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「聖女様! エーレ!」


 大地すら波打たせる木の根を飛び越えたナッツァが、目の前に降ってきた。

 重たい身体で器用に着地したナッツァは怪我もなさそうだが、木の根が掘り起こした土が世界に巻き散らかされているせいか、体中土塗れだ。

 それを気にもとめず、頭に乗った土をそのままに、私達の無事を見て安堵している。


「そなたら、余の存在を忘れすぎて不敬」


 よく見れば、その腕の中にルウィが抱えられていた。ナッツァの腕から降りたルウィは、不敬と言いつつもどこかご機嫌だ。


「余を抱えた状態で飛び回ろうと、息一つ乱しておらぬとは。上出来ぞ、神兵」

「殿下! 筋肉をご所望でございますれば、我らも、我らもご満足いただける仕上がりまで持っていけますゆえ!」


 ルウィの部下達が悲痛な声を上げているが、彼らはどこにもいかなくていいと思う。

 しかしそんな騎士達へ向け、ナッツァは快活な笑顔を浮かべた。白い歯が北の大地に燦然と輝く。


「一緒に鍛えるのなら大歓迎だ! 神殿はいつだって、筋肉の同士を求めている!」

「よ、よろしくお頼み申す!」


 神兵の選抜基準は筋肉ではないし、神殿は別に筋肉の同士を求めていない。

 どう考えても騎士はお頼み申してはいけない案件なので、どうか目を覚ましてほしい。

 あと、ルウィは海老にならないでほしい。

 確かに当代聖女の神殿は、人柄と実力で判断してきたつもりだ。しかし、実力とは決して筋肉の話ではないし、神兵は筋肉を極限まで育て上げよと命じた覚えもない。


「当代聖女は筋肉が好みなのか……」


 それなのに、意外そうな顔で私を見た騎士がそう呟く。その目は、ナッツァの下に弟子入りしそうな勢いの同僚へ向けてほしい。

 神兵がサヴァスの下で筋肉を育て上げているのは純粋に彼らの趣味であり、私は一切関わっていない。それなのに、とてつもないとばっちりが飛んできた。

 そもそも私が筋肉を好んでいれば、エーレを好きになるはずがないではないか。

 後頭部を引っぱたかれた。振り向かずとも、執行者は分かっていた。


 


 私達のすぐ横を、うねった根が通り過ぎていく。数歩位置を調整してそれを避けた私達の会話は、自然と元の流れへ修正された。


「マリヴェル、この根はアリアドナによるものか? 」


 私を引っぱたいた掌を振っているエーレに、頷く。


「まあそうでしょうね。王都に生えた大樹と同じ気配を感じます。新たに生やしたというよりは、王都から伸ばしてきたと見るべきです」


 どうやらアリアドナは、アデウスの民奴隷化の足係となるこの北の地に、大層ご執心のようだ。

 ここまで来れば、その憎悪、よくぞここまで隠し通したと、うっかり賞賛したくなるほどである。

 けれど、理由はそれだけだろうか。


「……この根がここにあるということは、王都は完全に彼女の手に落ちた可能性が高いです。この根は、酷く安定しています。動きを阻害するものが存在しないのであれば、この距離を貫いてきた速度も頷けます。けれど」


 完全に彼女の手足としてこの根があるのならば、北の地に生えた理由は、アデウスの民へ執着しているだけではないのかもしれない。


「それならば、もっと早くこの状況に陥っていたはずです。あの神玉もどきとて、とうの昔に完成していたはずですよ。何せ……アリアドナの懐には、王都中の人間の命がしまわれているのですから」


 アデウスに生まれた人間全てを、神力の貯蔵庫にしたくらいだ。人を燃料とする行為に躊躇いがあるとは到底思えない。


「それなのに、いまこの時、根は現われた。私達がこの地に現われて初めて、アリアドナの根は動いたのです」


 この国で、彼女が執心する存在は、ある意味で酷く少ない。アリアドナが動いたのであれば、そこには必ず理由が存在する。

 最も神の力を得ている女が神に成りきれていないのは、私の中に彼女が育てた鍵が存在するからだ。彼女が十二回もの生を経て育てた鍵は、彼女が喰らった十二神の力を完全に己が物とする為に必要な最後の部品である。

