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貴方に伝える言葉は

「流石にここまでレベル差があると、勝負にはならないわね」


「カルナ殿、油断は大敵である」


 ロードを連れてエリアの奥地に進む俺達の足取りは軽い。魔物が出ようと、俺が魔法を止めて状態異常を放ち、他の四人がワンパンするだけとなっている。ロードに至っては戦闘体勢を整える合間に戦闘が終わっており、最早敵は他の四人に任せているようだ。


 薄暗い霧の中、何処から魔法が飛んでくるかもしれず、本当なら四苦八苦するところだが、今の俺達にとってそれはとるに足らない要素だ。砕けた十字墓石の欠片を跨いで先へ進む。

 時々魔法が霧の奥から飛んでくるが、全く問題にはならない。単体の威力もさることながら、数が圧倒的に足りていないのだ。


 魔法を使う者が集まっている十字墓石方面は、魔法使い自体が珍しい事からこの墓地のエリアの中でも最も霊の数が少ない。更に元々少ない霊の殆どを月紅で倒している。全体的に見てこのエリアの敵の総数がまず少ないのだろう。

 そのため殆ど敵と出くわすこともなく、俺達はエリアの奥まで到達した。


「ここで……いいです」


 ロードは足を止め、ゆっくりと呟いた。その声は酷く強張っていて、震えてすらいるように感じられた。どうした、と無遠慮な事を言おうとして気付いた。

 あぁ、そうか。ここが最後なのか。ここで全てのエリアが揃う。フィールドが完全に浄化される。


 ――そして、俺とロードの約束は……確かに果たされた事になるのだ。


『それで、ロード。この場所、取り返してみたくないか?』


 長い時間と、それ以上に濃い経験を経て……(ようや)く俺達は荒唐無稽な約束を守ることができるのだ。自然と、俺の呼吸が震えた。心の臓がばたつくように跳ねて、血液が足先から脳の天辺まで循環する。俺とロードの様子に違和感を覚えたのか、カルナが不思議そうに口を開く。


「どうしたのかしら? ライチ。ロードも少し変よ?」


「いや、大丈夫だ」 


「僕も大丈夫ですよ。ただ少し……緊張しているんです」


 首をかしげるカルナに、メラルテンバルがゆっくりと頭を近づけて耳打ちした。メラルテンバルがうまく伝えてくれたのか、カルナは小さく頷いて、それから無言になった。ロードを静かに見つめるオルゲスとレオニダスも、同じく無言だ。


 ゆっくりと……ロードが声を紡ぐ。震える両手が曇天に添えられ、神聖な唄が世界を包み込んだ。


「――死者の魂は空に帰る」


 小さなロードの背中から放たれるその声は、やはり震えていた。感動か、緊張か、大きな感情がロードの中を反響するようにのたうち回り、ロードの心を震わせていた。


「名も無き魔導士の魂もまた、遍く空へ帰り行く」


 偉大なる墓守の唄が広い墓地に響く。何重にも霧の間を反射して雲の中を駆け巡って響くその声に、不死者たちが歩みを止めた。


「ここは、魂の眠る園。死した魂の憩う場所。死の苦しみも、生の苦しみも、全て捨て行く、忘我の地。皆よ、眠れやこの場所で。並び立つ墓が、汝らの行く先を照らしている」


 崩れた十字の墓石が軽い音を立てながら修復されていく。誰も何も言わなかった。俺も、カルナも、メラルテンバルも、オルゲスも、レオニダスも、ただ黙ってロードを見つめていた。きっと歴代最高の、当代墓守の背中を見つめていた。


「それでも眠れぬというのなら、それでも逝けぬと止まるなら、ならばここで立ち止まるが良い。ここは死者の眠る墓地。汝らのひしめく場所」


 整然と立ち並ぶ墓石が淡く発光する。僅かに残った霧と雲に光が反射され、辺りは幻想的な空気に包まれた。不死者が淀み無い足取りで自らの墓石の前に立つ。

 あぁ、と誰かが息を飲んだ。荘厳な絶景の真ん中で、空に唄を紡ぐロードは、震える左手を地面に向けた。


「そこには林檎の木と――華の園がある」


 たちまちそこには青々とした草が生え、美しい林檎の樹木がいくつも茂り始めた。銀の幻想郷に、緑が力強く芽吹いていく。

 ロードはゆっくりと右手を地面に添えた。


「そこには見渡す限りの楽園と、青々とした空がある」


 空が晴れ、霧が消えて、鮮やかな世界が目を覚ます。晴れた霧の向こう側では、幾百もの霊たちが此方をじっと見つめていた。

 墓地の隅から隅まで見渡せる。黒い雲はもうどこにもない。暗い霧も姿を消した。そこにあるのは死者の憩う花の園……(あまね)く全てが目指す理想郷だった。

 銀の粒子が空を駆け巡る。晴れた空に矛盾した星々が我が物顔で世界を見渡した。


「だから、汝らは此処で憩うと良い。その日、その時まで。誰も急かしはしない。死者に命令できるのは……死神くらいなものだから!」


 ロードが、大声を張った。この墓地全てに響くように。世界に己の誕生を訴えるように、全力で声を放った。少しだけ……ほんの少しだけ水を含んだその声を世界に向けて叫ぶと、ロードはゆっくりと俺に振り返った。


