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消えない嘘の形を、今も覚えている。

 待っても、待ってもリアンはリエゾンの前に姿を見せなかった。太陽が西に傾いて赤く燃え始めた時、ついに我慢のできなくなったリエゾンはリアンの暮らす村に行くことを決意した。

 普段はリエゾンが魔物ということがばれてしまえば自分だけでなくリアンに迷惑をかけてしまう、と敬遠していたが、今のリエゾンにはそれよりもリアンのことが心配だった。


 もしかして自分が何かしてしまったのかもしれない。いや、それならば断然良い。最悪なのは彼女の身に何かがあった場合だ。ここへ来るまでの道のりは、リエゾンが定期的に周りの魔物を狩り尽くして出来る限りの安全を作り出しているが、不運という二文字が顔を見せる時だってある。

 どうかつまらない理由であってくれ、とリエゾンは胸の奥で疼く不安と暗い感情を宥めた。


 何年もリアンが通い詰めてくれた村への道は草が踏みしめられ、獣道のようになっていた。それが自分とリアンの関係の長さ、深さを証明してくれているようで、リエゾンはどこか胸が軽くなったような気分になる。

 村に近くなれば勿論人が居る。リアンが自分のことは獣人にしか見えない、と言ってくれていたが万が一というものがあるので、人目に付かないよう静かに移動した。


 獣道を進めば進むほど、嫌な予感が高まる。森が騒がしい。獣が一匹、村から離れるように走り去っていた。かなり村に近づいた筈なのに、人気が全く無い。おかしい。

 不安に下唇を噛んだリエゾンは、もう少し村に近づこうと足を前に出し掛けて……地面に光る物を見つけた。


 いや、嘘だ。絶対にあり得ない。あってはならない。だって、それは……ああ、やはり見覚えがある。どうか間違っていてくれ。頼む、頼むから。


 自分の中の自分が頭をかきむしりながら小さく叫んでいる。いつの間にか荒くなった吐息と震える足でリエゾンは光るそれへと足を進めて、ゆっくりと拾い上げた。



 ―――リアンの銀の髪止めだった。



 彼女は祖母から貰った髪止めをいたく気に入っていた。それこそ少し前に無くしかけた時は露骨に気を落としていたし、くすんで細工の剥げ欠けていた髪止めを常に身に付けていたのだ。確か祖母から最後に貰った形見で、それ自体に確かな価値があったらしい。


 それが、地面に落ちていた。長い時間彼女の髪に触れていた髪止めには、花の細工が施してある。擦りきれて、良く見なければ花だと気がつかない程だったが、目を凝らせば中々腕の良い細工師が作ったのだと分かる。刻まれた花の名前は……


 ――『北の不滅』


 彼女が一度、リエゾンに花のことを話した事があった。


『これはねー、北の不滅っていう花なんだよ』


 ――変な名前だな。


『えへへ。変な名前でも、私はこの花が大好きなんだー』


 ――綺麗だからか?


『ううん、違うよ。この花はね、北にある白い砂漠に咲く花でね……砂漠は破滅の呪いですべての物を破壊する筈なのに、花はそこでも綺麗に咲いてるんだってー』 


 ――不思議だな。


『どんな場所でも咲き続けてるこの花の花言葉は……』


 ――花言葉は?


『……秘密!』


 リアンはいつか言うときになったら言うもん、とリエゾンに言った。リエゾンは花言葉がかなり気になったが、それよりも彼女の好きな物を見つけられた事に喜んでいた。北にあるらしい北の不滅とやらを持ってきたら、リアンは喜んでくれるだろうか、とも思った。


 それが、どうしてここに落ちている。良く見れば髪止めにリアンの長い茶髪が付いていた。それはまるで無理やり引きちぎられたかのように見える。

 それが自分の過激な妄想でも構わない。的はずれな邪推でも全く結構だ。最早リエゾンの中で理性的な部分は掻き消え、凄まじい感情の渦が彼の体の中を激しくのたうち回った。

 それらはリエゾンの脳を伝わること無く足を動かし、真っ白になった頭のまま、遠慮も慎重さも殴り捨てて、リエゾンは獣のように走った。いままでで一番速く走った。彼女の元へ走った。


