番外編:『世界』の欠片は斯く在る
北の、北の果て。何者も踏み込めぬ白い砂漠の、その先。山と見まごう黒い巨城の玉座に君臨する女帝は、玉座の後ろのステンドグラスから注がれる純白の日光に大きく舌打ちをした。
「また……またなのね」
女帝は低い声で唸る様に言った。それだけでピシリとガラスにヒビが入り、謁見の間で蠢く破滅の業火が悶え苦しむ様に燃え上がった。謁見の間を這う漆黒の蛆がその熱に体をくねらせる。
「まだ、終わるべきではないって……また、そうやってアイツみたいな事を言うのね」
女帝の脳裏に、忌々しい影が横切った。それだけで彼女の機嫌は底辺も底辺へと落ち込み、端正なその顔を歪めて唸る。
忌々しい、忌々しい。消えてしまえ、世界とともに消えてしまえ。
ギリギリと歯を鳴らしながら念じるが、それを嘲笑う様に、朝日は小さく彼女の忌むべき者の声を蘇らせた。
『ええ、きっと……まだ世界は終わらないのよ。あたしには分かるの。空が白んで、夜が深まって、きっと全部が一巡する』
「五月蝿いわ……」
『分かるのよ。だって……あたしと同じだもの。足掻くの、世界は』
「五月蝿いって……言ってるでしょう!」
黒い蛆の一匹が大きく体を痙攣させて……弾けた。肉片と黒い血液が辺りに散らばるが、女帝の周りは不思議と汚れない。
飛び散った血液を求めて、蛆が暴れる炎を必死にかいくぐる。醜いわ、と落ち着いた女帝はそれを笑った。
そして女帝は、驚くほど高い天井を見上げて小さく呟く。その顔はゾッとするほど美しく、けれども猛毒を含んだバラの花の様に、触れるのを躊躇う殺意が渦巻いていた。
「不滅なんて幻想よ。全ては必ず終わるの」
女帝の視線の先の天井には、赤黒い何かで出来た大きな十字架が、数えきれないほど吊るされていた。
「精々足掻くことね。……アタシが、全部を終わらせる時まで」
紫の炎が逆巻いた。心の臓を凍りつかせる様な笑い声が、誰もいない謁見の間に反響した。
――――
西の、西の果て。鬱蒼と茂る大樹林の、その先。幻と思い込むほど巨大な木――世界樹の根元で、年中行われている宴の主催者は、板についた無表情を久し振りに解いた。
「まだ、足掻くのね。……ええ、分かってるわ。終わらないんでしょ? ……馬鹿みたいよね、あたしたち」
主催者の視線の先には、酒に酔い、人に酔い、空気にすら酔った異形たちの群れ。酒を飲め、歌え、踊れ。どれもこれも奇声と奇行を繰り返し、空に浮いた色とりどりの光は、狂ったように世界を照らし続けている。
異形は笑い、叫び、食料を胃に詰め込み、ギャンブルに熱中し、踊り、テーブルの上に飛び乗って暴れている。殴り合いの乱闘になっても、誰も止めはしない。主催者の女ですら、無表情で空を眺めてため息を吐くだけだ。
「みんな、みんな……先に参ってしまったものね。ええ、狂ってしまうのが一番マシよね」
終わらない宴で騒ぎ続ける異形の一つが、息が切れたのか座り込んだ。もう何週間も寝ず、休まず、暴れ続けていたのだ。疲れたところで何もおかしい所はない。しかし、ここは終わらぬ化け物の宴。この場所で休むということは、この場所で止まるということは……即ち終わる事を意味する。
たとえ正気を失い、狂気に理性を沈めても、誰もここでは責めることはない。他を傷つけて、殴りつけ、大暴れしようと、ここではそれが一番の模範行為だ。立ち止まった化け物は、この場にふさわしくない。動きの止まった異形に、ニタニタと狂気に満ちた笑みを浮かべて、他の異形が迫る。それを止めるものはおろか、囃し立てる者ばかり。
動くことのできない異形は、他の異形に群がられ、貪られ、次の大暴れの糧になる。絶叫を上げ、体を食い尽くされる異形を尻目に、変わらない無表情で主催者は呟いた。
「でも、あたしはまだ終われないの。醜いってあいつは笑うけど、知らないわ。世界はまだ終わらない。なら……あたしが先に根をあげるのって、卑怯よ。例え、一番の失敗作だって罵られても、ね」
