10聖
夜中と言うには早い時間。子どもが走り回っていれば疑問に感じる時間。足早に家路につき、夕食に思いを馳せるには些か遅く、眠りに誘うには早すぎる。そんな時間でもぞろぞろ人が歩いていた。屋台もあちこちで夜を彩る手伝いをしている。
さすが、国を挙げての行事。いつもは閉まっている店も開いているし、客入りもなかなかだ。みんな楽しそうで何よりだが、試練会場のことを考えると、流石に日付が変わる前には店も客も撤収するはずだ。その前に今日の宿を探さなければ。
だが、明日神殿に行くなら、いっそ正門前で野宿してもいいのでは?
この時間ならまだ馬車が出ている。正門前には当然門番がいるし、先日泊まった宿より百倍は安全だ。それもいいなと思い、欠伸を一つ浮かべる。
「神力と、聖女の力が不安定に、ねぇ」
掌を握って開いて、じっと見つめる。
あのとき、誰の手をも振り払い神官長に駆け寄って力を使うべきだっただろうか。しかし、攻撃と見なされれば流石に叩き出されるだけでは済まなかった。殺された可能性も高い。
当たり前だ。神官長の目の前まで迫った暗殺者に恩情をかける者を警備になどおいておけない。それは正しい判断だ。むしろ、そんな暴挙に出た私を殺しにかからない警備はクビである。
「……敵見つけて蹴り飛ばせば全部元通りになりませんかねぇ、んん?」
人の視線と動きが不自然だ。警邏を見かける頻度も高い。走ってはいないが、足早に移動していく様子を見るに、どうやら揉め事のようだ。
気にはなるが、下手に近づかないほうがいいと判断し、進行方向を変える。さて、今晩どうしようか。やっぱり正門前が最適解かな。
「ぁあん!?」
馬車を掴まえようと視線を巡らせれば、暗がりから伸びてきた何かによって腕を引っ張られ声が裏返った。びっくりしすぎて、ごろつきの威嚇みたいな声が出た。
完全に油断していた視界はがくんとぶれ、踏ん張るどころかたたらを踏む余裕すらなく、横っ飛びに路地へ引きずり込まれる。
路地は薄暗く狭い。通りとしてより、通路として使われる類いの道だ。これは大声案件かと、一拍遅れた思考に従い大口を開ける。すると、私よりよほど慌てた声がした。しかもその声に聞き覚えがある。
「ちょっと待て!」
慌てた声と手が伸びてきて、私の口を直撃した。
「いっ……!」
べちんと張りついた掌自体はそれほど痛くなかったが、その衝撃は削げた顔に効く。響いた痛みに思わず呻くと、声と掌が一歩分離れた。
「すまん!」
「ったぁー……こんな所で何をやっているんですか、エーレ」
包帯の上からとはいえ傷口を触ってもどうにもならない。けれどなんとなく触りたい。妥協案としてまったく意味のない顎を二本の指で揉みながら視線を向ければ、高そうな外套を深く被ったエーレが向かいの壁際まで下がって張り付いていた。
狭い路地なので大した距離ではないが、背中を壁にぴったり張り付け、両手を顔の横に上げているので、どう見ても私が彼を追い詰めている。濡れ衣である。
よくよく見れば、高そうな外套は自前で、その中身は神官の服だ。式典用の物ではないが、エーレは一級神官なのでそれなりに装飾が多い。どう見ても夜中に一人でうろついていい格好ではなかった。
暗がりの中でも、まるで月明かりが集中しているかのように輝く髪と美貌である。色んな意味で夜道には気をつけたほうがいい。
「こんな時間に一人で出歩いたら危ないですよ。いくら警邏がいるとはいえ、不届き者も多くうろついていますし。エーレは綺麗な顔をしているのですから、特に夜は気をつけないと男女問わずに襲われますよ。どうしてこんな所にいるんですか? いま神殿大忙しでしょうに」
「……お前が消息不明になるからだろうが!」
「うわびっくりしたぁ!」
突然ぐわっと怒鳴ったエーレに、私も壁に張りついてしまった。
「消息不明も何も、神殿に行くまで会う予定もなかったではないですか」
「マリヴェルお前、割り札使わなかっただろう」
エーレは、ようやっと下ろした手を胸の前で組み、私を睨んでいる。
「そういえば」
「あれが使用されれば自動的に神殿側の割り札へ通達がくる。それなのに、一切使用した形跡が無い。何か問題が発生したと思うだろう。今も向こうの通りで騒ぎを起こしたがらの悪い集団が出たというのに」
「そうなんですか。どうりで騒がしいと。それに、割り札のあれ画期的な神具ですよね。最初に考えた人天才。技術公開できないのが惜しい」
「間諜の仕事を助けるわけにもいかんからな……話を逸らすなマリヴェル!」
「逸らすんならもっと高速で逸れていける話題選びますよ! これはただの世間話です!」
