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1聖




『この世には聖女がいる』

『聖女じゃなくて聖人でいいんじゃないですか? 識別面倒くさいのに何で分けるんですか』


 そう正直に言ったら拳骨くらった。厳格な神官長様は咳払いして続ける。


『聖女の定義は国によって様々だが、我らがアデウス国では本当に聖なる力を持った女性のことをそう定義する』

『だったらそれもやっぱり聖人でいいんじゃないですか?』


 素直にそう言ったら、折り曲げ尖らせた人差し指でこめかみぐりぐりされた。

 猛烈に痛かった。


 孤児として神殿で面倒を見てもらっている間、柱を登ったら拳骨を落とし、掃除中箒を振り回して遊んでいれば拳骨を落とし、池の魚を捕まえようと飛び込んで溺れたのを助けて拳骨を落とし、教科書枕に涎を垂らして寝ていれば拳骨を落としと、私に拳骨を落とし続けた神官長は、いつも以上に大変畏まった口調と表情できっぱり言い切った。


『お前がその聖女だ』

『ボケたんなら介護しますよ』


 そう返した私の頭に最大級の拳骨が落とされたのも、今ではいい思い出である。










 目の前には固く閉ざされた門がある。右手にある詰め所内に控えた衛兵と、門の左右を固めた衛兵が厳しい目で私を見ていた。見ているというより、睨んでいる。


 そんな彼らの前にいるのは、この国で聖女と花嫁だけが着ることを許された白い服を纏った私、ではなく、さっきまで着ていたその服を剥ぎ取られ、よくこんなの城にあったなとびっくりするくらい襤褸切れと化したかろうじて服の原形を保っている服を着た私、である。




 赤紫色の髪も乱れてぐしゃぐしゃだけど、ここまで引き摺ってこられた際に散々乱れたし、普段の身支度も自分では手ぐし程度にさっさと済ませてしまうので別段問題はない。


 見上げた先には、国で一番高い山を背景にした立派な建物がある。山は神が住まう地として有名な霊峰だ。そして、その麓に番人の如く建っているのがこの国の王城と神殿である。正確には手前に王城があり、その奥に神殿の先っぽが見えていた。拾われてから七つまで育ててもらった神殿、聖女となり十五まで務めを果たした王城。


 正確には、昨日まで務めていた王城。




 髪がぐしゃぐしゃでも、掴まれ押さえ込まれた場所が痣になっても、引き摺られて身体中擦り傷だらけでも問題はない。

 それは問題ないのだが、ただ一つにして絶対的な問題がある。


「……あれぇー?」


 寝て起きたら、周囲の人間が私のことを綺麗さっぱり忘れ去っていた。

 これに尽きる。







 予兆など、本当に何もなかった。昨日までいつもと同じように仕事をしていただけだ。


 聖女とは聖なる力を持った存在である、といえば憧れられるし聞こえもいいが、要は傷を癒やすだけである。

 出来る限り怪我を治すよ! 病気を治すよ! 悩みは……散ればいいね!

 私は神官長から聞いた聖女の務めを、自分なりにそう解釈した。そもそも、神が聖女に与える力は代々違う。先代の聖女は光った。なんか光った。求心力とかそういう面でもそうだし、物理的にもそうだし、なんか光った。先々代の聖女は、なんか和ませた。求心力とかそういう面でもそうだし、場の雰囲気的にもそうだし、なんか和ませた。なんか……そんな感じだ。

 私は勉強嫌いなのだ。察してほしい。


 しかし、そんな私でも、仕事をさぼったり、勉強さぼったり、お偉方との会食やら夜会やらをさぼったりもしたが、自分なりに適当にそれなりにやってきたと思っている。

 神官長も王様も王子も騎士も神官も、その他諸々の勤め人達も、皆に頭を抱えられはしたがそれなりに仲良く恙なくやってきたはずだ。そもそも聖女の方針は、代々の聖女によって変わる。だから私は、聖女として人として少々多大に盛大に風変わりだとは言われたが、一応問題ない範囲だった。


 だからこそ、訳が分からない。



 今日は誰も起こしにきてくれなかった。

 いつもはどんなに仮病を使っても「嘘ですね、とっとと起きやがれ」と誰も彼もが布団を引っぺがすというのに。最初は侍女で構成されていた起床係にメイドが混ざり始め、最終的に騎士も神官もごった混ぜの男女混合型起床係が編成され、誰一人として遠慮してくれなかったくらいなのに。

