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遠い、遠い君へ

 次の日の朝、目を覚ました少女は尻尾や獣耳を生やした人間の姿となったリエゾンを見て驚きに声を上げた。少女が持ってきた父親の服は少々彼にとってきつく、初めて着る服という物にリエゾンは違和感を覚えて脱ごうとしたが、それは少女が全力で止めた。


「あ、あぁが……」


「……?」


 なんでだ、と聞くつもりで声を出してみたが、リエゾンのそれは赤子の声のようだった。見た目はしっかりとした成人男性なのも相まって、他から見れば変人だ。少女も必死に考えるが、何を言っているのかさっぱりわからない。

 せっかく人間になれたのに、結局彼女と話せないのか。リエゾンは大きな体をしゅん、とさせた。尻尾も心と同じくへなへなと下へ向く。


「――――、――。――?」


「……ぁあがあ?」


 何をどう聞いても、単語一つ一つ、文字一つ一つが理解できない。当たり前といえば当たり前なのだ。彼は狼。言葉など使わずとも本能で仲間の言っていることがわかる。どちらにせよ彼らにまともな思考などないのだから、互いに怒りを感じたりすること等なく、獲物を食らうことしか頭にない。

 そんな環境で生きてきた彼からすれば、言葉という概念自体がさっぱりで、そもそも音の羅列で意思を伝えるという発想がなかった。


 遠吠えでなんとか会話が出来ないか、とリエゾンはやってみたが、直ぐに少女に止められた。リエゾンと少女は会話が伝わらず、お互いにどうすべきか悩んでいた。リエゾンは気まずそうに新たに生えた手のひらを見つめ、少女は何やら顎に手を当てて考えていた。

 暫くして、少女がバスケットに入れた果物をひとつ拾い上げ、それを指差した。


「み、か、ん」


「い、あ、ん」


「――――!――っ!」


 言われた通りに声を出してみると、少女は跳び跳ねて喜んだ。何がなんだかさっぱりだが、あの不味い食べ物はみかんと言うらしい。発音はさっぱりだが、理解はできる、とリエゾンは内心思った。それと同時に、彼女と同じ言語を少しでも話せたことに喜びを覚えた。

 少女が注意を喚起するように指を立ててから、みかんを口に運んでかぶりついた。リエゾンの苦手な柑橘系の香りが広がり、彼が渋い顔をする。


「た、べ、る」


「た、え、る」


「――――!」


 少女は親指を立てた。その意味はよくわからないが、顔から察するに良い意味なのだろう。取り敢えずリエゾンも親指を立てた。そして、成長した脳で考える。あの果物はみかんと言うらしい。そして、それを食うことを「食べる」と発音する……つまり、みかんを食らうことを発音するなら……。


「み、か、ん、た、べ、う」


「――!?――――っ!―――!」


 今回は中々うまく発音できたな、とリエゾンが喜ぶより先に、感極まった少女が彼に抱きついた。狼であったならば四本の足でしっかりと受け止められたのだが、慣れない人間の足ではバランスを取ることはまだしも『踏ん張る』という動作がよくわからない。故にリエゾンは彼女に抱きつかれたまま地面に倒れこんだ。


「うぅ……ごめんなさい……」


「……」


 頭を押さえながら少女が言った。元々この体はかなり頑丈なようで、それほど痛みを感じなかったリエゾンは、少女の発言を分析した。目の前で手を合わせる動作にあわせて言われた「ごめんなさい」は、恐らく謝るということを意味しているのだろう。

 リエゾンが狼であった時代にも、間違えて仲間を攻撃してしまった時は後々噛んでしまった者が傷を舐めて癒すというルールがある。故に彼にとって謝罪の概念は分かりやすかった。


「ご、え、ゆ、な、さ、い」


「――、――!」


 少女はいきなり謝罪の言葉を言い出したリエゾンに慌てた。どうにかしてその謝罪は要らないものだと伝えられないか考える少女は、そこでようやく今の時刻を思い出した。燦々と照る太陽、鳥の囀りが聞こえる。しまった、家にダミーは置いてきたが、家族が見てしまえば布団に詰めた枕程度直ぐにバレるだろう。

 すぐ戻るから、とリエゾンに言って、少女は大慌てで家を目指した。


 残されたリエゾンは、ごめんなさい、という単語は何か別の意味を内包していたのではないだろうか、と大いに焦った。結局少女は両親にきつく叱られ、リエゾンは地面に落ちたみかんを皮ごと食べ、その不味さで気分を落ち着かせていた。