 君の笑顔が見たい。それさえ見れれば、オレはきっと安心できる。ため息と悪態を吐いて君に抱き着いて、素直な言葉を……君を大切に思ってるんだって、今度こそ言えるから――


 しかし、進めば進むほど、恐怖と焦燥は増していく。リエゾンの獣じみた嗅覚が訴えるのだ。風上から流れた空気の中に、久しく忘れていた人間の血の臭いと、何かが燃えている臭いを感じ取っているのだ。息が荒くなる。それは疲れとはまた別の、跳ね上がる心臓由来のものだった。


 進めば進むほど、嫌な物が見える。木々の間から立ち上る黒煙、地面にこびりついた赤黒い水溜まり、パチパチと木々のはぜる音。嫌だ、止めてくれ。そんなの、あんまりだろう?


 心の奥底で懇願しながら草と黒煙を掻き分けたリエゾンの視界に映っていたのは赤々と炎と煙を吐き続ける凄惨な村の様子だった。地面には誰かも分からない人間の死体と、飛び散った血液。前に見た穏やかな村の様子は最早欠片ほどもない。

 畑は掘り返され、母屋は炎に喰われ、家畜は首の無い死体を晒している。村全体を覆うのは、暴力的なまでの『赤』。


「そん……な……」


 リエゾンは自分の体から力が抜けていくのを感じた。それでもほんの僅かな希望が彼の体を無理矢理支えて、リアンが笑顔で指差した彼女の家へと足を進めた。

 もしかしたら、彼女の家だけは無事かもしれないなんてあり得もしない妄想だけを頼りに前へ進み……彼は膝をついた。


 リアンの自慢の大きな家は逆巻く炎に飲み込まれ、玄関先にペットだと言っていた子羊が内蔵をぶちまけて死んでいた。リアンの家は煌々とした炎に包まれ、一際明るく燃えているように思えた。崩れた膝を持ち上げて、リエゾンは燃え盛る家の中に足を踏み入れる。初めて入る彼女の家はまるで、悪夢の牢獄のように思われた。放心状態のまま歩くリエゾンの視界に、焦げた死体が映る。体格から見て彼女の父親の様だ。キッチンを見てみれば、背中を切り捨てられたリアンの母親がうつ伏せに倒れている。


 血に濡れた茶髪が彼女と重なった。もう、何も感じない。何かを感じる心の隙間がない。死んだ目でそれを見つめたリエゾンは、家の一番奥の扉に手を掛けた。ここは最奥ということも相まって、それほど炎の影響が大きくない。


 最後の希望を、リエゾンは抱いた。


 ――君さえ居てくれればいい。


 君さえ居てくれれば、それでいいんだ。オレにとって君が……君だけが世界で、君が名前をつけてくれた物が全てだ。君が居ればオレはこの状況だって笑える。笑顔になれる。

 君が生きていてくれれば、君のくれた言葉で……『良かった』って言って親指を立てたりして、君を抱き締められる。だから、お願いだ……お願いだから……笑っていてくれよ。


 だって『またね』って……君は、そう言ってくれただろう?


 リエゾンがゆっくりと開いた扉の先に、彼女は居た。真っ赤な池の上に横たわり、左手をリエゾンの居る方に伸ばして……リアン・ディブリスは死んでいた。彼女の回りに、同じく死んだ女性や子供が無造作に転がっている。白い喉元が切り裂かれ、赤黒い血溜まりを作っていた。


 リアンの口には布が咬ませられていることから、人質にされていたのだろうということは想像に難しくない。

 だが、そんなことはリエゾンはそんな事を想像したくは無かった。だから繰り返すように頭を振って、思考を乱す。けれど何度も頭を振っても、目元を掻き毟っても、目の前の現実は変わらない。リアンが、彼にとっての全てが……死んでいた。


 必死にこちらに拘束された手を伸ばして死んでいた。伸ばされた手の先には、彼女の血液で何かが書かれていた。けれども、リエゾンにそれを読むことはできない。彼女が最後に残してくれた言葉を知ることは叶わない。