化け物たちがまた騒ぎ出す。それを止めるものは誰も居ない。世界樹の根元で、不滅を冠する宴は続いて行く。きっと、主催者が全てを諦めるまでは。
――――
南の、南の果て。どこまでも広がる青の世界の真ん中で、一人の男が水平線から目線を上げた。雲ひとつない群青の空と、くすみ一つない群青の海。合わせ鏡の様に無意味な絶景が、終わりなく広がっている。
一言で言えば絶景で、だからこそ無機物的な美しさだけを反射する世界の中、小さく男が呻いた。
「あぁ、朝か……また今日が始まるのか」
男の瞳は空間に溶け込む無機物の様な青。表情筋は形だけの微笑を浮かべて、体面を取り繕っている。それらすべて、そして今日が来ることすらも、無駄な事だと男は知っている。
「……君が居ないなら、全部同じだ。空に色は無いし、海は灰色に濁っている。無価値だ。無意味だ」
鮮やかに、鮮明に彩りを放つ絶景に毒を吐いた男は、上を見上げた。視界に広がるのは病的な青。それは海か?空か?どっちだっていい。
「空っぽだ……あぁ、世界なんて、明日にも弾けて仕舞えば……いや、駄目だ。彼女が守ろうとした世界を消すなんて……そんな事は」
抑揚の無い、棒読みじみた声で言葉を続けた男は、中途半端な場所でそれを切る。そして僅かな沈黙の後に、誰にも聞こえぬよう声を掠れさせてこう言った。
「……クソみたいなセリフだ」
その言葉にだけは、先程までの無感情さが無かった。棒読みの人形ではなく、個人としての感情があった。だが、男は咳払いをすると、仕切り直すように「でも」と言う。
「結局全部は無意味なんだ。無いのと変わらない」
感情の無いセリフをもう一度続ける。空と海の間で、たった一人の■■を続ける。世界の破滅と不滅、相異なる矛盾を線の薄い体の奥底に閉じ込めたまま、男はまた水平線に視線を戻した。
――――
東の、東の果て。ひたすらに闇で満たされた空間の中央に、赤黒い塊が吊るされていた。人の胴体より太い鎖で何重にも巻かれたそれは、よく見れば胎動している。出来損ないの胎児の様な、グロテスクさと歪さを混ぜこぜにしたそれは、心臓の様に脈動した。
目的はただ一つ。世界を堕落させる事のみ。下に堕とす事のみ。
体を小さく折りたたまれ、鎖で雁字搦めにされているそれは、されどひたすらにそれを望んでいた。暗黒に気の遠くなる時間拘束されようと、胸中で煮えたぎる負の感情が磨耗することは無い。
それは、世界の終末を象る舞台装置だった。デウス・エクス・マキナが筋書きを書き換えるように、それはこの世界の結末を強制的に『バッドエンド』へと書き換える。
ただ、世界を終わらせる為だけに生まれた存在。ゲームオーバーのリミットを示すための終末装置。
それには、どんな説得も抵抗も意味を成さない。何故ならば、そういうように創られたから。触れるもの全てを滅ぼす。全てを堕落させる。
それだけをプログラムされた完全なる終わりの獣は、永い眠りの中で、ゆっくりと寝返りを打ち始めた。
――――――
どこか。きっとこの世界のどこか。もしくは隙間で、シャボン玉に囲まれた少女は朗らかに笑った。シャボン玉の表面には、びっしりと謎の文字列が浮いており、それらはキラキラと輝きながら表面を滑っていた。
「あはは、面白いなっ! まだくるくる回るんだ。もうお終いかなって思ってたのに」
この空間には名前がない。そもそもここは本来存在していない。世界すべての場所に番号を振ったとすれば、この場所の番号は√−1。
存在が観測できない、確定していない。けれど確かにここは存在する。彼女も、確かに存在する。
シャボン玉の上に寄りかかって宙に浮いていた少女は、常に浮かべていた満開の笑みを微笑にまで落とし込んで、小さく呟いた。
「いつかスピカも、あそこに帰れる日が来るのかな」
その瞳に浮く感情の名前は、彼女が最も理解する物だ。それは『――』。
玉虫色の空を浮かび、視線の先に空想の月紅を生み出した少女はひたすら『――』に身を焦がす。