17聖
糸でぶら下がった操り人形劇を思い出す格好で一息ついた私は、むずむずする鼻周りを手の甲で拭った。べったりと赤がついたので、どうやらさっき死体の骨が当たった際に鼻血を出したのだと悟る。悟ったところでどうしようもないが。
「あ――……疲れた」
血の臭いを纏った溜息を吐きながら、空を見上げる。柱越しに見える少し掠れた空は、濃紺を纏っていた。試練は夜までとのことだったが、何時からを夜と呼びますか? そもそもいま何時?
私が自主的に磔になって押さえている背後には、椅子の山がある。そして壁と椅子の間には元気な死体が挟まっていた。椅子をぶん回し、飛び越え、すっ転び、腕を華麗に避けきれず顔面に喰らって鼻血吹いたりと紆余曲折の末、椅子の脚に挟んで歩みを封じ、他に転がってる椅子全部を使って閉じ込めたのだ。
そうはいっても、椅子に凭れる形で立っている私がどけば、山が崩れて死体が自由になってしまうのでここから動けない。
柱の外では、神官達がやきもきしながらこっちを見ていた。その神官の肩越しに凄い目でこっちを睨みつけているエーレが怖い。そして、そんなエーレに見惚れるご令嬢方。
何だか春の気配を感じる。こんな事態でも、乙女心に鍵はかけられない。かたや春の兆し。かたや腐乱死体とデート(見守り人つき)。
「私だけ受けてる選定の儀違いません? これ絶対、悪魔退治人とかの試験だと思うのです」
戦士でも探すの? だったら第一の試練腕相撲対決にしたらいいよ。
「同感ね」
神力の壁越しとはいえ、唯一同じ柱内にいる人間ココは、若干疲れた顔で頷いた。ぱっと見れば全然疲れたように見えないが、これでも私とココは天気について語り合う仲である。ココが何を考えているか、他の人よりは分かるのだ。ちなみに今は、あの頃もよく見た、私がうるさいから黙っていてくれないかなって思ってる!
「この頑張りに免じて、第三の試練免除なんてことには?」
「ならない」
「ですよねー……うぉ、まだ動く」
椅子越しに背中へ衝撃が伝わり、死体が元気な事実を知る。死体なので死んでいてほしい。
力を抜くと、椅子ごと弾き飛ばされてしまいそうな力で押される。肉は腐り落ち、骨にかろうじて引っかかっている状態なのに、どこからそんな力を出しているのか。本当に、惨い話だ。
「あの、これって傀儡術的な術でしょうか。ですが、死体への術使用は禁じられていますよね?」
「……選定の儀へこんなものを投入してくる奴が、禁術使用を躊躇うとは思わないわ」
ご尤もである。
命なきものを操る術を傀儡術と呼ぶが、生物への使用は禁じられている。倫理的にもそうだが、純粋に難しいからだ。脳か魂か、詳しく解明されていないが、生前培ってきた反射だの心だのが邪魔をしてうまく操れないのである。
だというのに、本能以外にもごちゃごちゃない交ぜになった人間という生き物の死体を操れるなんて、相当な術者だ。国中の記憶を弄り、その上死体を操る。まったく、とんでもない化け物もいたものだ。
「ちなみにこの死体、試練が終わった後どうなります?」
ココは少し考えた。話していいのか悩んだのだろう。そして、小さく息を吐く。
「一部分残して、破壊」
そうなるだろうな。禁術の痕跡が残る部位さえ残せば、後は破壊するしかない。彼女の命はとうに失われ、肉だけが禁術によって無理矢理使用されているに過ぎない。破壊された命は、悪臭と腐敗を生む。本人は勿論、他者の魂にもだ。
背中から、もうないはずの声帯を通した呻き声が聞こえてくる。綺麗に結われた髪、丁寧に整えられたレースのワンピース。両親に案じられ、見送られた娘。
「後どれくらいで終わります?」
「終了時間を告げることは許されていない、けれど」
「けれど?」
すぱっと断られると思っていたので、続いて首を傾げる。ココは、私をじっと見ている。
もしかして、潜在意識に刻み込まれた親愛の情によって、猛烈に私と友達になりたくなってきた!? 私はいつでも大歓迎です!