 それどころかもう彼女の声を聞くことも、笑顔を見ることも、たまに触れる彼女の指先の暖かさを感じることも、もう出来ない。


「なんて……書いたんだよ……オレに何を伝えようとしたんだよ……なぁ、リアン。教えてくれよ、いつもみたいに……ほら、笑ってさ……」


 リエゾンは亡霊のような足取りでリアンのそばに歩み寄り、膝をついた。


「そうだ……最近は文字を教えてくれるって言ってくれたじゃないか。そろそろ読み書きが出来ても良い頃だってさ……そうだろ?今のオレじゃ、何て書いたかわかんねえよ……」


 彼女の言葉が分からない。分からないのだ。まるで始めに戻ってしまったかの様だ。彼女の書いたそれはリエゾンにとって記号の塊でしか無く、彼女の最後の言葉は全く彼に伝わらない。

 また、彼女と話せなくなってしまった。


 けれど今は、笑顔でリエゾンに物を教えてくれるリアンは居ない。


 彼は、一人だ。


 誰も教えてくれない言葉だけが彼の手元に残って、もうこの世に居ない彼女のくれた言葉が、感情が、それらだけが彼の頭に残っていた。


「お願いだから……目を開けてくれよ。お願いだ……君が本当に大切なんだ。君と一緒が良いんだ……この気持ちを何て言って良いのかも、分からないし、君に伝えられないよ……」


 リエゾンは震える手で彼女の手に触れた。全ての物に名前を付ける指先に触れた。リエゾンにとって特別な暖かさを求めて触れた指先は冷たく、固い。まるで――土塊(つちくれ)のようだった。


「あ、あぁ……ぁぁ……!!」


 リエゾンは初めて、言葉を失うということを覚えた。彼女に教えて貰った言葉がいくつも、いくつも彼の頭の中を駆け巡るが、どれもこれも形になる前に消えていく。教えて貰った言葉が消えていく。最後に残るのは、獣のような音の塊だけだった。


「ぁぁぁぁあああああ!!!!」


 生まれて初めて、リエゾンは涙を流した。人間の体でも、魔物の体でも、涙を流すのは初めてだった。瞳から流れ出すそれがなんなのか、リエゾンには分からない。けれど、それさえも最早どうでも良いことでしかなく、理性も思考も何もかもを殴り捨てて、彼は獣のような咆哮を上げた。


 彼女の冷たく柔らかい体を強く抱き締めて嗚咽を漏らした。髪に触れて涙を流した。


「ぁあ……ぅぅぁあ……ああ」


 けれども、彼女はもう居ない。 


 彼女は、最後にリエゾンに嘘をついた。最初で最後の嘘をついた。淡い恋も、積み重ねた時間と言葉も、全てを虚無に返してしまう、最期の嘘を。




 ―――また、明日ね。




 君は嘘つきだ。明日があると言ったから。

 君は嘘つきだ。文字を教えてくれると言ったから。


 君は嘘つきだ。君は嘘つきだ。君は嘘つきだ。

 けれどもオレは……そんな君が『―――』だ。


 空いた言葉は戻らない。誰もその穴を埋めることはない。リアンの言葉は彼に伝わることはない。

 彼女の最後に残した『大好き』の三文字が彼に伝わることは、決して無いのだ。


 涙を流し、彼女の亡骸を抱き抱えて崩れ行くリアンの家から抜け出したリエゾンを待っていたのは、十字架の付いた白い甲冑の騎士達。リエゾンの咆哮を聞き付けてやって来たのだ。


