番外:variant rhetoricを知る者
暗い部屋で、空調の重低音だけが響いていた。
いや、暗い部屋というのは正しくないのかもしれない。部屋の壁に埋め込まれた大型ディスプレイには、正体不明の数字の羅列。もしくは何人かのプレイヤーと掲示板が写っていた。それがこの部屋の唯一の明かりだ。
黒の地味な服を着た男が、前後逆向きに椅子に座っている。背もたれに腹を預けて、口元には何故だかスプーンが咥えられていた。
男は鳥の巣のようなボサボサの髪と、染み付いた分厚い隈を持っていた。
だらりと下げられた右手には紙束。くしゃくしゃなその紙束の一番上には活字で『第一回イベント草案』の文字と、それにくっきりボールペンでつけられたバツ印。
男は口の中のスプーンを転がしながら、髪を掻いた。
「ライチ……ねぇ」
その目は曇ったガラスのようで、ただ無感情にひとりのプレイヤーの戦闘シーンを見ていた。ディスプレイに映ったプレイヤーは、男の考えた悪辣なユニーククエスト、ユニークボス、さらに言えばNPCとのコミュニケーションまで成功させている。
男にとってそれは、とても信じがたいことだった。
「もう一、二ヶ月先か、もしくはゴリ押しでクリアするものかと思ってたよ」
あのユニークボスは、本来ならパーティ上限が12人のレイド戦になるはずだった。もちろん人数が多ければ多いほどより多くのギミックが現れる仕様だったが、どうやらそれらはもうデータの屑かごに捨てられる事になりそうだ。
本来ならば、ユニークボスのステータスは抑圧されてもライチを軽く葬る事が出来る領域にあった。が、まさかのソロプレイに加えて進化の一つもせず、またNPCのロード・トラヴィスタナに関してもレベルが一桁であった。
ユニークボスは敵が強く多いほどに凶悪となる。が、敵が弱く少ない場合、当然それに合わせて低減をされるのが当たり前だ。そして今回、その低減倍率は上記の点から恐ろしく高かった。それこそ、気合いと運、ビルドで乗り切れてしまうほどには。
加えて、ロード・トラヴィスタナというNPCに対し、ライチは良好極まりないコミュニケーションを行った。あっさりと彼女を口説き落とし、励まし、そしてその潜在能力……墓守の意思を最大まで引き出した。
それらはあまりにも、あまりにも凄まじい。
「……君は」
男は口の中のスプーンを外して、どんよりとした声で呟く。その声は暗い部屋に、嘆きにも似た、厭世にも似た反射をした。
男の目には黒と、一片の期待が渦巻いていた。
「見つけてくれるのか」
返事はない。当たり前だ。この部屋には鍵が掛かっているし、画面の中の他のプレイヤーはレベル上げに勤しみ、件のプレイヤーは早々に疲れた顔でログアウトしてしまった。
答えるものなど、誰もいない。
ヴァン、と重い機械音が響いた。
男が別のディスプレイを続けて見る。
そこは天と海の境界線が消えてしまったかのようなひたすらに蒼い場所で、ひとりの青年が立っていた。
そこは紫色の炎と、巨大な黒い蛆が地面を這う地獄の謁見室で、その玉座には嘲るような目で全てを見下さんとする女が居た。
そこは暗い何処かで、画面の中央には太い鎖で何重にも巻かれた赤い何かがいた。
そこは終わらない化け物たちの夜の舞踏会の会場で、主催者の女はつまらなそうに鼻を鳴らした。
そこはこの世界の裏側、もしくは隙間で、カラフルなシャボン玉に囲まれた少女は楽しそうに笑った。
そして、白い空間に一人で蹲る、全身真っ黒の少年が居た。
「見つけ、られるのかな」
改めて男は言うと、しばらくの間硬直した。
「――」
何か、機械音ではない音が聞こえた。風の音かもしれないし、紙束の擦れる音だったのかもしれない。
そんなあやふやな音を吐いて、男は手に持った紙束を宙に放り投げた。
「さあ、仕事の時間だ……」
もう一度スプーンを咥え直して、男は首の骨を鳴らした。パソコンに打ち込んだ文字は、第一回イベント草案。
そこから、男の折れそうなほど不健康な指が文字を打つ音が、日を跨ぐまで止むことは無かった。