割り札は、そもそも使う暇がなかった。最初に泊まった宿は問題がありすぎて割り札を見せるのは躊躇われた。残り二日は、保護機関の一室で意識不明中に過ぎていた。どこで使えというのだ。
ため息と一緒にぐしゃぐしゃと掻き回される美しい髪が不憫だ。美しい人間は、己の美に無頓着である。無造作に崩されようと美しいものは美しいし、夜道を一人で歩かないほうがいい。
「エーレ」
「何だ」
「わざわざ一人で神殿から出てこなくても。危ないですよ」
「……俺を何だと思っているのか気になるが、元々出てくる仕事があった。お前の安否確認だけじゃない」
「この忙しい時期にあなたが出てくる仕事ですか?」
ありとあらゆる理由でてんてこ舞いだろう神殿を思う。阿鼻叫喚だったらどうしよう。私は選定の儀に関わったことがないので内実を把握していないが、大きな行事が起こる度に事務も実働部隊も皆が死にそうになっている現場は何度も見た。そのうちの一人が私なので、よく分かる。
その大忙し真っ只中のはずの神官が、夜道に護衛もつけず徘徊。非行は暇なときに走ってほしい。
そう思っていると、何故かエーレが半眼になった。
「言うまでもないことだが、夜遊びじゃない」
何故神官達は人の頭の中を読むのか。
「先の試練、想定以上の参加者により二日目からは二級神官以上の応援が入った。お前の安否確認がなくとも出てきてはいた。だが、神官として一番優先されるは聖女の安否確認だ。一度目はお前の意思を尊重したが、その結果がこれなら俺にも考えがある。説明を要求する。その怪我はなんだ。これまでどこに泊まっていた」
「えーと、その辺で。ほら、宿いっぱいありますし」
「その怪我はどうした、マリヴェル」
「えーと、その辺で。ほら、壁いっぱいありますし」
「……壁? マリヴェル、お前ちょっと包帯の下を見せろ」
「うわ藪蛇!」
無造作に掴みかかられ、包帯を鷲掴みにされた。
「ちょ、何ですか!? 警邏呼びますよ!?」
「呼んだところで、現状において不審者はお前だ。俺がどれだけ襲われてきたと思ってる。そしてどれだけ返り討ちにしてきたと思ってる」
「うっわ、顔がいいって大変……この状況で警邏呼んだら私が暴行犯? エーレに恋い焦がれ? 私が? エーレに? 私が? 奇妙奇天烈にも程がある」
「俺が持ち得るすべてを使い、お前を牢に叩き込んでやる」
「身分を笠に着た横暴をユルスナー、世界よ人々よタチアガレー」
「やる気のない暴動発起人はどこかの段階で身代わりにされて切られるぞ」
それもそうか。
話している間も攻防戦は続く。今日も世界のどこかで争いは起こるし、ここにも平和はない。
しかも納得した隙を突いて包帯の端を見つけられてしまった。そこを見つけられると後は一直線。するする解かれ、残るはガーゼのみとなる。傷口に張り付いたガーゼを無理に剥がされると痛いので、観念して自分で剥がす。
鏡がないから自分では見えないが、二日経ったのに未だ汚れているガーゼと、頬を引き攣らせたエーレを見るにわりと酷いようだ。
「………………………………は?」
長い長い沈黙の後、ようやくエーレの口から飛び出た音はそれだけだった。とりあえずガーゼを当て直すも、鏡がないので上手くいかない。そもそも、傷の範囲はどこからどこまでだ。
ああでもないこうでもないとガーゼの位置調整をしていると、無言で伸びてきた手がガーゼを奪った。そのままきっちり張り直され、包帯も巻き直される。きちり、きちりと、見えなくても分かる几帳面さで巻き直された包帯は、きつくもないのにずれない。見事だ。
「説明」
「いや、事故で」
「説明」
「だから事」
「神官長直伝、秘技」
「物理的に傷口抉るのやめません!?」
こめかみ掘削拳でも脳天粉砕拳でも大惨事である。どう考えても脅しだ。見事だ。
仕方がないので、しぶしぶ白状する。白状してもさっき言った通り事故以外の何ものでもないのだが。
保護した子どもを癒やした際、何故か失神した。その過程で顔をすりおろした。残念。失神で二日間保護機関にいたので割り札を使用しなかった。踊り場から飛び出したら落ちた。無念。
説明し終えると、エーレは深い溜息を吐いた。分かる。私もそんな気分。
「聖女の力までもが揺らぐか……使えなくなると、思うか?」
「そんな気がひしひしとしますね。この敵本当に人間なの? 魔王とかじゃなくて?」
「俺はまっ白な聖女服のまま逃げた子豚を追いかけ、三十分後何故か馬糞塗れになりながら子豚を抱えて戻ったお前を見てそう思った」
「それは魔王ではなく開幕三分でやられる下っ端の雑魚悪魔では?」
「そうとも言うな」
聖女の力をなくすかもしれない脅威を話し合っていたはずが、何故か私が雑魚悪魔という結論に達してしまった。世界には残酷が満ちあふれている。