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89、泣いた赤オーガ





 どしん、という鈍い音と共にダンジョンがぐらりと揺れる。それに合わせて天井の土がパラパラと落ち、驚いて飛び上がったスケルトンが着地に失敗して地面にその体を散らばらせた。


「なんだろ、地震?」


 そう呟いたそばから、俺はその揺れが地震によるものではないことを悟った。

 音と揺れは一定の間隔を保って何度も我がダンジョンを襲ったのである。どしん、どしん、どしんと、まるで誰かの足音のように。


「冒険者が暴れてるのかな。ちょっと俺見てくる」


 そそっかしい仲間の骨を組み立てる数体のスケルトンたちにそう告げ、俺は天井を抜けてダンジョンを上へ上へと上っていく。そのたびに揺れと音は大きくなっていくように感じた。


 どのくらいの数の天井を抜けただろう。

 突如、俺の視界が真っ赤に染まった。

 見慣れた鮮やかな血の赤ではない。明るく、少し茶色がかった、鉄錆のような赤。その表面はゴツゴツとしていて、ダンジョンの狭い通路に詰まってしまいそうなほど大きく、そしてその上部には同じ色をした二本の突起物が天に向かって伸びている。

 そしてそれは、ダンジョンの壁をゴリゴリ削りながら半身を捻るようにし、こちらを振り向いた。


「あ……う……」


 その瞬間、久しく忘れていた「本能的な恐怖」が俺の体を縛り付ける。それはきっと蛇に睨まれた蛙が抱く感情と一緒だ。

 筋肉の鎧に覆われた巨体、呆れるほど大きな口、そこから覗く人の腕ほどもありそうな牙……お伽話に出てきそうな、なんとも分かりやすい恐ろしさを持った魔物。オーガである。

 それは俺の姿を確認するやその小さな金色の眼を輝かせ、口の端を醜く釣り上がらせて大きな牙を見せつけるようにしながら言った。


「お前、ここのアンデッドか? ちょっと話があるんだが――」





*********





「……で、オーガがうちのダンジョンになんの用だ」


 吸血鬼が警戒心を滲ませつつ低い声でそう尋ねる。

 するとオーガは本来三人掛けであるはずのソファの上で窮屈そうにしながら、地獄の底から響くような恐ろしい声でこう返事をした。


「突然押しかけてすまねぇ。いきなり俺みたいなのが来て驚いただろうが……実は、少し相談に乗って貰いたい事があるんだ」

「ニクならアゲナイよ」


 そのいかにも人を取って喰いそうな風貌から、彼が自分の肉を奪いに来たとでも思っているのだろうか。ゾンビちゃんは吸血鬼の座るソファの後ろに身を隠しつつ、人見知りの猫のようにオーガの様子をジッと伺っている。

 だがオーガはゾンビちゃんの疑いに、「とんでもない」とばかりにぶんぶん首を振った。


「別に俺は食料を分けてもらいに来たんじゃない。むしろ逆だ」

「エッ、じゃあニクくれる?」


 パッと顔を輝かせながらゾンビちゃんはオーガにそう尋ねる。だがこの問いかけにもオーガは首を横に振った。


「違う! 俺はな、人間が好きなんだ。人間と仲良くなる方法が知りたくて来たんだよ

「えっ……人間と仲良く? オーガが?」


 思いがけないオーガの言葉に俺は目を丸くして恐る恐る聞き返す。するとオーガは当然の事のようにあっさり頷いてみせた。


「ああ。元人間のアンデッドならなにか良い方法を知ってるんじゃないかと思ってな」

「あれだろ。油断させて泳がせておいて、ある日突然ペロリ、ってのがやりたいんだろう」

「私もニンゲン好キだよ。特ニ肝臓が」


 訳知り顔で口を開く吸血鬼、笑顔で舌なめずりするゾンビちゃん。

 なるほど、やはりそういう意味か。と、納得しかけたところでオーガは二人の言葉を慌てたように否定した。


「違う違う違う! そういう事を言ってるんじゃない。俺は純粋に人間と友情を深めたいだけなんだよ!」

「にわかには信じ難いな」


 吸血鬼は怪訝そうに眉間に皺を寄せ、ジッとオーガの恐ろしい顔を見つめる。俺も吸血鬼と全く同じ考えだ。オーガが人と仲良くしたいなんて、にわかには信じ難い。なにか訳があるに決まっている。


