さあ、狂騒劇のはじまりだ
――赤い月が空に浮いていた。
プレイヤーの数々が、住民の様子に違和感を覚えた。何かに怯える様な、何かに備える様な……その兆候は、思えば二日前から出ていた。血眼で魔物を滅する門番、騒がしいギルド、城壁を修復する大工達。
商店の商品は住民達に早めに買い占められ、街の中央の領主館の前には幾人もの重装騎士が詰めかけた。
検証班……いや、検証クラン『プロビデンス』は、住民への聞き込みで、その名を耳にした。曰く、『月紅』が来ると。破滅と狂騒が目を覚ます、と。只事ではないと感じたプロビデンスのクランマスターは、メンバーを使って全てのスレッドに書き込みをした。
今日、何かが起こる。月が赤く染まる。始まりの街とエルフの里を守るべきだ、と。
魔物プレイヤーの数々は、赤い月の事を既に知っていた。前日のライチの書き込みによって、多くの魔物プレイヤーは自分の立ち位置を決めた。ある者は集まった魔物の列に加わり、ある者ははぐれた魔物を狙って身を潜めていた。
そして、ライチ達は――
ロードの祝詞が霧深い墓地に響く。凛としたその声に反応して、灰色の大地に生命が芽を出す。空は晴れ、墓は戻され、石像は威厳を取り戻していく。青い炎を灯したスケルトン達が、ふらふらと誘蛾灯に誘われるように、自らの墓に戻っていく。
二度目だとしても、その景色は圧倒的だった。何度だって圧倒されるだろうと思った。その神聖さは筆舌には尽くしがたい。遍く死者、その全ての為に、ロードは言葉を紡いでいた。呼応するように、死者、生者ともに心が奪われる。
スケルトン達の足元に、小さく花が蕾を付けて、早送りをするように芽吹いていく。眼が覚めるような鮮やかな青……紫陽花の花が咲き乱れた。
墓石に集まっていた銀の光が弾けてあちこちに散らばり、全てのスケルトンの体を包み込む。しばらくすると、スケルトンの姿が変化していく。禍々しいその姿を捨て、銀色の霊体に体が変わった。
霧の晴れたこの場所の隅に響くまで、ロードは大きく言葉を紡いだ。掲げた左手の先は血の月がある。
「好きに生きて、好きに逝け!」
浄化されし戦士達が大声を張り上げる。彼らは槍を掲げ、剣を掲げ、弓を掲げ、盾を掲げた。その中には当然のように、レオニダスの姿もある。俺とほとんど同じくらいの身長だ。……このゲームの戦士系全員背高すぎだろ。
レオニダス一行が、一頻り声を張り上げると、ロードが真剣な顔をして、話を始めた。
「蘇った皆さんにお話があります。大切な、話が。もう気付いている方もいるでしょう。……今から数分もしないうちに、『月紅』が来ます」
しん、と先程までの熱気に満ちた空気感が消失した。戦士達の間にあるのは緊張と……行き場のない怒りの感情だった。ギリギリと音がなるほど自分の得物を握りしめた戦士達を代表して、隆々とした黄金の肉体を見せつけるレオニダスが前に出た。瞳には覇気が惜しげもなく込められている。
「ああ、分かっている。我らの上に今も忌々しく昇り詰めようとしているのは、かの月紅。あの日の雪辱を、我らは決して忘れていない」
吐き捨てるようなその言葉に、多くの戦士がオォ! と賛成の意を示した。彼らの顔には果てしない戦意が宿っている。
それをぐるりと見回したレオニダスは、まさに王の威厳を込めて言った。
「なればこそ、あの月の、あの向こう側を進まねばならぬ! 闇に溺れ堕落した戦友を、取り戻さねばならぬ! ……よもや、この場で日和るような軟弱者はおるまいな!」
