14聖
「あんた、神殿に侵入した冒涜者じゃないの!」
私を指さした少女に見覚えがあるようなないような。
神官ではないはずだ。神官ならばたとえ選定の儀であっても神官服を着ている。ならば王城の使用人だろう。神殿内部は掃除や庭園の維持なども含め基本的に神官だけで回しているが、アデウス国では神殿と王城は通路だけではなく建物としても繋がっている。客人及び聖女候補が寝泊まりするのもその建物になるはずだ。そこには当然神官以外がいるし、神殿内に神官以外の使用人が出入りするのは珍しくない。
巻き癖のある赤い髪を丁寧に編んで纏めた少女は、私と神官長達を交互に見た。癖が強い髪がうまく押さえ込まれた編み方は、一人では難しいだろう。誰かが丁寧に編み込んでくれた髪を振り回し、少女は周囲から視線で問われる疑問に答えた。
「どうしてこの人がこの場にいるんですか! この人は、一般人不可侵の神殿深部に侵入しただけでは飽き足らず、聖女の服を勝手に着用していたんですよ!? 神官長様、この人に罰をお与えください! この者は、この場に立つ資格がありません! この人の行動は神殿を、ひいては神をも侮辱したも同然です!」
興奮しているせいか所々ひっくり返る箇所はあれど、よく通る声をしている。演説向きだ。
彼女の両親は驚いた顔を隠しもせず、少女を見ていた。神官長は、真っ直ぐに私を見ている。このまま沈黙を続けはしないだろうと思った矢先、神官長がゆっくりと口を開く。その前に口を滑り込ませる。姑息さなら任せてほしい。
「どこのどなたかは存じませんが、残念ですね、お嬢さん! 私は聖女候補なのです!」
ばんっと掌で叩きつつ胸を張る。勢いがつきすぎて咽せた。自分で自分に痛手を与えてしまった。仕方がない。こんなこともある。
「それが何よ。そんなのなんの理由にも」
「それがなるんですよ! ありがたいですよね!」
「はぁ?」
嫌悪を滲ませた声に不可解さが満ちる。しかも一人分じゃなかった。あちこちから思わず漏れ出ましたといわんばかりの声が重なった。そんな周りをぐるりと見回し、立てた親指を自分に向け、かっと笑う。にっこりなんて可愛げのある笑い方はできなかった。勢いだけの笑顔は、猿の威嚇みたいだなといつも思う。
「私が盗みを働こうが、あなたをぶん殴ろうが、ここで素っ裸になって奇声を上げようが、神殿も王城も私を追い出すことは叶わないのです」
「何、言って」
「何故なら私は聖女候補です。試練を落選しない限り、聖女候補で在り続ける限り、この国の何人たりとも私を追い払えない。それがアデウスの理です」
舞台に立つ役者のように大仰な身振り手振りを交え、私は歩き始めた。
「あなたが仰ることは事実です。私は確かに神殿の禁を犯しました。けれど、ああ、なんということでしょう。私には記憶がないのです。気がつけば、聖女様の服を着用し、神殿の奥深くに立っていたのです。勿論、いけないことであると理解しております。けれど、そうしてあの場にいたのです。私は確信致しました。これは神のお導きであると。きっと神は、私が聖女なのだと告げられたのです。ですからあのような姿で私を神殿へお招きくださったのでしょう」
歌うように言葉を紡ぎ、踊るように歩を進める。周囲は先程まで浮かべていた嫌悪に変わり、恐怖を浮かべた瞳で道を空けてくれた。おかげで、何に邪魔されることなく先頭へ辿り着く。
神官長達は正門外へ出ていない。開いた門の中からこちらを向いているのだ。正門から三歩離れて立っている神官長の前に立つため、私は正門の中へ足を踏み入れた。同時に声を上げる。
「私はマリヴェル。第十三代聖女マリヴェルです。神様、あなたのお導き通り、私はここに帰って参りました。聖女マリヴェル、帰還致しました」
神様、聞こえておられますか。神殿に聖女が帰還しました。これは当代聖女の宣言です。
ですから、聖女不在において与えられてきた厄災という名の罰は必要ありません。何があろうと降らせないでください。当代聖女はここにおります。
決して、神殿にも神官長にも罰をお与えになられますな。
後で神殿内からもう一度祈っておこうと決める。周り中から異常者を見る目が注がれるが、構うものか。いまさら取り繕えるものなど残ってはいない。
兵士を含め、戦闘を得意とする面子がそれぞれの上官へ視線を向けている。私を止めるべきか否か迷っているのだろう。私は誰に邪魔されることなく神官長の前に立った。神官長を見上げながらにこりと笑う。
「神官長様、どうぞこれからよろしくお願い致します」
ゆっくりと手を差し出す。様々な行事のために、優雅に見えるよう、けれど華やかすぎぬよう厳格に、美しく見える所作を血が滲むほど練習した。
練習の度、参考にしたのはあなたの動きだった。あなたのように長い手足も大きな身体も、品も教養も善なる心も持ってはいないが、神殿の儀を執り行うあなたの動きが滝のように美しく、憧れた。
厳格さと目つきの悪さが紙一重な瞳も、あなたが形作ってきた年月を彩る皺も。柔らかく細まる目尻に刻まれた笑みは尊く、その愛に憧れた。この人に無条件に愛される人間はどれほど幸福だろうと、思ったのだ。