「もしかして人間相手に商売でも始める気?」


 そう尋ねてみるも、オーガはまたもや首を横に振る。


「さっきから言ってるじゃないか。俺は人間が好きなんだ。人間は小さくて弱くてぷにぷにしていて可愛いだろ。アンデッドがそうするかはしらないが、人間だって犬や猫を可愛がって友達にしたりするじゃないか。種族を超えた友情なんて珍しくもないだろう」


 その言葉により、首輪をつけられた人間達がオーガに「かわいがり」を受ける場面が俺の脳内に描き出される。その光景は俺の思い浮かべる「地獄」のイメージと寸分も違わない。

 そしてオーガは、俺の脳内イメージの中でも浮かべていたその恐ろしい笑顔をこちらに向け、口を開いた。


「君たちも元人間というだけあってなかなか可愛いぞ。まぁ人間を喰うのはいただけないが」

「は……はは……それはどうも……」


 その全く嬉しくない褒め言葉に、吸血鬼は引き攣った笑みを浮かべながら歯切れの悪い返事をする。俺にはオーガの言葉に返事をする余裕すらなく、話題を変えるべく慌てて口を開いた。


「で、でも結局オーガだって人を食べるんでしょ? やっぱり人間も人喰いの化物とは相容れないんじゃないの」


 するとオーガは驚いたように目を見開き、目を吊り上げてその恐ろしい巨大な牙を剥く。


「そんな可哀想なことをするものか。俺は世界初のベジタリアンオーガなんだ。俺の主食は石榴に野苺、それからイチジクだ!」

「なんか、赤いものばっかりなのが気になる」

「ま、仮にそれが本当だとしても人間は信じないだろうな」


 吸血鬼はオーガの赤い顔を眺めながら容赦なくそう言い放つ。確かにオーガがいくら人間を食べないと主張したところでそれを信じる人間はいないだろう。オーガの口がもし野苺の果汁で汚れていたら、それを見た人間は間違いなくその赤い液体を人の血だと認識するはずである。

 吸血鬼の言葉が図星だったからだろうか。オーガの表情が急に暗いものへと変わり、ゆっくりと沈んだ声で話し始めた。


「ああ、俺だって分かってるよ。人間は俺を怖がるんだ。俺はデカイし、割りとガッシリしてるし、ちょっぴり強面だしな。前、山で人間の婆さんにバッタリ出くわしたことがあるんだが、俺を見るなり婆さんふがふが言いながら倒れちまってさ。慌てて介抱してやろうと思ったんだが、抱きかかえた時にはもう息をしてなかった。ショックだったよ。俺はなんにも悪いことしてねぇのに、この姿を見ただけで勝手に死んじまったんだ」


 喋りながら、オーガの小さな目にみるみる涙が溜まっていく。それはあっという間に貯水量を超え、オーガの赤い肌を滑り落ちて行った。体が大きければ、その涙も大粒だ。ボタボタと夕立のような音を立てながら涙が地面へ流れ落ち、彼の足元にあっという間に小さな水溜りが出来上がる。

 ボロ泣きする大の男――しかもオーガというのはなかなかに迫力がある。その勢いに気圧され、俺たちは気付くとオーガを慰める言葉を口走っていた。


「ああもう、泣くなよ」

「分かった分かった、上手くいくかは分からないけどなにか手を考えてみるから」


 地響きのような嗚咽を上げながら、オーガは何度も頷く。そして聞き取り辛い声でお礼の言葉を述べた。

 面倒な事になってしまったが、ここまで来たらもう仕方がない。俺たちは難題を解決すべく、取りあえず思いついたアイデアを口に出していくことにした。

 最初に声を上げたのは吸血鬼だ。


「朱に交われば赤くなるというだろう。親しみやすくて可愛いなにかを持ち歩くというのはどうだ。例えばそうだな、子猫とか」


 だが吸血鬼のアイデアに、オーガは困ったように眉間に皺を寄せた。


「そんなもん持ち歩いてたら潰しちまうよ」

「……それは困ったな。猫の死体では逆効果だ」


 吸血鬼は小さくため息を吐きながらそう呟く。

 もし子猫を潰さず抱くことができたとしても、やはりオーガの恐ろしさを誤魔化すには力不足だろう。この恐さは小道具程度でどうにかできるものじゃない。もっと直接的にこの顔をどうにかする必要があるのではなかろうか。

