森羅万象の不滅を征く者
視線の先の女は目が離せなくなる独特の笑みを浮かべていた。先程まで色々と声を発していたロード達も俺と同じく女に目を釘付けにされている。この場に満ちる酒臭く湿った空気が、彼女の周りだけは消失していた。よく見れば、あれだけ好き勝手していた宴狂い共の姿が見えない。さしもの正気を失った宴狂いであろうと、宴の主催者に喧嘩を売るような真似は遠慮が勝るのだろう。
メラルテンバルがゆっくりと地上に降り立った。言われる前に地面に降りて、目線の高さから女を観察した。肩までの艶やかな黒髪が真後ろに屹立する世界樹の幹に取り付けられた灯りを反射していた。
遠くから見た銀の瞳は、近くで見れば透き通った灰色だ。彼女の目の前のテーブルには所狭しと料理が並べられ、彼女の手元には空っぽのワイングラスがあった。しかし、ちらりと見た女の顔に酒気は無い。それどころか冷めきった瞳が俺の体を射ぬいていた。……口元は笑ってるけど、威圧感が半端無いな。
ぞろぞろと地面に降り立つ面々を確認しながら、メラルテンバルが慎重に言葉を選んで声を発した。
『お久しぶりですね、不滅の御方』
ロードと同等の恭しさと腰の低さを合わせて声を発したメラルテンバル。その言葉に不滅は漸く懐かしそうな笑みを、人間らしい表情を浮かべた。
「本当に久し振りね、メル。……その呼び方は止めて頂戴。ここは年中無礼講よ」
『すみません……』
破滅から発された声は低く、例えるならビターな声だった。不滅は軽く咳払いをすると、ついていた頬杖を解いて、空いた手で空っぽのワイングラスを持ち上げた。
「それで、今日は何の用件なの?あたしは暇だけど、つまらない用事に付き合うほど軽い女じゃないの」
『新しく代替わりした墓守の挨拶と、僭越ながら教えを乞うためにここに来させていただきました』
「……そうなのね」
相変わらず堅いメラルテンバルの言葉につまらなそうに声を出した不滅は、空っぽのグラスをくるくると回し、ほんの少し底に残った赤いワインの移動を見つめていた。その表情は非常に退屈そうで、メラルテンバルの言葉が彼女の期待を満たせていないことは明らかだった。
まあ、いいわ、と不滅がワイングラスを回す手つきを止めた。
「知らない顔も多いことだし、まずは礼儀として、名乗ってあげる」
不滅が手のひらに力を込めた。あっけなくグラスが弾け、ガラス片が不滅の手を切り裂きながら飛び散る。突如として行われた奇行に固まった俺達に向けて、彼女は血を流す掌をぎゅっと握って声を発した。
「あたしは、『不滅』」
ゆっくりと、不滅がこちらに灰色の瞳を向けた。刺すような瞳の奥には、いくつもの感情が渦巻いている。観察、懐疑、諦観。少なくとも、俺が見て取れる範囲では、好意的な感情はほとんど感じ取れない。
冷たい瞳をした不滅は、突然の奇行に固まった俺達を見つめながら、健康そうな桃色の唇を震わせる。
「……『不滅』のテラロッサ・レトリック。あたしはあなた達を好きに呼ばせて貰うから、あなた達も私を好きに呼びなさい」
【貴方はワールドボス『不滅』のテラロッサ・レトリックとエンカウントしました】
通知に驚く間もなく、俺の目の前で不可解な事が起こった。瞬きをした次の瞬間に、テラロッサの手のひらには空っぽのワイングラスが握られており、手のひらも無傷に戻っていた。彼女はそれをくるくると回すと、ちらりとこちらを見た。
何が起こった?まるで全てがリセットされたような……いや、違う。リセットされたわけでも、時間が巻き戻された訳でもない……何故なら、彼女の手元の白いテーブルクロスには赤い血の染みが残っているからだ。
時間を巻き戻すとか、事象だけを変化させたとか、そんな物ではない……もっと、凄まじい事の片鱗が今目の前で姿を表している。困惑と畏怖を同時に抱いた俺達に向けて、テラロッサが口を開きかけて……止めた。と、同時に大きくため息を吐いて失礼するわね、と席を立つ。
彼女は悠々と自分の後ろの世界樹に近づくと、視線を上の何もない空間に向けた。
「何度も言ってるけど、覗きは犯罪よ。私は覗かれるのが嫌いなの。」