「……君の言は、正しい。君が選定の儀を通過する限り、我々は大切に君を迎えよう」
差し出された大きな手が私に向かって伸ばされる。そのとき、風向きが変わり香の匂いが流れてきた。森の中の水場のような、土と花と水と木。そんな香りの中に、墨と本の匂いが混ざり合っている。大きな手に触れる間際、自分の掌に力を集める。光が胸の内から溢れ出し。
雷のような音を立てて、弾けた。
同時に、私の中で帳が下りていく。次から次へと重なる帳が、私と身の内にある光を遮断していく。光が閉ざされる。まだ朝を迎えたばかりの世界の中、私の光が閉じていく。そして、何かが軋んでいた。ひどい軋みと何かを損ねる音が響き渡る。
私の中は、閉ざされていくだけだ。それだって相当なことだが、この軋みは私の何かに起こったものではない。私を閉ざす何かが、損なわれている。神の力を閉ざす。これは、めちゃくちゃな暴挙だ。それを行うものが無事でいられるはずがない。それでも、誰かはそれを行った。自らを軋ませ、酷い損壊を負ってでも。
不変であるはずの聖女の力が閉ざされたのに、私の内に恐慌は現れない。
「神官長様!」
大きく弾けた音に、見知った顔の神官達が血相を変えて神官長を背に庇う。兵士や王城関係者も真っ先に第一王子を庇い、人の壁を作る。私から距離取らせようとした人が殺到し、神官長が一歩一歩下がっていく。己の掌を見つめる見開いた瞳が、人々の頭越しに私へ向けられた。
そうして、私という個に対し、何の意味も持たぬまま通り過ぎた。
その視線を追いかけず、じくじくと傷む掌を握り混む。掌に怪我はない。派手な音と衝撃が走り、弾かれたような痛みはあったがそれだけだ。それだけなのに、大声で笑い出したい。
これで、確信した。不確定で曖昧な想像でしかなかったものが固まった。
悪意だ。これは、私に向けられた紛う方なき悪意だった。
ああ、ああ、そうか。そんなにも私が憎いか。どこの誰ともしれぬお前は、それほどまでに私に憎まれたいか。己を損壊させてでも私に絶望を与えたかったのか。私が神官長の記憶を取り戻そうとするまで手を出さず、失敗だと明確に知らしめるまで待ち、聖女の力を閉ざすほどに。
これを偶然と呼べるほど、柔らかな生まれをしなかった。どうやらこの敵、どこまでも私のすべてが許せぬようだ。だが、安心してほしい。そんなのこちらも同じだ。
兵士達が腰に手をやり、剣を抜き放つ音が聞こえる。まるで嵐だ。人の声も金属の音も衣擦れも、何もかもが。しかし、不思議と心の中は凪いでいた。怒りも一周すればただの覚悟となるんだなと、知りたくもないことを知ってしまった。
私を中心にあっという間に離れていく人の流れの中、立ち止まっている薄緑がいまどんな顔をしているのかは分からなかった。青ざめているのだろうか。それとも揺らがぬ瞳を持ってそこに立っているのか。
視線は向けない。私達は他人だ。それは間違いなく。だが、この場に必要なのはそんな事実ではなく、私は一人であるとの他者からの認識だ。
私はひょいっと肩を竦め、両の掌を広げて見せた。
「やだ、凄い静電気出ちゃいました。痛かったぁ。神官長様、申し訳ありませんでした。どうにも私、静電気体質で。冬場など凄いのです。あっちの取っ手でばち、こっちの取っ手でばち、終いには自分の頬を触ってもばち、で」
ひそひそさわさわ、言葉が私を取り囲む。「どこかおかしいんじゃない?」「近づかないほうがいいわよ」「この人と一緒に選定を受けるの?」不安と軽蔑と嫌悪が混ざり合う。ゴミ扱いだったスラム時代に向けられた視線や感情と大して変わらない。むしろ懐かしいくらいだ。そして、その言すべて、同感だ。
私が聖女の時代に生まれた皆々様、ご愁傷様です。
「どうぞご安心ください、神官長様。私は神力が測定できぬほど低いのです。割り札に指紋を刻めたので全くないわけではないはずですが、0に等しいほどでございます。ですから、あれは静電気でございます。ええ、そうですとも。私にはあなたを攻撃できるほどの神力も、また理由もございませんので。――それでも」
どこからか見ているのだろう。そうでなければ、こんなにもぴったりの間隔で私の力を閉ざせはしない。だったらちょうどいい。その殺し合い、買った。
私は普通と定義される生まれとは程遠い。それでも、真っ当に育ててもらった。人として慈しんでもらった。だから人になった。
怒りと憎悪で行動するのは簡単だ。それらの熱量は簡単に燃え上がり、莫大な力となる。その力を、安易に使う愚かさを教えてくれた人々を取り戻したいのだ。
だったら、私がなすべきは決まっている。取り戻すものが一つ増えた、これはただそれだけのことだった。
ぐるりと視線を回し、この場の誰とも視線が合わない場所に固定する。この場を見ている誰かへ向け、勢いよく立てた親指をひっくり返す。
「当代聖女は、私です」
怒りではなく、大切な人々への思慕を以て、お前を叩き潰しましょう。