 考えた挙句、次は俺が声を上げた。


「いっそのこと、その恐い顔を隠しちゃえば良いんじゃない? 道化師の格好とかどう?」


 肌を白く塗れば、赤い肌も隠せる。ピエロメイクをすればその顔も誤魔化せるのでは、と思った末のアイデアだった。

 だが俺の渾身のアイデアに吸血鬼が首を振る。


「それは恐さのベクトルが変わるだけだろう。馬鹿でかい牙の生えた道化師とお近づきになりたいか?」

「ああ……確かに……」


 直接的な恐さは確かに軽減されるかもしれないが、得体のしれない不気味さが増すことで結果としてはプラスマイナスゼロ……どころか、下手すればマイナスにすらなりかねない。服装や化粧でも、やはりこの恐ろしさは隠せそうにない。

 ではどうしたら良いのか。数秒の沈黙の後、次に声を上げたのはゾンビちゃんだった。


「ニクだよ。ニクを配レバきっとミンナついてクルよ」


 なるほど、ゾンビちゃんらしいアイデアである。

 だが肉を配り歩くオーガを想像し、俺は思わず身震いした。


「オーガから貰った肉は……ちょっと食べたくないかな。獣の肉じゃない可能性が頭を過るし」

「お前はちょっと黙ってろ」

「むー」


 ため息交じりの吸血鬼の言葉にゾンビちゃんは不服そうに口を尖らせた。

 とはいえ、ゾンビちゃんのその発想自体は悪くないように思える。


「まぁでも、恐ろしい姿を無理に誤魔化すよりは賢明かも。要するに見た目の恐怖感を吹き飛ばすくらいの利益を与えることができれば、人間達は自然に寄ってくると思うんだ」

「利益……って言われてもな。俺、宝物っていったらグリフォン革のパンツくらいしか」


 そう言いながらオーガは腰に巻いたボロ布に手をかける。まさかそれをたくし上げようとしているのか。俺は慌てて首を振り、それを止める。


「いや、むしろ物じゃないほうが良いよ。そうだな、例えば恐ろしい怪物に襲われている人間をオーガが助けたりなんかすれば、人間も心を開いてくれるようになるかもね。『命の恩人』ってのは見た目の恐怖感を吹き飛ばすインパクトがあると思うよ」

「なるほど。確かに腕っぷしにはちょっとばかり自信がある。けど、そう都合よく襲われてる人間なんていないしなぁ」


 オーガはそう言いながらガックリ肩を落とす。

 それに同調するように吸血鬼とゾンビちゃんも頷いた。


「確かにな」

「ナイナイ」

「まぁ、それは地道に探していってもらうしか……」


 その時だった。

 慌ただしく通路を駆ける音が響いてきた直後、数体のスケルトンが勢い良く部屋に転がり込んできた。

 彼らはクシャクシャになった紙を俺たちに向けて高く掲げる。


『冒険者来た』

『すぐそこにいるよ』

『出動して!』

「ニク! 任セテ!」


 ゾンビちゃんはケーキを前にした子供のように歓喜の声を上げ、物凄い速さでソファを飛び出す。彼女はそのまま他の物には目もくれず部屋を飛び出していってしまった。その後を追うようにスケルトンたちも部屋を出ていく。

 扉の外からはたくさんのスケルトンたちの骨が鳴る音や鎧の擦れる音も聞こえてくる。物々しい雰囲気に飲まれてしまったのだろうか。オーガは不安そうな表情を浮かべながらあちこちに視線を泳がせる。