 ……いくら私がさぼり魔とはいえ、もうちょっとくらい遠慮や配慮があってもよかったのではないだろうか。聖女の寝台を、力自慢で編成された最終兵器部隊でひっくり返すのはどうかと思うのだ。


 それはともかく、起床係の到来がなかったことにより昼過ぎまでぐっすり眠った私は、流石にお腹が空いてきたのでちゃちゃっと着替え、部屋を出た。いつも通り大欠伸をしながら食堂へ向かい、怒声と共に捕まった。




 そこからは怒濤の如くだ。


 お前は誰だから始まり、どうしてその服を着ている、どこから入ってきたと一斉に続き、お前は誰だに戻った。

 何の冗談だと思ったものだ。こんな質の悪い冗談をしかけられるほど悪いことしたかな。勉強をさぼって逃げ出した先で昼食を一緒した王子様の皿に、彼が嫌いで私も嫌いな野菜を私の皿からぺいぺいと全部移したからかな。びっくりしながら、そんなことを考えていた。

 しかし、見知った人々が険しい顔で、まるで見知らぬ不審者へ向ける視線を私に向け続けるので、これはおかしいと思い始めた。

 そして、私を育てたと言っても過言ではない神官長が、いつも通り厳しく真面目な視線の中に軽蔑を滲ませ『着る資格もない聖女の服を勝手に着ている、聖女を侮辱した常識のない女』として私を扱った時、これが悪ふざけでも冗談でもないことが分かったのである。






 ふぅと息を吐き、城と神殿に背を向けた。これ以上ここで衛兵達から汚らしいものを見る視線を向けられていても仕方がない。長年の付き合いだった人々が私を分からないのに、聖女の公務としてここを通る時のみの付き合いである衛兵達が分かるはずがないのだ。さぼる際によくお世話になっていた裏門の衛兵ならまた違ったかも知れないけれど、何にせよ神官長が私を分からなかったのだ。他の誰にも分からないと思ったほうがいい。

 着の身着のまま……着ていた物を剥ぎ取られたので着のままではないが、私は長く暮らした場所を後にした。



 抜け出すときはいつも跳ね回らんばかりに、実際跳ね回りながら喜んで駆けだしていた道を、一人でとぼとぼ歩く。


「服はともかく靴くらいは奪い取るべきでした……」


 別に気落ちしているわけではない。裸足で歩いているから足の裏が痛いのだ。片足をひょいっと持ち上げると、短い襤褸切れ、失敬恵んで頂いた服から太股が覗く。今ははしたないと怒る人もいないし、問題ない。


「うわぁ……」


 足の裏は皮がべろんべろんになっていた。石も刺さっている。これは痛いわけだ。聖女の服と一緒に靴も取り上げられたのは痛かった。物理的に。

 とりあえずその辺に座り、足を腿の上に乗せる。ちまちまと刺さった石や棘を取っていく。襤褸切れ、失敬、服の丈が短いので、仕方なく袖を千切って足に巻く。これで少しはましだろう。代わりに格好は更に残念になった。


 別に気落ちしているわけではない。こんなの、神殿に拾われるまで日常茶飯事だった。寧ろ今までが夢のようだったのだ。ゴミを食らい、汚水を飲み、動物の死骸と一緒に眠った。拾われるまではそんな幼少時代を過ごしていたのだ。捨て子の孤児が生きていく道などそれ以外何があったというのか。


「とりあえず仕事を探しましょうか」


 別に気落ちしているわけではない。それに諦めているわけでもない。まだ何が何だかさっぱり分からないが、このまま逃げ出すつもりもなかった。


 聖女でなくなったとしても、私は一市民として普通に生きられる程度にはしっかり図太いが、今まで生きていた場所から突然理由も知らせられず放り出されてよしと出来るほど寛大ではないし、あの場所に未練がないわけでもない。皆が私を忘れた原因を必ず探り出し、私を追い出した奴の顔を拝み、拳を叩き込んでやる。そう気合いを入れる。