 私を追ってきたのか、アリアドナ。

 星の中ではなく質量で現われたのは、彼女がかろうじて神に到達できていないからだろう。

 現状敵なしであるはずのアリアドナは、それでも星の中では危ういとみて、大樹の根を伸ばしてきた。

 慢心して神として仕掛けてきてくれたならよかったのに、流石にそう簡単にはいかないようだ。

 ハデルイ神の承認があり、幼き神の証人があり。元より人ではなかった私は、だからこそ神としての有り様がこの身に馴染みやすかった。

 よって抱いた神力に違いはあれど、今ならば私のほうが神に近しい。

 ゆえに、アリアドナは星の中でしかけてはこなかった。

 流石は初代からアデウスの聖女を務めてきた女である。次の代も自身となることが確定していたこともあり、後腐れの厄介さを誰より理解していたのは彼女だろう。

 最後まで盤上をひっくり返されるような手抜きはしないようだ。

 それでも、疑問が生じる状態だけれど。


 すっと表情を消したルウィは、凪の海のような声で言った。


「王都へ帰還したい。……可能か」

「――――ええ」


 アリアドナが王都に植え付けた大樹の根がここにあるのならば、辿れるだろう。先ほど神玉もどきを実らせていた本体へ辿り着いたように。ミグ・ゴウジュの記憶を探ったように。

 ようはあれの応用だ。違うのは、私達の血肉も共にそこへ運ぶことだけだ。

 おそらく、出来る。可能だ。

 感覚ならもう掴めているのだ。


 気がつけば、アリアドナの出身地へ移動していた事実に対し、エーレとルウィは何も言わなかった。どういう原理により移動したのか、誰の意思によるものか。気にしていたのはそれだけで。

 それさえも、おそらくはハデルイ神が最後に与えてくださった庇護によるものだという、不確定な情報だけで納得してくれた。

 誰も、何も言わなかった。

 それは、王都を案じていなかったわけではなく。王都を離れてしまった現実を憂いていなかったわけでもなく。

 事実を、ただ飲み込んでくれていただけだった。

 王都はアデウスの要である。それが事実であっても、戻る理由がそれだけでは決してない。

 良くも悪くも、王都に機能が集中している現状。第一王子、聖女、名家の末の子。それらの知人が王都に集中していることは自明の理。故郷に知人が多いのは必然である。

 王都へ戻らなければ。それは当然の責務だ。

 けれど、戻りたいと願う心を許してほしい。

 親しい人々を案じる願いを、どうか差別と呼ばないでほしい。

 神官長。

 皆。

 私に世界を与え、私の世界から零れ落ちることを受け入れた人達が、あそこにいる。

 仮令もう、いなくても。

 あそこに、いるのだ。


 王都は、あの人達がいる地として私の中に刻み込まれていて。

 あの人達と過ごした地は、どうしたって恋しくてならない。

 死体があるなら弔わなければ。なければ、見つかるまで探し続けなければ。

 誰もいなくとも。

 何も見つからなくとも。

 あの人達と過ごした時間を感じ取れる、その全てが消え去っていたとしても。

 生きていてと願う心を抱くには、希望が壊滅的に潰えていたとしても。

 あの日々が私の根幹である以上、私は永久に帰りたいと思い続けるのだろう。





 木の根を辿れば、王都へ戻れる。そんな実現不可能な事実を現実と変えられるのは、私が人形の枠組みから外れたからに他ならない。

 だって私にはもう道が見える。遙か彼方まで続く道。これを辿り、王都へ戻ればいい。

 道は既にアリアドナが作った。私は二人を連れて星に溶け込めばいいだけなのだから、造作もない。

 荒れ狂う巨大な木の根が起こした風により、私達の髪と衣装が激しく舞い上がる。けれど徐々に、私と左右にいるエーレとルウィの周辺だけが様変わりしていく。

 まるで水の中にいるかのようにゆったりと靡く白い髪が見える。その視界の端に、私達の足下が見えた。

 そこに、私達の影はなかった。

 一足早く、星に溶け込ませてしまったわけではない。

 二人は命の枠組みを外れたその時から、影を失ってしまった。ちなみに私の影はただ回収されただけである。元より人に似せて作られた過程でつけてもらった、付属品に過ぎなかったのだ。