「な、なんだ? どうしたんだ一体」

「冒険者だよ。冒険者が侵入したんだ」

「そ、それはつまり……人間が入ってきたってことか?」


 恐る恐ると言ったふうにオーガがそう尋ねる。俺たちは彼の言葉に頷いた。

 こうなったら俺たちもうかうかしてはいられない。俺はすぐ冒険者の元へ向かわなくてはならないし、吸血鬼も最深層で冒険者を待ち受けなくては。

 吸血鬼はソファから静かに立ち上がり、扉へ視線を向けながらオーガに声を掛ける。


「僕らは戦いに出る。君はここで待って――」

「ダメだ! 人間を殺させはしない!」


 オーガは吸血鬼の言葉を遮り、もともと赤い顔をドス黒くしながら鼻息荒く立ち上がった。

 このダンジョンの常識とはかけ離れた言葉に、俺たちは思わず素っ頓狂な声を上げる。


「はぁ? なに言ってるんだ」

「人間が好きなのは分かったけど、ここはダンジョンだよ。ここのルールに従って貰わないと」

「そんな事関係ねぇ!」


 オーガは声を荒げながら立ち上がる。

 やはりその体は見上げるばかりに大きく、もう死んだはずの俺が命の心配をしてしまう程の威圧感を放っている。

 だが吸血鬼は恐怖の表情など微塵も見せず、オーガとは違う種類の威圧感を放ちながらその巨体の前に立ち塞がった。


「おい待て、なにするつもりだ」


 吸血鬼は目を細めてオーガを見据え、低い声でそう尋ねる。それは警告にも似た響きであったが、オーガはその言葉に耳を貸すつもりはないようだ。

 オーガは丸太のような太い腕を思い切り振り下ろして吸血鬼に叩き付け、彼を部屋の壁にめり込ませる程の勢いで吹っ飛ばした。

 立ち塞がる者は何人たりとも容赦しないということだろうか。オーガは閉まったままの扉すら体当たりでぶち破り、ドタドタ足音を響かせながら部屋を飛び出していった。


「だ、大丈夫だった?」


 俺はそう声を掛けながら恐る恐る吸血鬼へと駆け寄る。

 あの巨体から繰り出された攻撃をまともに食らったのだ。ハラワタの一つも飛び出てしまっているかもしれない。という俺の予想を裏切り、吸血鬼の腹は意外にも破れていないようだった。

 とはいえ、全くの無傷という訳でもないらしい。吸血鬼は顔を歪めて左腕を擦りながらフラリと立ち上がる。


「クソッ、想像以上の腕力だ。まったく、オーガ助けなんてやる物じゃないな」

「そんな事よりどうしよう。もう行っちゃったよ!」

「もちろん追うぞ。君も見てたろう、先に手を出したのはヤツだ。もう容赦しない」


 吸血鬼は物騒な台詞を吐き捨てながら立ち上がり、オーガの後を追うべく地面を蹴った。


 誰に聞かずとも、オーガがどこを通ってゾンビちゃんの元に向かったのかはすぐに分かった。地面に俵のような足跡が付き、狭い通路の壁などはところどころ削れてしまっている。ヤツの巨体ではそう早くは走れまい。

 予想通り、俺たちはすぐにオーガの広すぎる赤い背中を捉えることができた。


「さっきのお返しだ」


 吸血鬼はそう呟き、ラストスパートとばかりにスピードを上げる。

 が、少々追いつくのが遅かった。

 オーガの巨体のすぐ先に、血塗れで冒険者と睨み合うゾンビちゃんの姿が見えたのである。かなりの激闘を繰り広げているらしく、ゾンビちゃんも冒険者もボロボロだ。

 戦いに集中しているためか、迫るオーガにも気が付かない。


「ゾンビちゃん! 危ない!」


 俺の叫びに反応してこちらへ顔を向けた次の瞬間。ゾンビちゃんは助走をつけたオーガの体当たりによって「ぐちゃり」という熟れた果実の潰れるような音とともに部屋の隅まで吹っ飛んだ。


「くっ……間に合わなかったか」


 吸血鬼は悔しそうに唇を噛み、走る速度を大幅に落とした。

 確かに俺たちはオーガに先を越されてしまった。しかし、彼は一体これからどうするつもりなのか。

 当の冒険者はというと、瞬く間に血塗れボロ雑巾と化したゾンビちゃんと突然現れた謎の怪物(オーガ)とを見比べ、呆然と立ち尽くしている。無理もない反応だ。事情を知らない彼にとって、二人はどちらも倒すべき化け物にしか見えていないに違いない。

 だがオーガはそんなことお構いなしに巨大な赤い手で冒険者を包み込み、まるで子猫でも抱きかかえるかのように軽々持ち上げてその体を見回す。


「大丈夫だったか!? 怪我してるじゃないか」


 赤い肌にゾンビちゃんの肉片と血を滴らせ、その金色の眼をぎらぎらさせながら冒険者の顔を覗き込む。

 生前は冒険者として、今はダンジョンに住むアンデッドとして様々な魔物と関わってきた。しかしここまで恐ろしい姿の魔物はそうそういない。

 今オーガの手の中でブルブル震えている彼もそう思っているに違いない。ある程度の距離を保てていれば勝機があったのかもしれないが、今の冒険者はまさしくまな板の上の鯉。巨大な手で腕ごと胴体を掴まれ、剣を振るう事も出来ない。この様子だと恐らく魔法も使えないのだろう。冒険者にとっては明らかに最悪の状況だ。