 元々一人で生きてきた私は、今や人々の期待を一身に背負う聖女という大役をそれなりに務め、残念聖女、逃亡聖女……何はともあれ聖女と呼ばれてきた強い女なのだ。


 だから、別に気落ちなんてしていない。じくじく痛む足で地面をしっかり踏みしめ、空を見上げた。空は、腹が立つほど晴れ渡っていた。

 だから、別に気落ちなんてしていないし、雨だって降っていないのだ。








「甘かったわ……」


 現聖女でありながら元聖女という矛盾する立場を両立させた私は、スラム街の一角でゴミを漁っていた。



 ここは王都だ。

 ピンからキリまであるが、何かしらの仕事にはありつけると思っていた。だが甘かった。まず見た目が悪すぎた。せめて普通の服を着ていればまだ見込みはあったのに、襤褸切れを纏った肌と髪だけ綺麗な女など誰だって関わりたくないだろう。いっそのこと全部ぼろぼろだったらまだ同情を集められたものの、服装以外はそこまで荒れていないのだ。貧しい女、ではなく、ただ単におかしい女扱いされた。

 おかげで、次から次へと仕事を断られ続け、気がつけば王都の隅の隅、貧民街に行き着いた。


 そこに住む人間が多ければ多いほど、成功する人間の数も多ければ転がり落ちる人間の数も多い。生まれたときからここにいる人間、何らかの理由で転がり落ちここに落ち着いた人間。事情は様々だが、ここは質を求める立場にない人間の集まりだ。

 質の向上は、基板が固まった人間の特権だ。食料、寝床、暖を取れる衣服。それらを安定的に得られて初めて、人は次の段階を目指せる。ただ腹を満たすのではなく味のいい食事を、雨風凌げるだけではなく住み心地よい場所を、暖を取るだけではなく肌触りや形、色を。質を望んで選ぶことが出来るようになる。

 つまり、今の私はその段階に全くないということだ。髪は綺麗な内にと早々に売った。その時得た多少の金でなんとかやりくりしてきたけれど、追加収入がなければどうしようもない。



 神殿に引き取られてからは縁遠くなっていた腐臭に塗れながら、他の人間に混ざってゴミ山を漁る。

 懐かしい場所だ。神殿に拾われるまで私の住処だった場所は、何一つ変わってはいない。食べられる物を探す物、使えそうな物を探す物、売れそうな物を探す物。ここでは人も物も大して変わらない。自分を者だなんて自称する物もいない。死体もごろごろ転がっている。中には貴族らしい身形の死体もあって、そういう物はあっという間に身ぐるみ剥がされた。生きていくだけで手一杯なのに、死体の面倒まで見ていられないのだ。

 そもそも、誰かの面倒を見る物など誰もいない。自分の面倒を見るだけで手一杯なのに、物の面倒など見ていられるわけがない。



 城を叩き出されて半月、かなり困窮してきた。しかし、実はこれを待っていた。いや、こうならなくて済むならそれに越したことはなかったけれど。

 幸いと呼ぶべきなのかは分からないが、肌も髪も服装に見合うみすぼらしさになった。今なら物乞いとして再挑戦が可能かもしれない。

 まずは仕事! そしたら食! 最後に住処だ! どこかに衣を紛れ込ませることが出来たら完璧である。

 完璧な計画を立てていた私は、うふふと笑いながらゴミ山に手を突っ込んだ。崩れ落ちた山からぽろりとカビだらけのパンを見つけた。カビはあれどかなりの大きさ。これなら腹を膨れさせるには充分だ。これを食べて物乞いに行く元気をつけよう。


 これは天の恵みと伸ばした私の身体が吹っ飛んだ。

 ゴミに埋もれながら、じんじん痛む頬に目を回す。なんとか現状の把握に努めると、私を殴り飛ばした中年の男がパンを懐に入れて走り去っていくところだった。

 スラム街では、早い者勝ちではなく奪った物勝ちなのだ。弱い私がいけないのである。勿体ないことをした。見つけた瞬間さっと隠すべきだったのだ。

 殴られたほうと逆の頬に張り付いたゴミを取りながら、しっかり反省した。




「………………何を、しているのですか」


 鳴る腹を宥めつつゴミ漁りを再開すると、何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。きょろりと視線を回すも、見慣れたゴミ山しか存在しない。所々崩れたのか山の形が変わっているけれど、それだけだ。気のせいかとまたゴミへ視線を戻す。