 けれど二人の影に関しては、私の失敗であってほしかったなと思っている。



 神様ならば、星渡りも世界の移動も瞬き一つ。命に触れず星の中を通るなど、それこそ呼吸のように無意識下で行えてしまえるのだろう。

 私にはそんなこと、何百年経とうと出来る気がしない。

 けれど、道は既に出来ている。だから迷子になることはなく、初めての移動でもそんなに案じていない。

 神玉もどきとミグ・ゴウジュからやりとりを取り出したことで、練習だって出来た。

 時々、思うのだ。

 アリアドナが自身を守る為に作った制度が私を守り、自身の願いを叶える為に作った道が私に彼女を知らしめた。

 空の玉座を神とし、民に虚構を祈らせた。ゆえに民は祈りを忘れず、神を失わなかった。

 新たな神が君臨する座は、民の祈りによりアデウスから損なわれることなく在り続けた。

 彼女が全権を扱うがため神殿を作った結果、現神殿は神官長を基盤とし十三代聖女の形へと切り替わり、私を生かした。

 若輩者であれば御しやすかろうと選んだ神官長が、ディーク・クラウディオーツその人だった。

 聖女を崇拝させようと彼女が定めた基盤が、あの人を形作った。誰より正しき神官として立ったあの人が、私を育て、神殿を立て直した。

 アリアドナが定めた規範による正しき神殿として、作り直したのだ。

 アリアドナが自身の都合のいいように作り上げてきた土台が、彼女の邪魔をし、彼女の企みを阻む不穏因子を守り、最終的に王都へ到達させようとしている。

 この現象は、彼女が特別不運なわけではない。その手腕に関しては言わずもがな。

 平然と命を溶かし、民を奴隷として他国に売り渡そうとするほどの憎悪を、ここまで見せなかったほどに。彼女は、優秀だった。

 神を喰い殺した彼女にも、人の為の人形だった私にも、神の加護はない。本当は、私も彼女も然したる違いなどなかった。

 けれど私は、人に恵まれた。

 そして、その人々を愛した。愛し、愛された。

 違いはただそ、れだけだったのだ。





「聖女様!」

「殿下!」


 沢山の声が私達を呼ぶけれど、このまま正規の手順に則った時間を、この地で過ごす猶予はない。


「我ら三名は、これより王都へ帰還します。神兵は引き続き、北の守護を命じます」


 願いだけが先走り、現実が追いつかないもどかしさを払拭する術を、私が持ってしまったのだから尚のこと。

 この地で起こった異常を認識していながら、通り過ぎるしかない。後始末どころか対処すら丸投げにして、この地を去ろうとしている私達を責める者はどこにもいなかった。

 逃げるのか、置いていくのか、放っていくのか。

 我らを見捨てるのか。

 そう責めてくれたほうが心安まるほどに、誰の目も私達を案じる光しか宿していない。

 私達だけが、己を責める。

 アリアドナの根が私を追ってきているのなら、私がここを去るのが一番いい。けれどそれは不確定な予想だ。

 それなのに、私達は王都を優先する。不甲斐ない聖女を持ったこの時代の民は、本当に貧乏くじばかりだ。

 未だ勢いよく地上から生えている木の根へ、再度意識を固定する。以前の私なら不可能だったが、今の私ならば、出来る。

 そう、改めて確信した。

 だってこんなにも、アリアドナは自らの痕跡をアデウス中に這わせているのだ。

 まして行き先は見も知らぬ土地ではなく、住み慣れた王都。

 私にとって慣れ親しんだ王都から通ずる木の根で北の地に現われたのは、悪手としか言いようがない。

 わざわざ意識を集中させずとも、お父さんの元へ帰りたいと願う心が、勝手に王都までの道行きを辿っていた。


「シャーウ・サオント!」


 ルウィが叫ぶ。


「しばしの間、北方での全権限を与える! 王城の許可を待たず行動せよ! 全ての責任は王族が取る!」


 いまこの場における最高位責任者である王子と聖女が、最も決断を下さねばならぬ状況下でこの地を離脱する。

 せめてもうほんの少しでも、この地が落ち着いてからなら話は違っただろうが、騒動真っ只中で放置し、この場を去るのは無責任甚だしい。