 それに気付いていないのか、オーガはその恐ろしい顔を冒険者へ近づけていく。


「ああ可哀想に! こんなに血が、血が……血が!」


 興奮のあまり力んでいるのだろうか。冒険者の骨がミシミシと軋み、それに合わせて悲鳴にも似た声が上がる。


「な、なんか様子が――」


 その時だった。

 オーガは怯える冒険者の頭をおもむろに口に突っ込み――そしてブチン、と立派な歯でその首を噛み切った。


「……は?」

「……えっ」


 ボリ……ボリ……という硬いものを砕くような音が静まり返ったダンジョンに響き渡る。冒険者の頭があるはずの場所からは湧き出る泉のように滾々と血液が溢れ出して自らの体とオーガの手を鮮やかな赤に染めている。

 俺たちは首の無い死体を握りしめたオーガを呆然と見つめることしかできなかった。

 どういう事だこれは。話が違うじゃないか。

 オーガが人間を食うこと自体は自然な事だ。だがヤツは人間が好きだと言った。人間が好きで、人間を殺させたくなかったから立ち塞がった吸血鬼を薙ぎ払い、ゾンビちゃんを吹っ飛ばしてトマトみたいに潰したんじゃないのか。

 俺たち二人が喋る事を忘れて立ち尽くす中、沈黙を破ったのは吹っ飛ばされたはずのゾンビちゃんであった。


「ウ……ア……ニク! ナンデ、返シテよ!」


 地面に血の跡をつけながらゾンビちゃんは這うようにしてこちらに近付き、そしてオーガの俵のような足にしがみ付いた。とはいえ、人間なら動けないどころか即死するレベルの酷い損傷だ。存在しないはずの関節ができ、元の関節も可動域を大幅に超えて曲がってしまっている。ところどころ欠損しているパーツは、きっと部屋の隅の血の海の底にでも沈んでいるのだろう。

 こんな状態にもかかわらず、彼女の怒りの理由はあくまで肉を横取りされたことであるらしい。ここまで徹底していると感心すらしてしまう。


「ニク! ニク!」


 ゾンビちゃんは崩れかけた腕を振り回し、オーガの足を殴りつける。そのたびにベチャベチャと湿っぽい音がして肉片が飛び散る。こんなひしゃげた体でオーガと戦うことは難しい。

 だが彼女の行動はオーガにダメージを与えることこそできなかったものの、彼を正気に戻すことには成功したようだった。

 オーガはハッとしたように目を見開き、自分の手の中の首の無い死体を見つめてブルブル震えはじめたのだ。


「は……あっ、俺はなにを……あっ、ああ……もしかしてまたやってしまったのか!」


 その尋常でない様子に、吸血鬼もつい先程まで抱いていた怒りを忘れてしまったようだ。呆気にとられた表情を浮かべて独り言のように口を開く。


「まさか無意識にやったのか?」

「あ……ああ、ダメなんだよ。血を見ると、匂いを嗅ぐと、体が勝手に動いちまう」


 オーガの手はこちらにまで振動が伝わってきそうなほどに震え、力み、ケチャップを強く握りつぶした時のように首無し死体の体に残った血が首の切断面から溢れ出し、ボタボタと地面に流れ落ちて大きな血溜まりを作っている。

 どうやら彼の言っていることに嘘偽りはないらしい。とすると、彼がこのような凶行に及んだ原因は一つしか考えられない。


「……やっぱりオーガがベジタリアンってのは無理があるね」


 俺の言葉が引き金となったのか。

 オーガは首のない血塗れの死体を抱えたまま崩れ落ちるように血溜まりの中に膝をつけた。


「うわああああッ! すまない、すまない人間よ!」


 死体を抱きしめ、オーガは獣の咆哮にも似た泣き声を上げる。少々力加減が下手らしく、死体はバキバキと小気味よい音を立てながら腕をあらぬ方向に曲げている。

 それよりもさらに酷い状態のゾンビちゃんが、ズルズル不気味な音を響かせながら死体に手を伸ばした。しかし折れ曲がった腕は惜しくも死体に届かない。


「ニク! ニク! 私ノ、返シテ!」


 オーガの嗚咽に混じってゾンビちゃんの声がダンジョンに反響する。

 首の無い死体、泣き喚くオーガ、縋り付く半分肉塊と化したゾンビ少女。

 その光景は比喩でも何でもなく地獄絵図そのものであった。


「人間に好かれる努力より、ちゃんとお腹を満たせる代替食品を探す方が先だね」


 俺の今日一番のアイデアは地獄のような狂騒に掻き消され、自分自身の耳にすら届かなかった。





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