 次の日から、リエゾンと少女の言葉を覚えるふれあいが始まった。発音はともかく頭はそこそこだったリエゾンは順調に言葉を覚えていく。


「あれは川だよ」


「かわ」


 指差された川を意味する言葉をリエゾンが言うと、少女が笑顔と共に親指を立てる。それを真似してリエゾンが立てるのが定期的なやり取りだ。


「あれは蝶々」


「ちょ、ちょ」


「やっぱり難しいかなぁ」


「…………?」


 日の出ている内は少女と散歩ついでに言葉を覚える。日が沈み掛けて、少女が帰るとリエゾンは今夜の食事を採るための狩りに出掛けた。狩りでこの体はいつでも狼に変身できることがわかったリエゾンは、服を忘れて帰ってきてしまい、少女に顔を赤くしながら叱られた。

 少女からの叱責はリエゾンにとって物理的な痛みより辛く、自然と悲しい表情になる。それを見た少女があわててバスケットのみかんを差し出すが、それは彼の好物ではない。


 リエゾンは少女と共にいろんな言葉を覚えた。彼にとって特に印象的なのは『水』だ。水は在り方で幾つもの名前を持っている。水は水の筈なのに、沢山の水が地面を流れると『川』になり、少ない水が地面に溜まっていると『水溜まり』になる。

 さらに、沢山の水が落ちている場所を『滝』というのに、空から水が沢山降ってくるのは『雨』だという。

 リエゾンには言葉が今一理解できなかったが、覚えていけば覚えていくほど、彼女との会話が容易になっていく。


 その実感が堪らなくいとおしくて、それでもリエゾンが本当に知りたいと思っている言葉は未だに教えて貰っていない。教えてほしいと懇願する言葉を持っているのなら何度でもそれを叫びたい気分だが、その言葉は分からない。けれど、聞かなければきっと教えてくれない。どうすればいいのだろうとリエゾンは悩み、その度に一日が過ぎていった。


 そして、何度目になるかわからない夕日の時に、リエゾンは勇気を全身から振り絞った。伝わってくれるか分からない。それどころかもしかしたら彼女に嫌われてしまうかもしれない。けれど、彼の頭で思い付いた最善の方法は、これだった。


 リエゾンは笑顔で帰ろうとする少女に、あー、と声を掛けて呼び止める。振り返った少女の顔は夕日に照らされて朱を帯び、整った顔を笑顔にしていた。伸びた髪を止める銀の髪止めがキラリと光って眩しい。彼女の笑顔を見ただけで、リエゾンは言おうとしていた言葉を忘れかけてしまう。そういえば、美しい、という意味の言葉を教えて貰っていないな、とどうでもいいことを考えそうになったリエゾンは頭を振って口を開く。


「……みかん」


「……?私はみかんじゃないよ」


「みず」


「どうしたの?水が……飲みたいの?」


 リエゾンは首を振った。そして、再度少女に指を突きつける。


「えーと……私が水?いや、私の水……?いや、でも蜜柑って言ってたから……」


「つち」


「土!?本当にどうしたの?」


「おおかみ」


「私は狼じゃないよ……あ……もしかして、私?」


 リエゾンには私という言葉は理解できなかったが、少女が困惑したように自分を指差していたので、同意の意味を込めて激しく首を上下に振った。

 まさか自分の名前を聞かれるとは思っていなかった少女が目をぱちくりとさせる。そして、その意味をもう一度噛み砕いて、柔らかな微笑を浮かべた。


「私の名前はね――リアン・ディブリスって言うんだ」


「リアン」


「わ、凄い……綺麗に言えたね!何だか嬉しいなぁ」


 少女――リアンは、にこりと笑った。その笑みは慈愛と喜色が込められ、目を奪うような美しい斜陽を浴びて尚更美しさを増していた。

 リエゾンは思わずそれに心を射抜かれ、見惚れてしまった。彼女の笑顔に魅せられて、完全にその体は止まってしまう。リアンは満足げな笑顔で家に帰っていく。その仕草でさえ、リエゾンの心にさざ波を生み出す。新たに生まれた『恋慕』をリエゾンは初めて自覚した。



 それから幾日も、リエゾンはリアンとそこら中を歩き回って言葉を覚えていった。何度かリアンの居る村の近くまで二人してこっそり行った事もある。言葉を覚える度に綻ぶリアンの顔が堪らなく愛おしくて、彼女の声も、所作も、何もかもがリエゾンの心を奪っていた。


 めくるめく光も、色も、動物も、樹木も、彼女が名前をつければ煌めいて見えた。彼女が魔法使いのように名前をつけるだけで、それらが全て輝いて見えた。白黒だった世界が極彩に色づいていく。毎日が宝石のように思える。


 燦然と煌めく魔法のような日々は続いた。彼女が優しい笑顔で自分の手を引き、その先にあるもの全てに圧倒されて惚ける。その日々は、きっと何年も続いた。「少女」であったリアンはれっきとした「女」になり、リエゾンは遂に満足な会話を行えるようになった。