そう言うなり、テラロッサは左手を構えて虚空にデコピンを放った。彼女の指先が何かにぶつかって、パチッ、と鈍い音が聞こえた。それと同時に何処かから何かが転げ落ちるような音も聞こえる。
「……あぅぅ……」
「これに懲りたら、せめて、あたしの目の届かないところで覗きなさい」
虚空から誰かの声がした。しかし、主は何処にも見えない。テラロッサは大きなため息を吐くと、謝罪を口にしながら席に戻った。
「見苦しいものを見せてしまったわね」
「いえいえ……急に押し掛けたのは僕たちですから」
「白いローブに銀の杖……新しい墓守ね。フードをとって顔を見せてくれる?」
「はい」
ロードがフードを外してテラロッサを見つめた。その顔は強張っており、見るからに緊張しているのが見てとれた。しばらくの間、無表情でロードの顔を見つめたテラロッサはぼそりと呟く。
「若いのね。先代は……そう……すまないわね」
「いいんです。もう、過ぎた事ですから。それに、お母さんは僕の心の中で……時々夢の中で、僕を励ましてくれるんです。だから、もう悲しくないんですよ」
「……そう」
「……」
ロードはえへへ、と小さく笑って、それに釣られたのかテラロッサも柔らかな笑みを浮かべた。今までで一番柔らかく、暖かな笑みに対して、ロードの側に居たリエゾンは、信じられない物を見るような視線をロードに投げ掛けていた。それに気がついてるのか、気がついていないのか、テラロッサはロードに言葉を掛ける。
「記憶の中で、夢の中で……ええ、ええ、そうよ。確かに先代は貴方の心の中に在る。消えずに微笑んでいる。……先代が貴方の心の奥で不滅であることを、あたしが保証するわ」
「ありがとうございます」
「あなた、名前は?気に入ったから聞いて、覚えてあげる」
「ロードです。ロード・トラヴィスタナといいます」
「当代墓守のロード・トラヴィスタナね。覚えたわ」
あたし、記憶力には自信があるのよ、とテラロッサが笑った。どうやらロードと打ち解けたようだ。少なくともその視線に先程までの突き放すような物は感じない。張り付いた無表情も、どうやら機嫌を良くしてくれた様で何処かに影を潜めていた。
テラロッサはロードの後ろの俺達に視線を向けて、一人一人目を通した。リエゾン、シエラ、コスタは特に表情を変えずに、カルナには少し驚いた様な顔をした。
「良い心がけをしている子も居るのね」
「……何の事かしら?」
「あなたも、あなたがあなたで有る限り、きっと不滅よ。私の二つ名を貸しているのだから、そう易々と消えたりはしないわ」
「……ありがとう、と言ったら良いのかしら」
今一よく理解できていなさそうな表情のカルナが、感謝と共に肩を竦めた。それを満足げに見つめたテラロッサは、次に俺のことを見つめた。その灰色の瞳は真剣そのもので、じっと見られていると心の奥底まで見透かされそうだ。
かなり長い間凝視されたが、流石に何か文句を言うような度胸は俺には無く、目を逸らすぐらいしか出来なかった。
「……驚いたわね。あなたは……あなたなら……いえ、まだ早いわね」
「……えーと、どういうことだ?」
「あたしも説明できるなら説明してあげたいけど……」
俺を見つめるテラロッサの首元に、突然白い首輪の様なものが現れた。それは白く光り輝き、表面には金色で見たことの無い文字列がびっしりと刻まれていた。
それを指差しながら、テラロッサは無表情で首を振る。
「あたしたちワールドボスは、『あいつ』に管理されているから、話せないのよ。特にあたしはお喋りだから、他の奴ら達より厳しいの」
「そ、そうか……」
「ボスも大変なのね。好きなことを言えないなんて」
「本当よ。お陰でストレスで爆発しそう。宴を開いて発散しないと気が狂うわ」
はぁ、とテラロッサはため息を吐いた。暫くすると白の輪は音もなく消失した。テラロッサがそれを確かめるために首元をペタペタと触り、安堵のため息と共に俺を見つめる。
「詳しいことはさっきの通り言えないわ。けれど……そうね、きっとあなただけよ」
「……何が?」
「『厭世』を助けられるのは、この世界でもきっとあなたぐらいよ」