 それでもシャーウは声を張り上げ、ルウィに応える。


「光栄にございます、殿下! 聖女様! アデウスの北は、サオント家が決して抜かせはしませぬゆえ、ご安心くださいませ! 北の地は我らにお任せあれ!」


 国の命運には、王都も辺境も同じほどに重要だ。

 辺境伯に王城を通さぬ完全なる権限を与えることは、国の要に独立国家を築かせると同義である。


「どうかご武運を!」


 ルウィはシャーウを信じた。

 シャーウもまた、第一王子からの信頼に、誠意ある忠誠をもって応えるだろう。

 しかし改めて、そんな無法地帯と化した神殿が王城の隣にあるアデウスは、世界的に見てもかなり奇異な国であったのだ。

 そんなことに気づけないほど、神殿は当たり前に強権を保持していた。それはひとえに、アリアドナの手腕だった。

 アリアドナの悲願が達成されようとしているこの時代に生まれたアデウスの民は、ありとあらゆる意味で不運だ。

 だというのに、才溢れ、清廉なる人材が溢れた時代に生まれた事実は幸運だ。

 アデウスは悪意によって落とされない。私などいなくとも、今を生きる人の力でどうにかなる。

 そう信じられる。

 だからこそ私は、彼らが進む道がほんの少しでも平らかになるよう尽力したい。

 本来私は、その為に創られた。それを人は使命と呼ぶのだろう。

 

 私に命はないけれど、私は命になれないけれど。

 私という個の使い所は、いつだって人の為であるべきなのだ。

 これは神の御意志である。

 人を愛した優しい神の、遺志である。


 視界が揺れ、身体が星に溶けていく。


「エーレ」

「御意」


 私に応えたエーレの炎が立ち上り、空をも貫き轟いた。

 空を覆うため集結していた木の根は炭化し、あちこちで崩壊を始める。この時期北を埋め尽くす白に負けじと、黒が世界に降り注ぐ。

 根元を失った根は地面に倒れ伏していった。まだどこか意思を残しているのか、完全に断ち切れた根は、それでも空を目指しながら、浮かぶような速度で落ちていく。

 その様は、巨大な生き物が倒れ伏す様子に似ていた。

 そうして地に落ちた根から、凄まじい速度で新たな芽が這い出ていく。芽吹いた、などと、好意的に表現できる状態ではない。

 死体を食い尽くして溢れ出た蛆の如く、世界に侵食する菌糸の如く。

芽が、這い出てくるのだ。

 悍ましき根へ兵士達が飛びかかり、次から次へと刈り取っていく。エーレの炎を使い、燃やしている神兵も多い。

 彼らはエーレが命の枠組みから外れた事実を知らない。それでもエーレの火力は誰もが信頼しているのだ。

 しかし持久戦となれば、エーレの炎があろうと圧倒的に人が不利となる。捕らえたウルバイの捕虜も、この状況下で解放など出来ない。

逃がしたところで、背を向けて逃げてくれるとは限らない。彼らにとって、アリアドナは協力者なのだ。

 これ幸いととって返されては対処できない。

 もしも、木の根がアデウス軍とウルバイ軍の区別をつけるのであれば尚更だ。アデウスは、木の根とウルバイ軍に挟撃されてしまう。

 それでも。


「殿下、聖女様、お早く! 王都が落ちては、我らは帰る家を無くしたも同義! 我々を亡国の民とせんが為にも、どうか!」


 早く、王都へ。

 シャーウの言葉と共に、兵士達が雄叫びを上げる。ここにきても士気を損なわずいてくれる彼らに、全てを託す。

 事情と感情、どちらにも急かされるがまま、私達は星へと溶けた。




 星の流れに身を任せる。

 私が下手に操縦などせずとも、たぐり寄せられるように心身が引き寄せられていく。

 まるで呼ばれているようだと、思う。

 あの人達が私を呼んでくれていたらいいのにと思うのは、ただの願望なのだろうけれど。


 私が製造されて後、最も長く過ごした土地が生み出す温度。音。香り。最も馴染みのある地を、人は故郷と定義した。

 私達が王都へ向かうのは事態収拾の為である。

 そして、ただの帰宅だった。






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