 その顔を、きっと俺は一生忘れない。 


 ロードは泣いていた。それと同時に花が咲くような満開の笑顔を見せていた。白い顎の先まで大粒の涙を滴らせて、彼女は狂おしいほど晴れた空よりもずっと晴れやかに笑った。

 美しすぎるその笑顔を見て、俺の時間が全て止まった。音も、光も、全てが止まった世界の中で、ロードの形の良い唇が「ライチさん」と囁く。それと同時に、辺りを銀の光が覆い隠した。


『――――きです』


 銀の光が弾けて、世界が一瞬白に満たされる。何が起きたんだ、何て言ったんだ。処理能力の限界を越えた脳みそが思考を放棄する。ロードの言葉に、周りの情景に、困惑する脳が絞り出した一言は――


 ――綺麗だ。


 音も無く弾けて煌めくその粒子と、その真ん中に独り佇む少女を見て、俺はほうけるように立ち尽くしていた。煌々として光を放つその世界の隙間に、ゆっくりとこちらに歩んでくるロードが見える。

 光が落ち着いて、俺の中の時間がもう一度動き出したとき、俺の目の前には泣き笑いのロードが居た。ゆっくりとロードがフードを脱ぐと、銀の髪が風に靡いて揺れた。


「ライチさん。僕、貴方に言わなきゃいけない事が……沢山あるんです」


 金の瞳を潤ませながら、ロードは白い歯を見せて笑った。

 俺はどう振る舞えばいい、なんてロードに言えばいい。そう煮立つ脳の中身は、その笑顔で冷静さを取り戻した。


「ライチさんとの約束のお礼も……貸しだってあるんです。今までずっと助けてもらってばかりでしたから」


「……俺がしたいから、助けたんだ。あまり気に病むな」


 やっと口から絞り出せたその言葉は、中々に気恥ずかしい。俺の言葉に困ったように笑ったロードは、ゆっくりと口を開いた。


「何度だってライチさんに言いたい言葉が、あるんです。今までずっと僕を守ってくれた貴方に……言いたいことが」


 ロードは涙を袖で拭いて、ゆっくりと言葉を紡ごうとした。けれど、その寸前でまた涙が大粒一つ金色の瞳からこぼれだして、ロードは口ごもった。ロードのきれいな眉がくしゃりと歪み、中途半端に開いた口が僅かに震える。

 堰を切ったように溢れ出す涙を拭わず、ロードは小さく、しかしはっきりと言った。


「――ありがとう」


 涙でぐちゃぐちゃな顔でロードはたった五文字を紡いだ。たった五文字の……この一言。俺は、それを聞くと同時に理解した。

 あぁ、今までの戦いは……これまでの全ては、たったこれだけのためにあったんだ。


『……取り戻したいですよ。そりゃあ、当たり前ですよ。……取り戻したいですよ』


『それじゃあ、取り戻そう』


『そんな無責任で、無茶な事、簡単に――』


『一人じゃ無理でも、二人なら分からない。俺はそんなに強くないけど、きっと一人きりよりは前に進めると思う』


『な、なんで……僕のことは、貴方に関係無いじゃないですかっ!』


『……言った通り、俺は騎士っぽいことをしてるつもりなんだ。泣いてる誰かを見過ごせるほど腐ってない。俺は強くないし、人間じゃないし、見た目もボロボロの騎士だけどさ……そんな俺の手で良ければ、貸すから』


 ロード、お前に出会ったその時から、いままで歩いてきた先が……ここなんだな。

 視線の先のロードは青空にも似た笑みをたたえながら、言葉を紡ぎ続ける。それはきっと、先程までの呪文の続き――墓守の祝詞なのだろう。


「僕を救ってくれてありがとう」


「あぁ、これからも助けるよ」


「僕を信じてくれてありがとう」


「……これからも信じてる」


「今までずっと僕の側に居てくれて……ありがとう……ありがとう、ございます」


「…………あぁ、何を当たり前の事を、言って……」


 あぁ、なんでだ。俺の体は精神体のはずだ。生きてなんていないはずだ。なのに、どうして――涙が流れるのだろう。

 柄にもなく涙を流す俺に、ロードが大きな嗚咽を漏らしながら飛び込んでくる。その線の細い体をしっかりと抱き止めて、抱き締める。


「ライチ、さん……ありがとう、ございま……うぅぁ、ぁ」


「泣くなよ……泣かないでくれ。俺まで泣きたくなるんだ。俺は、ロードの騎士だから……ロードが望めば、いつだって駆けつける。何度だって守る。……だから、泣かないでくれ。笑っててくれよ」


 釣られてきっと、俺も笑うから。ロードを抱き締めながら、息も絶え絶えにそう言うが、ロードは逆に大きく泣き始めてしまった。


「ず、ずるい、です……よぉ! うぐっ、ぁぅ。そんな、事言われて……なきやめ、ませんよぉ!」


「ははっ……そうか……ごめんな」


 泣き笑い一つに、ロードの頭を撫でる。ようやく報われたんだ、ロードの長い戦いは、ようやく終わったんだ。赤い月も、自分の母も……最後には自分すら乗り越えて、彼女の一人きりの不可能な旅は終わったのだ。


「ほ、本当に……ありがとうございました」


 嗚咽混じりで、涙声で、更に言えばそれを言ったロードの顔は涙でとても見れたものではないが、それでも俺にとってはその言葉こそが、最高の報酬だった。


 この一言が聞けるまで――あぁ、長いこと長いこと。ロードの言葉は、彼女が一人で背負い、一人で歌いつづけた鎮魂歌へ……確かに終止符を打ち込んだ。

ありがとうの一言のために、人はどれだけ頑張れるのだろうか。

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