嬉しくなって満面の笑みを向けたら、ここまで淡々としていたココの顔が大きく変化した。
「もう、終わり」
心の底から面倒さが溢れる顔で告げられた言葉と共に、全力で押さえていた椅子が傾き始めた。椅子と共に後ろへ倒れていく私は、今日初めて神力の壁から出てきたココを見た。
柱内とココを隔てていた壁が無くなっている。それだけでなく、柱が、ない。
ああ、そうか。ようやく気づく。第二の試練が終わったのだ。
私達を中心とし、描かれていた神官の輪が急速に縮まる。支えを失った死体と椅子は崩れ落ち、当然私も倒れていく。その手を、ココが握ってくれた。体重を籠めて支えてくれたおかげで私の身体は斜めになったままぴたりと止まり、椅子の山に突っ込まず済んだ。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
「あと、ついでにごめんなさい」
「……は?」
斜めになった私を起こそうと籠めてくれた力に乗っかり、勢いよくココの懐に突っ込む。そして首元に手を回しながら、胸元に手を入れる。指先で留め具を外し、ココの首からぶら下がっている小瓶を奪い取った。
「このっ!」
「ごめん、借りる! あ、違う! 返せないからもらう! 奪ってごめん!」
咎めは後で受けよう。今は、神官が手を出す前に終わらせるのが先決だ。
ココから奪った聖水の小瓶を手に、椅子の山に潜る。
椅子の下敷きとなり、その死体は蠢いていた。骨が剥き出しになった無惨な死体。死因が何かは分からないが、死んで随分経っている。死んだ生き物ならばこの有様は当然といえ、あまりに惨いじゃないか。
年頃の、綺麗に着飾る姿に憧れだってあっただろう娘が、嫌悪と恐怖に見つめられながら腐り落ちるなど。きっと悲しむ。彼女も、彼女の両親も、きっと。
骨と肉の境界が失われた顔がぐるりと私を向き、吠える。最近流行の本で読んだが、その中では動く腐乱死体に噛まれた人間も動く腐乱死体となった。けれどここは本の中ではないし、その新刊は先日出たはずだがまだ読めていない。
これが人の齎した事態であるのなら、この死体は謎の伝染病ではなく禁術によって動いている。死体は、私を害したいと願う術者の命を忠実に守り、己の身体が引きちぎれるのも構わず食らいつこうとしていた。
「怒られそう……あ、エーレ以外に怒る人いない! じゃあいっか」
お説教相手が激減しているので、単純に計算しても怒られる時間は物凄く少ないはずだ。それなら話は早い。
私は、自分の腕を死体の口に突っ込んだ。ねずみ取りの罠が弾けるような速度で噛みついてきた歯が腕に食い込む。あっという間に真っ赤に染まった腕を自分から押しこみながら、無事な手の指で小瓶の蓋を開ける。
「帰りましょう」
私はまだ帰れないけれど、この人には帰りを待つ人も、帰る場所もある。だったら、帰ったほうがいい。帰る場所のある人が帰れない憂き目に遭う必要は、どこにもないはずだ。
ゆっくりと小瓶を傾ければ、光る液体が零れ落ちる。流石ココ。高い聖水を作ってる。私の血が死体の中に流れ込み、光が落ちた瞬間、耳を劈く絶叫が響き渡った。彼女の口は相変わらず私の腕を噛み千切ろうとしている。悲鳴はどこが発しているのだろう。彼女の魂だったのなら、笑えない。肉だけでなく魂まで囲って術を行うなど、非道の言葉では足りないだろう。
絶叫の中でも、彼女の歯は私の腕から離れなかった。しかし身体はのたうち回る。もうない胸を掻き毟るように、その身体を世界から隠そうとするかのように。
「大丈夫ですよ。ご両親はあなたのこんな姿、見たりはしません。私が見せません。まっ白なあなたで、ご両親の元へ帰りましょうね。大丈夫、綺麗なあなたで、帰れますよ」
火にくべられた紙があっという間に原形を失っていくように、肉が流れ骨が現れる。
聖女の力は閉ざされた。けれど私は、歴代聖女の誰もと違う。発現させるほどの神力を持たない代わりに、聖女の力が血に滲む。これを閉ざしたくば、身体中から血を抜くしかない。
そうはいっても、所詮は滲んだ程度の力。今だってココが作った純度高い聖水がなければ、彼女を解放などできない。
見る見る間に少女は潰えていった。本来彼女が辿り着くはずだった終焉の形を取り戻していく。白い骨の上で影が揺れる。神官達が椅子をどけていくのだ。最後の一つが除かれれば、世界は開けた。
だけど、もう終わる。誰の神力も必要ない。誰も、彼女を壊さなくていいのだ。
「ひどい悪夢でしたね。けれど大丈夫、もう覚めますよ。だからもう、眠りましょう」
私の腕に食らいついた少女の顎に、もはや力は入っていなかった。
腕を外し、両手で少女の顔を包む。そして、その額に唇を落とす。
「おやすみなさい。どうか、優しい夢があなたに訪れますように」
少女はかたりと、安堵に泣いた。