「何をしているのかと聞いているのです、聖女っ!」


 弾かれたように顔を上げる。慌てて視線を巡らせ、視線を下ろす。ゴミ山の麓に、この場には全く相応しくない宝石のような薄緑色が揺れていた。


「エーレ?」


 名を呼べば、雪の精のように儚いと評される容姿で、ぎっと強く眉を吊り上げた男が立っていた。





 動くたびに光沢のある薄緑色の髪がきらきらと光って大変美しい。いつもきっちり整えられていた髪が若干乱れているのはフードをかぶっていたからだろう。足から頭まで隠せるローブをかぶっていたようだが、顔を上げた拍子に取れてしまっていた。


「私のことが分かるのですか?」


 首を傾げながらゴミ山から滑り降り、顔面からべしゃりと地面に着地する。足の裏が天を向く優美な降り方だ。華麗に滑り落ち、失敬、滑り降りた私は、服に絡まったゴミをはたき落とした。

 今更整える身形もないが、一応礼儀の一環としてやらないよりはマシだろう。






 エーレは神官だ。

 十八歳の彼は、十二歳で神殿へやってきた。神力もあり真面目で優秀な面が買われ、十五のおりには城へ上がっていた。まあ、彼が大貴族の子息であったことも要因の一つではあっただろうが、彼は自分の生まれを糧にはしても驕りはせず、神官の鑑と呼ばれるほど立派に仕事を勤め上げた。

 城にいる神官は、政と宗教の摺り合わせ役である。神殿の力が弱くならず尚且つ城をたてられるようぎりぎりを見極めたり、二つの間を取り持ったりと、仕事は様々だ。

 神殿の力が強くなりすぎれば王族がたたず、神殿が抑圧されれば国民の不満を呼ぶ。神に仕える神殿といえど、国教である以上、どうしても政とは切っても切り離せないのだ。その為、神殿としての務めを果たすためにも政に明るい人材は必要となる。

 その役目を担うのが、エーレのような城に詰めている神官である。



 私とは年が近いこともあり、それなりに話す仲だった。私が聖女として城へ向かうことが多くなってからは余計にだ。しかし、それなりに話す仲ではあるが、仲がいいかと問われれば首を傾げる。

 会えば挨拶程度の立ち話はするし、仕事の話をするのに畏まらずできるが、私的な内容を話す為にわざわざ立ち止まるほどでもない。されど付き合いは長い。知り合い以上、友達未満。そんな関係だ。


 そういえば城から叩き出された時、彼の顔を見なかった気がする。記憶を掘り出し、出張だどうのこうのと言っていたようなと思い出した。




 何故かぎらぎらした目で私を睨みつけているエーレに、反応に困る。私が一体何をしたって言うんだ。頬を掻こうとして、さっき殴られた場所に触ってしまった。


「いたっ……うわっ!?」

「行きますよ」


 思いっきり顔を顰めた瞬間、身体が浮いた。何だと顔を上げれば、エーレが私を抱え上げていた。


「な、何?」

「一旦私の家に戻ります。ここでは落ち着いて話が出来ませんから」

「それは助かりますが、とりあえず下ろして頂けますか。私ほら、汚いですし、臭いですし、ゴミ塗れですし」


 あまり大きく口を開けると頬が痛くてもそもそ話す。だが下ろしてもらえない。ちょっと見ない間に耳でも遠くなったのか。そんな馬鹿な。彼の地獄耳は天下一級品だ。

 掌ほどの大きさにしか見えない位置で「なーんかぬいぐるみ抱いて寝てそう」と何気なくぽそっと呟いた翌日、すれ違い様に「この歳で誰がそんな真似するか」と言ってきたくらいだ。恐ろしすぎて、その後三十分は無駄口が叩けなかった。三十分後解禁された私の無駄口に、神官長は「儚い夢だった……」と嘆いていたものだ。


「エーレ、汚れるから下ろしてください」

「黙ってください。足を負傷した者を素足で歩かせるほど、私は落ちぶれてはおりません」


 この堅物は、どうやらほとんどゴミと化した聖女にも神官としての立場を保ってくれるらしい。くそ真面目である。



 どう見てもこんな場所にいる人ではないエーレが、ゴミと化した女を抱き上げている姿は酷く異様で、かなり目立っている。

 だが夜ならばともかく、ここまで訳あり感が表に出ている相手に堂々と手出しはしてこないだろう。誰だって厄介事には関わりたくない。後ろ盾のない人間ならば尚のこと。


 細やかな刺繍が施された品の良さが遠目にも分かるフードが、私を抱えたことで見るも無惨に汚れていく。何度言っても下ろしてくれないし、もうこれは彼の自業自得だと諦めた。せめて触れる範囲を少なくしようと、身を縮こませると叱責が飛んだ。