 そんなある日、彼女が長くなった髪をいつもの髪留めで整えながら言った。


「ねえ、あなたって名前が無いんだよね?」


「オレの名前は無い。元々、狼だから」


「じゃあさ……私が名前を付けてあげるね」


 リエゾンは目を何度も瞬きを繰り返して、その言葉の意味を理解しようとした。その様子を見た彼女がニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。ようやく意味を理解したリエゾンは、震える体をどうにか押さえながら言った。


「オレの名前は……」


 彼女はいつもリエゾンに物の名前を教えるように指を差して、柔らかく言った。


「あなたの名前はね――リエゾン。リエゾン・フラグメント!」


「……リエゾン・フラグメント」


 それが、オレの名前……。リエゾンは何度も自分の名前を呼んだ。リアンから貰ったものを呟いた。リアンが名前をつけたものは全て色を持ち、何よりも光輝く。ならば、きっと自分も……。


 彼女には与えられてばかりだ。名前も、言葉も、命も……きっとこの姿も彼女が居たからなれたのだ。リエゾンにとっての世界は彼女だった。彼女が世界で、世界が彼女だった。


 オレは、リアンが居ればもう何も要らない。


 そんな台詞を吐こうとして、リエゾンは恥ずかしさに口ごもった。どうしても恥ずかしい。いままで言えない言葉なんて一つもなかったのに、どうしてもこの言葉が言えないのだ。

 気恥ずかしさを振り払うように、リエゾンはリアンに抱きついた。初めて自分から抱きついたリエゾンは仕返しのつもりだったのだが、逆に自分の方が恥ずかしいことに気がついてしまった。


 けれど、どうしても抱き締めた腕が動かない。触れたリアンの暖かさ、柔らかさが手放し難く、もう少し、もう少し……そうやって抱き締めてしまうのだ。


 急に抱き締められたリアンは顔を真っ赤にしながら成すすべが無かった。離れようにもリエゾンは離してくれそうにない。いつもの仕返しのつもりだろうか?

 困惑するリアンの目の前に、真っ赤になったリエゾンの耳が見える。都合のいいことに頭の獣耳も真っ赤っかだ。それを見て冷静さを取り戻したリアンは、にっこりと笑ってリエゾンの耳に口を近づけて、こう囁いた。


「―――君が好きだよ、リエゾン」


「……?オレが何だって?」


「えへへへ、何でもないよー」


 良く分からない単語を言われたリエゾンは首を傾げたが、リアンがその言葉の意味を教えてくれることは無かった。その日はどうにも二人揃って散歩の気分では無くて、最初にリエゾンをリアンが見つけた大きな木に二人でもたれ掛かって、他愛の無い話をした。


 リアンが将来医者を目指していること。

 最近お気に入りの髪留めを無くし掛けて焦ったこと。

 石鹸を変えてみたこと。

 川魚はどれが一番美味しいのか。

 実はみかんがそれほど好きではなかったということ。

 それでも今は食べれるようになったということ。

 従姉妹が王都で女騎士として名を上げていること。

 昨日はあまり眠れなかったこと。

 一昨日の雨は凄かったということ。

 野草だと思って近づいたら魔物だったこと。

 最近は草食もいいかな、と思っていること。

 食べれるキノコと食べれないキノコの違い。

 リエゾンの変わらない見た目について。

 王都と神聖国が戦争をしているということ。

 明日の天気のこと。

 最初にリエゾンがリアンにつけてしまった噛み跡のこと。

 リエゾンが料理を始めたいと思っていること。

 リアンの裁縫技術と料理技術について。


 沢山、沢山話した。リアンの言葉に相槌を打って、ちょっとした冗談で笑う顔にときめいた。

 二人で話しているだけで時間はあっという間に進んでいき、太陽が西に傾いてしまう。名残惜しそうな顔をした彼女が、長くなった茶髪を揺らしてバイバイ、と言う。彼女のお気に入りの銀の髪留めがキラリと星のように一瞬煌めいた。


「また、明日ね」


「ああ、また明日」


 明日が来ることが堪らなく待ち遠しい。彼女と一緒に居られない時間がとてつもなく辛い。出来ることなら、四六時中君と居られればいいのに。そんな思いと、甘酸っぱい幸せを胸にしまいこんで、目を閉じた。



 次の日、目を覚ました。さあ、今日はどんな話をしよう。どんな言葉を教えて貰おう。そんな事を思いながら、彼女を待った。



 待った。


 待った。


 待った。



 けれども、彼女は来ない。いつもの時間を通り過ぎて、太陽が傾いてきても彼女は来なかった。それでもリエゾンは彼女を信じて待った。少し用事が重なっているのだろうとか、また髪止めを無くしかけているんじゃないかな、と類推して彼女を待った。



 それでもこの日――彼女がリエゾンの前に姿を表すことは……(つい)に無かった。

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