「なんだ?獣人か?」


「獣畜生を討ち漏らしたのか……全く、我が隊も気が緩んだものだな」


「全くです、隊長。我らが為すのは『洗礼』。至高神の指先たる我らに不手際など、到底許せるものではありませぬ」


 炎に照らされた白い甲冑は、返り血で赤く染まっていた。ゆっくりと騎士達が剣を引き抜く。抜いた剣の先に滴っていた血液が、リエゾンの足元にはねた。

 それを見た瞬間、リエゾンの中の何かがピシリと音を立ててヒビを孕んだ。顔を伏せながら、リエゾンは口を開く。


「……お前らか」


「……?」


「お前らが……リアンを、殺したのか……答えろよ」


「薄汚い半獣風情が人の言葉を真似るとはな。大人しく物陰でその女の死肉を食っていればいいものを」


「――ッ!」


 冷徹なその声を聞いて、リエゾンの中の理性は完全に破壊された。リアンの亡骸を優しく地面に横たえて、騎士達に向けてリエゾンは歩きだす。

 一歩踏みしめるごとに、リエゾンは新たな感情を覚えた。


『憎しみ』

『憎悪』

『嫌悪』

『失望』


 そして、魔物の時とは全く別の……人間としての『殺意』だった。


 歩み寄るリエゾンに、騎士達が武器を鋭く構える。


「抵抗する気だな、獣人よ」


「―――いい」


「……?」


 リエゾンは大粒の涙を零す真紅の瞳を騎士達に向けた。その表情はまさに修羅の形相。顎まで裂けた口には鋭利な牙がびっしりと並び、ギリリ、と噛み締められている。剥き出しの殺意で彩られたその顔貌はまさに、人外のそれだった。

 リエゾンは、焦げる程に熱い吐息と共にゆっくりと言葉を吐いた。これが最後だと、そう心に決めて。


「もう、どうでもいいんだよ」


「ふん、自暴自棄か。獣らしい品性――」


「お前ら全員――死んじまえ」


 汚い言葉を使ってしまって、本当にすまない。心の奥でリアンに謝ったリエゾンは、今度こそ本当に理性を掻き消した。




 ―――――――




 雨が、降っていた。灰と雨と血の臭いが混じっている。リエゾンは棒立ちで激しい雨を頬に受けていた。彼の全身は真っ赤に染まっており、伸びた爪の先には赤黒い肉の塊が詰まっている。獣耳の片方は千切れて地面に転がっていたが、そんなことはもはやリエゾンにとって大した事ではない。

 彼の周りにはぐちゃぐちゃにされた肉の塊が鎧の鉄片共に散らばっていた。暫く雨に打たれるリエゾンの足元には、血溜まりができていた。それを見つめた彼は、これじゃあ魔物と変わらないな、と小さく呟いた。


 もう、どうなったっていい。オレが生きている価値はない。意味もなければ喜びも、渇望も、何もない。全てが消えてしまった。オレから全てを奪った相手も、もう居ない。


 ――リエゾン・フラグメントはこの時、『空っぽ』になった。


 彼の中には彼女の過去しかない。壊れた破片が彼を形作っている。彼の中を幸福と共に進んでいた懐中時計は、バラバラに砕け散って時を止めてしまった。

 焼けて炭になってしまった村の跡と血溜まりの上に立ち尽くしたリエゾンは、ゆっくりとリアンの方に歩み寄った。


 彼女の首にはバッサリと切り裂かれた痕があり、けれどももう血液は流れていなかった。冷たくなった彼女の亡骸を抱き上げて、リエゾンは雨の中を歩いた。一歩ずつ進んだ。


 そして、リエゾンとリアンが初めて出会った樹木の根本に、彼女をそっと寝かせた。


 リアンはもう何も言わない。笑わない。呼吸もしない。リエゾンは激しい雨に打たれながら呟いた。その声はとても小さく、隣にいても聞き逃してしまう程だった。


「なぁ、リアン……」


 リエゾンはそれっきり、口を閉ざしてしまった。何を言うべきか……いや、言ったって何の意味もないか。彼の中で長い長い時間が雨音と共に通り過ぎた時、彼は小さくこう言った。


「君と、もう一度会えるのなら……オレは、何だってするのに……」


 君に、会いたい。


「もう一言喋れるのなら、大声で、はっきりとした声で……君に伝えるのに」


 君と、話したい。


「……」


 もう一度だけ。


「……」


 もう一度だけで、いいんだ。


「……オレは、君が」


開いた口は言葉を探して、そして何を発するでもなく静かに閉じられた。



 ――――――



 リエゾン・フラグメントはリアン・ディブリスの墓を作った。不器用な彼らしい小さな墓で、けれどもその愛の深さを表すように沢山の花が添えられていた。

 リアンと良く行った川の底を探し回って見つけた大きな石を墓石とした墓を作ったリエゾンは、その前に両膝を付いた。


「君が好きな花を沢山添えたよ。でも、君が一番好きな花は、まだ見つからないんだ。だから、少し北に遠出をするよ。大丈夫、すぐ帰るから。君の大好きな……『北の不滅』を持って帰るよ。だから、少しだけ待ってて、リアン。……それじゃあ――またね」

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