早口に言われた言葉を咎めるように白い輪がまたもや現れ、テラロッサは苛立ちにグラスを握りしめて砕いた。が、すぐにその傷は無かった様に修復され、テラロッサは頭を押さえた。……本格的に、ストレスがヤバそうだ。
黒髪に指を通しながらテラロッサは頭を振った。その拍子に彼女の首元が強調され、黒いドレスの内側にある肌に刻まれた物が小さく見えた。
「……刺青?」
「あら、目敏いのね。そうよ、生まれつき首元に刺青があるの」
テラロッサの鎖骨辺りには真っ黒な……全体は見えないが、恐らく炎の刺青が入れられている。それに目を奪われていると、俺の腰当てがちょんちょんとつつかれた。つついた相手を見てみると、ロードだ。
「どうした?」
「……あんまり女の人の胸元を見ちゃ駄目ですよ」
「え?……え、ちょっと待ってくれよ!その言い方だと俺がヤバい奴になるじゃないか」
確かにテラロッサの刺青は鎖骨から胸元へと続いている。それを凝視するとなると、必然的に立派な胸部も目に入るわけで……。いや、全くもってそういう感情は覚えなかったし、状況が状況だったからテラロッサには畏怖しか覚えていない。
つん、と唇を尖らせて俺を見上げるロードに誤解であることを必死に伝え、当事者であるテラロッサにも意見を求めたが、彼女は俺を見てゲラゲラと笑っている。
「……ちょっと、証言してくれよ」
「……嫌」
「えー……」
俺の申し出を断ったテラロッサは、また笑いだした。……なんだなんだ、妙に人間臭いな。いや、見た目は完全に人間だが、もっと機械的に言葉を選んでくるものと思っていた。笑うテラロッサを微妙な目で見つめる俺に、メラルテンバルが小さく耳打ちしてくれた。
『彼女はいつも一人ぼっちでね……久々に人と話せて楽しいんだよ。宴狂いはあの様子だし、僕もその頃メルエス様に恩返しをしようと思ってた時だったから……』
「こら、聞こえてるわ、メル!グラスを投げるわよ!」
『はは、勘弁してくださると嬉しいですね』
キレるテラロッサに笑うメラルテンバル。二人はいつもこんな感じで会話してきたのだろう。確かに、テラロッサは先程から上機嫌だ。先程までは不機嫌そのもの、といった風貌だったが、話せば話すほどテンションが上がっているように感じられる。……世界の始まりからほとんど一人でここにいたら、それはそれは寂しい思いだっただろう。
しかし、俺の視線の先のテラロッサはそんな様子を微塵も見せず、首元の輪が消えたことを確認している。
輪が消えたことに小さく笑みを浮かべるテラロッサに、離れた場所から声が掛かった。遠慮がちな、それでも隠しきれない粗暴な口調。リエゾンのものだ。
「あー、その……出来ればもう一つの用件もどうにかして欲しいってか……えーっと」
そうだ、ここに来た理由はそもそも不滅に北の不滅を採る方法について知るためだった。ハッとしたメラルテンバルがテラロッサに小さく耳打ちをすると、テラロッサは上機嫌のまま頷いて居心地が悪そうなリエゾンに向き直った。
「あたしは今機嫌が良いわ。聞きたいことがあるのなら、言ってみなさい。あたしに言えることなら答えてあげる」
「……北の不滅が欲しいんだ。その為に、『破滅』の住む砂漠を移動する方法がないか、聞きたい」
噛み締めるような、僅かにすがるようなリエゾンの言葉に、テラロッサは笑顔を消した。彼女は最初の頃に見せた冷たい無表情で、空っぽのワイングラスを空に掲げ、下からそれを透かして見ていた。はぁ、とテラロッサがため息を吐く音が聞こえる。
「不滅に、破滅の事を聞くなんて、良い度胸ね」
テラロッサがリエゾンを鋭く見据える。途端に、周囲の照明が一瞬消えた。どっと肩の辺りが重くなって、背筋に嫌な汗が湧いてくる。
キィーン、と強い耳鳴りがして、それに重ねるように近くにいた宴狂いが情けない声を上げて走り去っていった。出来れば俺も同じく走り去っていきたい。そんな情けないことを思うほど、テラロッサの威圧は凄まじかった。
そうだ。忘れかけていたが、こいつはワールドボス。『堕落』と『破滅』と同等の……破滅と幾度と無く剣を交える怪物中の怪物だ。
ごくり、と俺が唾を飲んだ音が、やけに大きく響いた気がした。
キリが悪いですが、ここで一旦切ります。
長くなるので……。