15聖
僅かな濁りも歪みも存在しない神玉の真円。人の背丈など優に超え、肩車をしてもらっても手が届くか分からない大きな神玉は、アデウス国教の象徴でもある。
巨大な神玉によって神を祀るここが、神殿の聖堂だ。四階ほどの高さがある天井まで吹き抜けが続き、それらを細かな紋章が入った柱が支える。ガラスによる窓はすべて二階より高い位置にあり、光は常に降り注ぐように入ってくる。
降り注ぐ光を受けながら、連なった聖女候補は静かに祈りを捧げる。壁際にはずらりと神官が並んでいた。これだけの人数が存在するのに、聖堂内は僅かな衣擦れの音しか聞こえない。
静かで、外より幾分か涼しい聖堂内は、いつだって厳かで穏やかで、懐かしい。
神様、さっきも言ったけどただいま。心の中で祈る。
一教として長い間在り続けたのに、アデウスの神に名はない。
その昔、アデウスに様々な厄災が蔓延った際、一人の聖女が現れた。聖女は神の声を民草へ届け、民草は真摯にそれに応えた。神と聖女により厄災を退けた後、神は敬虔なる民草へ褒美として神力をあたえたもうた。
そうしてアデウスの民は生まれ落ちたその瞬間から誰もが神力を持ち、様々な力となり発現した。聖女は神と共に国と民草を守り、民草は聖女への献身をもって神への祈りとした。
神玉を見たまま行っていた祈りを終え、視線を神玉以外へ向ける。まだ祈っている参加者ばかりで、私の眼前には聖女候補の頭ばかりが連なっていた。何かを危険視されたか、はたまた偶然か。壁際に並ぶ神官に一番近い位置であり、すべての参加者が見える最後尾に配置されたので、人々の後頭部越しに神玉を見る。
最初の一礼以外早々に頭を上げた私を、神官達が視線だけを動かして凝視していた。見知った相手だからこそ分かる警戒の視線に、小さく笑う。警戒されることには慣れていた。けれど、親しかった人々からのそれがこんなに寂しいとは、知らなかった。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに神玉を見る。相変わらず綺麗だ。綺麗を煮詰めたら、きっとこの神玉が出来上がる。
私は昔、この世界に神を見た。ゆえに祈りを信じた。今でも信じている。だからこその聖女なのか、聖女だから見たのかは知らない。知る必要のないことだ。
神様、神様、神様。
話は相手の目を見てするように。そう神官長が言ったから、神様にお願いするときは顔を上げる。真っ直ぐに前を見て祈れない内容を願うわけにはいかないのだ。
だから歴代聖女の中、私だけが頭を下げず祈る。傲慢だと怒り狂う人は多くいたが、神官長も神官も、理由を問うてくれた。そして、問うた後は二度と咎めなかった。
神様。
突き刺さる神官達の嫌悪を痛みと感じられればよかったのか。ただただ寂しいと思うこの気持ちが親愛からなるのなら、身のやり場をどこに置けばいいのか、私にはもう分からない。
神様。
あなたが選んだ聖女を、どうかさいごまで忘れないでください。
さぁさぁと光が降る。開いた掌で受け止めた光は、肌に溶け込むように消えていく。霧雨に似た細かな粒となって降り注ぐ光は、木漏れ日でも雨でもない。神力だ。
部屋に案内されるより先に始まった第二の試練は、神官が作り出した神力の囲いに決められた時間まで入っていること。それだけだった。
神力の囲いといっても檻ではなく、まるで巨大な水晶の中にいるようだった。
高位の神官が作り出した囲いは、本来目に見えないはずの神力を六角形の柱として現出させている。ほとんど透明だが、薄ら白みがかって見えた。
神殿の第三中庭には、この柱が何本も立てられている。一つの柱に入っている人数はそれぞれに約十人。全体数の都合により人数の少ない柱もある。まさに私のいる柱はその一つで、九人の人間が柱の中に収まっていた。
「あの、神官様……」
一人の女性がおずおずと声を上げた。柱自体は幾人もの神官が協力して作り上げたが、その後維持しているのは一人の神官だけだ。私達とは神力の壁一枚を隔てた場所で柱を維持している黒髪の神官は、話しかけた女性に視線だけで応じた。
黒髪の神官は、十四歳の若き天才ココ・イアスだ。神力を用いた神具作りの天才である。もう一人の若き天才エーレ・リシュタークと対で名が上げられる場合が多い。氷のように冷たい淡々とした喋り方も似ているとよく言われている。
しかし、氷のように冷たい人間は、脳天かち割り拳を生み出さないし、的確なツボ押しによって絶叫を上げさせたりしないとは思う。ココの目にもとまらぬツボ押しは、電流が走るかの如く激痛を生み出したものだ。
実は私ココとは、彼女手作りの寝間着夜会をする仲だったのだが、さて誰が信じてくれるだろう。
「どうぞ神官と」
十四歳の少女が向ける抑揚のない声での返答に、女性は目に見えて怯んだ。それでもぐっと堪え、緊張を隠さず話を続けた。その顔は血の気が失せている。
「本当に、夜までこのままなのでしょうか」
「この囲いの中では時が進まず、身体機能以外の生命維持を目的とする活動を必要としない。よって退出する理由がない。退出は、一律不合格と」
女性は思い詰めた顔で、分かりましたと静かに呟いた。そして椅子に戻り、深く俯いてしまう。なんとなく外を見れば、他の柱から数人の女性が駆け出してくるところだった。どうやらこの囲い、神力が多く降り注ぐため、合わない人間は酷く気分が悪くなるようだ。
第一の試練では、薄ら見えていたあの明かりこそが神力で作り出されており、見えない人間は暗闇で彷徨うこととなる。だが途中で見えるようになる人もいるようで、そのために駆け抜けたら五分の道程に一時間もの時間を設けていたらしい。
さきほど神官に問うた二十代前半ほどの茶髪の女性は、この柱内で唯一他薦枠でここにいる人間だ。つまり、私の敵候補筆頭の一人である。
国中から忘却され、ついさっき聖女の力まで閉ざされた私は、手負いの獣より形振り構わぬごろつきだ。どんな手を使ってでも、敵を引きずり出してやる!