オオオォ!! 質量すら纏った戦士達の咆哮に気圧される。それはカルナも同じだったようで、左足が半歩下がっていた。猛々しく吠えた戦士達にロードは簡潔に作戦の概要を伝える。作戦と言えるものはあまり無いが。
「オルゲスさん達と合同で敵を迎え撃ってください。目的は勝利ではなく防衛です。あの月の鎮むその時まで、僕たちは戦い続けなければなりません」
「微力かもしれないが、俺達も手伝おう。そうだよな、カルナ」
「ここで私に振るのね……ええ、やり遂げましょう。なんて事ない、夜更かしの延長よ。パーティーの準備はよろしくて?」
カルナの言葉に、戦士達の士気は最上級のものとなった。さあ、もうそろそろだ。来るぞ、月紅が。空の月はもう輝きすら放っている。
「あと1分ね……」
「俺らの分担はどうする?」
「そうね……私がここに残るわ。あなた達二人は向こうに戻って」
「一人で大丈夫ですか……?」
「平気よ平気。こっちの方が守りは硬そうだし、何よりロードはライチが守らないといけないでしょう?危なくなったら敵集めてそっちに走っていくし」
「MPK紛いのことをするんじゃない。……まあ、本当に危なくなったらこっちに逃げろ」
「わかったわ」
「……頑張れよ。行くぞ、ロード」
本格的に時間がない。多分、走ってる途中で月は登る。それでもなんとかオルゲスと合流して防衛を固めなければ。俺たちと同じように戦士達も武器を手に移動を始めた。浄化された大地の境界線でファランクスを張る戦士達が見える。遠くの剣闘士達もスケルトン側の防衛に割いていた人員が大急ぎで戦士達と合同で戦線を貼ろうとしている。
「大丈夫……ですかね?」
俺の前を走るロードが不安げに呟いた。その顔がどんな色を見せているのかは、俺には分からない。けれど、返す言葉だけは分かる。
俺は、ニヤリと笑みを浮かべて言った。
「いざとなったら、俺が全員ぶっ飛ばすから大丈夫だ」
「そ、それ大丈夫じゃないですよね!?」
思わずつっこんだロードに軽く笑った。その時、全身に悪寒が走る。心臓が早鐘を打って、呼吸が荒くなった。通知が赤い月に重なるように現れた。
【破滅は空より来たる】
【赤い月が目覚めた】
【時限クエスト『月紅導くは狂騒と破滅』が発生しました】
【イベントクエスト:『墓守の銀、もしくは破滅の紅あるいは退廃的な死滅及び終焉』を開始します】
【クリア条件:
味方ボスの内一体及び墓守のロード・トラヴィスタナが指定時間内まで生き残っている。
・護衛対象
『墓守のロード・トラヴィスタナ』:生存
『拳闘士のオルゲス』:生存
『覇槍のレオニダス』:生存
防衛完遂まで――残り1時間59分】
「……始まったか……ん? え、ちょっと待て、どういう事だよ!?」
「空が、赤い……」
クエスト画面から視線をあげると、空が異常なほど赤かった。星の光などかけらもない、ぞっとするほどの赤。その真ん中で、血の月が玉座にかけるように居座っている。それを認識した瞬間、墓場の至る所から化け物の咆哮が上がった。龍の咆哮、人であった何者かの絶叫、墓場の外にいるであろう獣の咆哮。
断末魔に似たそれらは、赤の空に滲みあい、なんとも悪趣味なオーケストラを響かせた。狂騒が世界を包んでいる。体の奥がひどく震える感覚がある。無意識に逃げの姿勢を取ってしまっていた。
「やっべぇな……想像以上だわ」
「急ぎましょう」
「ああ、出遅れたらまずい」
戦場とは常に変化して行くもの。故に、出遅れは即ち変化への受動性の放棄。敗北を甘受することに等しい。急げ、急げ。剣戟と咆哮の欠片が視線の先から飛んで来る。赤い月との戦いは、確かに始まった。