「何をしているのです。さっさと腕を首に回してください」

「いくら私でも、この状態で人様に抱きつけるほど図太くはないのですが」

「神官の貧弱な腕をなめないで頂きたい。今にも落とす三秒前です」


 きっぱり言い切ったエーレの堂々とした顔は、やけに格好良かった。







 規定の倍の料金をエーレが払って拾った辻馬車に散々嫌がられながら乗り込み、閑静な住宅街に到着する。閑静なのは当然だ。王都に建つ一軒家が並ぶ区画。主に貴族が住む、堂々たる一等地である。

 御者に小言を言われながら私の下に敷いていたローブを回収したエーレは、改めて私を抱え直した。これでエーレの服はローブを含め全滅した。私と同じでゴミ山と同じ臭いがする。



 到着した家は屋敷と言うほど大きくはないが、一家族が暮らすなら充分な広さがあった。こぢんまりした庭にはあまり手が入っていないのか、何も植わっていない。代わりに雑草も生え放題というわけではないので最低限の手入れだけしているといった様子だ。


「ここは?」

「城にも部屋は与えられておりますが、本を置く場所がないと困っていた私に兄が用意してくれた家です」

「お坊ちゃま~」

「その通りです」


 そんな理由で王都にぽんぽん家を構えられるエーレは、伯爵家の三男だ。事実でしかない私の発言に、出会ったばかりの頃は鬱陶しそうに睨んできたものである。今ではしれっと返してくるから、随分図太くなった。



 エーレは結局一度も私を下ろさず、家へと入っていく。家の中は、意外と汚かった。掃除が行き届いていないのではない。物が多すぎるのだ。正確には本が多すぎる。棚に入りきらない分が床に積まれ塔を作り出していた。本の塔を崩さないよう、私を抱いたままするりするりと間を擦り抜けていく様はまるで猫のようだ。

 家の奥に到達して、ようやく下ろされた椅子は風呂の椅子だった。


「まずは風呂に入ってください。非常に臭いです」

「私、最初にそう宣言したはずなんですけどもね!?」

「風呂から出たら手当てします。さっさとどうぞ、臭いです」

「今は自分も同じ臭いの癖に――!」


 臭い臭い連呼されれば流石に傷つく。広げた両手をエーレにべたりと貼り付け、思いっきり力を篭める。掌から伝わってきた熱が胸を通り、髪の先まで散っていく。

 不自然に靡いた髪が重さを伴った時には、エーレの身体から放たれる異臭は消えていた。服の汚れもだ。


「……聖女の力は健在ですか」


 ほっとした顔をするエーレは、すぐに眉を寄せた。せっかく綺麗になったのに、私の手を素手で握り、掌に刺さっていたガラス片を取っていく。

 手は、随分荒れた。不衛生な環境で傷口が膿んでいる。足なんてもう見られたものじゃない。

 昔も同じほどぼろぼろで、それが普通だったのに、いつの間にか綺麗になっていた。

 そう、してもらった。神殿で、人として扱われた。聖女と判明する前から、そうして扱ってもらった。


「自分に使用できない不便さも健在ですか」

「そうですね」


 浴槽に手を翳し、あっという間に水を溜めて沸かしたエーレの神力も健在のようだ。神力があれば神官になれるけれど、エーレの力はずば抜けている。普通は指先に炎を灯せる程度だ。

 風呂の用意をしたエーレは、さっさと風呂場を去っていった。残られても困るので引き留めずに見送る。





 桶に汲んだお湯に両手を浸す。じわぁと染み入ってくる温かさと、遅れて痛みがやってくる。焼け付くように痛む傷口も、浸けっぱなしにしていればやがて慣れてきた。じくじくがぽかぽかになってようやく、深く長い息を吐く。

 誰かとまともに会話をする行為は、随分久しぶりだ。お湯だって、綺麗な水だって、ゴミの臭いがしない場所も、たった半月しか経っていないのに、全部、久しぶりで。

 透明なお湯がじわじわ汚れていく。けれど、私はしばらくそのまま動けなかった。








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