私が心の中で聖女の威嚇姿勢を取った瞬間、大きな音がした。先程の女性が椅子を蹴倒し立ち上がったのだ。
そして、よろめきながら柱を出ていく。
「………………」
私の気合いを余所に、敵候補筆頭の一人、あえなく脱落です!
疑ってすみませんでした。
囲いは結界と違い、術者でなくても容易に出入りが可能だ。項垂れ、神官によって連れられていく女性の後を追うように、また一人の女性が出ていった。その顔は真っ青で、口元を固く押さえている。この中、合わない人はとことん合わないようだ。逆に心地よく感じる人もいるので、聖女の試練は体質も含めて運である。そして運命とは神が授ける物。だからまあ、素質も含めて運とは、そういうことである。
さぁさぁと降り注ぐ光は心地よく、まるで森の中にいるようだ。細かな泡が染みこむように、涼しくも温かな感触が肌を撫でる。この試練も問題なさそうだ。
私はくあっと欠伸をした。この柱を維持する神官はココだし、蜂も入れないし、昼寝でもしていれば終わるだろう。
そう思ったが、問題が二つあった。時折妙な臭いがするのだ。一瞬通り過ぎるように現れる臭いなので確認できないが、異様な臭いが気のせいのような短さで現れる。もう一つは。
「最悪最悪最悪! どうして頭のおかしい奴と神聖なる聖女の儀を受けなくちゃいけないの!」
あの赤髪の少女と同じ柱の中にいることである。
少女はずっと怒っていた。ありとあらゆる罵詈雑言を散らしている勢いは凄い。そこで、自分の行いを振り返ってみた。
「うむ」
激しく引いて、心の底から関わりたくない言動しかしていなかった。これは仕方がない。少女の怒りは正しい。周りの人も困った顔をしているものの制止していないので、きっと同じ気持ちなのだろう。私も私と一緒に試練を受けたくないから同感である。
真っ当な怒りを燃やしている少女を咎める権利は私にないので、甘んじて非難を受けよう。ただ、第二の試練が開始して恐らく一時間ほど経過しているのに、その間ずっと怒り続けるのは疲れると思うのだ。
「あのー、お怒りはご尤もなのですが、あんまり怒ると疲れると思うのでそろそろご休憩なさっては如何でしょうか」
「あんたがいるから怒ってるのよ!」
ご尤もである。
「でも、怒りすぎて気分が悪くなったら第二の試練を越えられないと思いますし、一旦落ち着かれてはどうかと」
「あんたなんかと同じ場所に閉じ込められて、気分よく過ごせるわけがないでしょう!」
またまたご尤もである。万策尽きた。どうしよう。
周りを見れば、この試練が始まるまでは嫌悪と恐怖と若干の怒りを浮かべた視線を向けてきていた人々が、今はどことなく私を応援しているようにも見えた。少女の意見が真っ当であっても、ずっと怒声を聞いているのも疲れるのだろう。あわよくば、私も少女も両方出て行ってくれないかな。そんな願いがひしひしと伝わってくる。
気持ちは分かる。だが私は万策尽きた身故、説得業界からは隠居します。幸い少女は私から最も離れた席にいるので、殴り合いの喧嘩には発展しないだろう。そして殴り合いならば、少女が武芸の達人でもない限り負ける気はしない。ただし、私は禁じ手と呼ばれているらしい技しか使えないので覚悟して挑んでほしい。
少女は周りの人間に相槌を求めるでもなく、一人でずっと怒っている。金切り声を上げ、丁寧に梳られていた髪を掻き毟りと、いらつきが抑えきれない様子だ。周囲の柱にいる面子もこちらが気になるのか、薄い乳白色越しの世界を興味深げに覗き込んでいる。
柱の周りを見回りで歩いている神官の数も、この柱周りが圧倒的に多い。当たり前だ。集合早々問題発言と行動をやらかした聖女候補と、それに対して怒髪天を衝いた少女が揃っているのである。この試練一の問題柱はここだと断言できる。
しかしこの面子は、厳正なるくじ引きによって集まっているのでどうしようもない。
選定の儀は、準備の段階から事細かに決められている。やれどれくらいの大きさの神玉を何時から何時までの月明かりに当てろだ、やれこの試練はこの土地でやれだ、それはもう面倒くさいほどに規約が溢れかえっている。
だからこの柱が試練一の問題柱となっても、聖女候補の入れ替えなどできないのだ。その柱を担当する神官がココなのは、彼女の実力がエーレと並ぶほどであること、そしてその整った顔から散々口説かれまくったのに見事華麗に淡々と無視という名の拒絶で捌ききった手腕を買われてだろう。
神殿が裏で苦労して采配している姿が思い浮かぶ。そのおもな原因は私だが。
そんなことを考えている間にも、ふらふらと何人かの女性がいなくなっていく。第一の試練でとんでもない人数が通過できなかったが、第二の試練でも全体数から見れば決して少なくない人数がいなくなりそうだ。
私達のいる柱からも、ぽつり、ぽつりと、女性が出ていく。涙を滲ませている人、疲れが隠せていない人、どこかほっとしている人。やはり様々だった。