
「エーレ、私」
「何だ」
「貴方とは他人として、自薦で出るわ」
「……俺達は元々赤の他人だ」
それもそうだなと思う返答を聞きながら、思っていたより素早く訪れた睡魔に乗った。
あの日から初めて、悪夢は見なかった。
九日も寝て過ごせば、傷跡は薄ら残れど痛みはほぼ無くなった。熱もとっくに下がり、後は痩せて弱った身体を戻せばほぼ完治である。
私が奪ってしまった寝台の代わりにエーレが使っていた居間のソファーに寝転がり、本を読んでいた私は、玄関から聞こえてくる音に顔を上げた。
本の山をどけず、顔だけ出してじっと待つ。やがて両手いっぱいに紙袋を抱えたエーレが姿を現わした。そして、ソファーから顔だけを出している私を見て溜息を吐く。
「ただいま」
「――おかえりなさい」
本をどかし、紙袋を置いたエーレは、コートを脱ぎながらじとりと睨んでくる。
「忘れたとしても対処してあると言っているだろう」
「だから、その対処を教えてくれないと全く安心できないって言っているの」
「話すくらいなら俺は死ぬ」
「益々不安しか湧かない!」
皆が私を忘れた原因を特定できない以上、エーレもいつ私を忘れるか分からない。その不安が常に付きまとう。彼は対処していると言うが、何をどうすれば対処となるのかすら私にはさっぱりなのだ。だからせめて説明してくれと言っているのに、これである。
彼は優秀な神官であることは間違いないので、それを信じるしかないが、どうしたって不安は残る。
「それはいいとして、お前、なんて格好をしてるんだ。服は用意しただろう」
「貴方の借りました。だって貴方が選んだ服、全部きっちりしすぎなんだもの。私、気楽な服が好みなの」
エーレの服と、エーレが用意してくれた自分の服を組み合わせて適当に着ているのだが、いつも文句を言われる。呆れた目で見てくるが、こちらにも好みというものがあるのだ。正直見た目はどうでもいいが、着心地の問題である。
「基本的な聖女の規定に沿った服を選んでいるだろうが」
「休日の私を参考に選んでほしいのだけど」
「あれは公共の場でしていい格好ではない」
そうでもないと思うし、更にいうとここは公共の場ではないのだが、長くなりそうなので流すことにした。正直私も、選べる贅沢に浮かれている自覚はある。
それはともかく、ちょっとしたお店での食事にも困らなさそうな服を用意してくるのは、聖女として振る舞えという無言の圧力なのか、はたまたエーレの趣味なのか。
エーレが買ってきた今日の夕食を紙袋から取り出して並べている間に、着替えを済ませたエーレが戻ってきた。席について食べながら話を聞く。
「選定、明日開始ね」
エーレは一口大に千切ったパンを静かに飲みこんだ。
「ああ。……本当に、自薦でいいのか? 自薦は人数が多い。それこそ一日や二日では収まらない数が国中から集まることになる」
「いいの。こんなことをしでかした連中は私の顔を知っているかもしれないけど、こっちには何の手がかりもない。でも、私には、私以外に記憶を持った仲間が一人いる。それしか武器がない。けれどそれが最大の武器だと思っているわ」
私は、フォークを突き刺した肉に大口を開けてかぶりつき、数度の咀嚼後、お茶と一緒に流し込む。
「エーレ。貴方は私の奥の手であり、懐刀よ」
フォークを机に突き刺し、口角を吊り上げる。
「今代聖女マリヴェルの名において、必ず聖女に返り咲きます。よって、神への忠義をその胸に宿す神官よ。神を侮辱し、国を謀った不届き者の喉笛、切り裂いてやりなさい!」
「御意」
深く、神へ向ける礼より僅かに浅く、王へ向けるものより僅かに深い、神官の礼。
かつて多くの神官から向けられたそれを望んだことは一度もない。今だって惜しんではいない。けれど、たった一人から向けられるその礼がこんなにも心強い。
聖女の座に未練はない。元より私に相応しいとは思えないし、気が付けばそこにあった不思議な地位だった。けれど、皆が大事にしていたから。私の大事な人達が、私を大事にしてくれた人達が、大切にしていたものだったから。だから、私なりに守ってきた。私なりに愛してきた。それを、奪われた。ならば、奪い返すまでだ。
それに、聖女の座に未練はなくとも、付随する責任を投げ出していいものとは思っていない。聖人のような心を持った女、ではなく、実際に聖なる力を持った女が現れる理由は、そこに神がいるからだ。幻でも幻影でもなく存在している神秘を蔑ろにした結果が平和であった例はないだろう。
敵が誰で、どんな力を持っているかは知らない。分かるのは、手段を選ばない、神をも恐れぬ精神の持ち主だということ。
でも、大丈夫。私も、野蛮な行いなら少しだけ得意だ。建国史上、もっともゴミ山と過ごした時間の長い聖女をなめないで頂きたい。どんな酷い臭いにも、醜悪な淀みにも、怯みはしない。そんな健全なもの、とっくの昔に捨ててきた。今の私にあるのは、捨てなければ生きてこられなかった部分に、捨てたものよりもっと素敵で温かい何かをぎゅうぎゅう詰め込んでもらった心だけである。だから、ほら、最強じゃないか。
むんっと気合いを入れてフォークを握った私を、ゆっくり顔を上げたエーレが見つめた。そして、静かに口を開く。
「だが、俺は武官ではない故に、正直、喉笛を切り裂くより先に手首が折れるだろう」
「悲しいね……思うんだけど、私がいま着ている女性用の服、着れるんじゃない?」
「着ない限り、着られないという可能性が残されている。それは希望だ」
「あ、はい」
ちょっと懐刀が刀の様相を為していないけれど、まあ、頑張ろう。