88、魅惑の生足マーメイド
「あのう、誰かいますかー……?」
ダンジョン入り口から聞こえてくる若い女性のものと思われる可愛らしい声。
意気揚々と見に行った俺の目に映ったのは、水色のドレスから伸びたすらりとした長い脚、ほっそりした腰、服の上からでも分かるスレンダーな体に似合わない胸部の膨らみ、そしてテカテカ輝く銀色の頭部――
「……ん?」
なんだこの頭部は。
失礼な事とは思いつつ、俺は彼女の頭をまじまじ見つめる。
銀色に輝く肌、頭のてっぺんについている少々尖った口、顔の片側に一つだけ付いた握りこぶしほどもある巨大な目がこちらをじいっと見つめている。
彼女の頭部は、明らかに大型回遊魚のそれであった。
「あの?」
「あっ、は、はい!」
恐らくは魔物だろう。
こういう思わずギョッとする見た目の者もこのダンジョンには度々訪れるのだ。そういった者への対応も随分慣れてきたと思っていたが、この素晴らしいスタイルの体と魚の頭とのギャップに思わず固まってしまったらしい。
俺は改めて彼女に向き合い、出来る限り優しく尋ねる。
「ええと、なにか御用でしょうか」
「私、人を探していて」
「人……ですか?」
「はい! 銀髪で、綺麗な琥珀色の眼をした長身の男性なのですが」
銀髪に琥珀色の眼。そんなヤツ、俺は一人しか知らない。彼女が狼男のことを言っているのは明白だった。軽薄な笑顔を浮かべたヤツの顔が目に浮かぶ。
だが一体この女性が狼男になんの用があるというのか。女たらしの狼男のことだ、もしかすると――嫌な考えが頭を過る。
「まさかあいつ、魚類もイケる……?」
*********
「私、彼に一目惚れしてしまったんです!」
応接室へと案内してソファに座らせるなり、魚頭の女はその拳大の大きさの目を輝かせながら怖気づく様子もなく集まった俺たちにそう宣言をしてみせる。
大方の予想に反し、どうやらその想いは未だ一方通行であるらしい。それどころか、まだ狼男と顔を見合わせて話したことすらないのだと彼女は言った。
「彼とどうしてもお近付きになりたくて、噂を頼りにあちこち探し回ったのですがなかなか捕まらず。こちらによく出入りしていると聞いて藁にもすがる思いでやってきたのです」
俺たちは互いに顔を見合わせて誰からともなくため息を吐く。
彼女の必死な姿がなんとも痛々しい。健気なこの女性の助けになってあげたいのは山々なのだが、なにせ相手は狼男。あんな女の敵と関わりを持ったら酷い目に合うに違いない。
「確かにこのダンジョンにもちょくちょく顔を出すけど……悪いことは言わないから狼男はやめといた方が良いよ」
「レイスの言うとおりだ」
「アンナノ追イかけるクライならネズミ追イかける方が有意義だよ」
俺たちは破滅に向かわんとする彼女を止めるべく、口々に狼男の悪行の数々をぶちまける。
だが恋は盲目という事なのだろうか、魚頭の女は俺達の言葉に耳を貸そうとしない。
「そういう話は耳にタコができるほど聞きましたけど……せっかくここまで来たんです、彼に会わなきゃ帰れません!」
彼女はそのどこを見ているのかイマイチわからない目を輝かせながら力説してみせる。顔さえ見なければ普通の恋に恋する少女といったところだ。ほんと、顔さえ見なければ。
「君、そもそも一体どこでヤツと会ったんだ? その時直接話しかければこんなまどろっこしい真似しなくてすんだのに」
何を言っても無駄だと悟ったのだろうか、吸血鬼は説得をやめて彼女にそう尋ねる。すると彼女はガックリ肩を落とし、まるで酸欠の金魚のように天井を向いた口をパクパクと動かした。
「もちろんそうできたら良かったのですが……その時はまだ、私と彼は住む世界が違ったのです」
それを皮切りに、彼女は聞いてもいないのに話しだした。
彼女がどのようにして狼男に心を奪われたかを。
「日の沈みかけた夕暮れの海岸で、私は初めて彼を見ました。彼は誰かと寄り添いあって海を見ているようでしたが、そこにもう一人人間が現れたんです。三人はしばらくの間浜辺の真ん中で賑やかに騒いでいましたが、やがてどこからか拾ってきた棒を使って二人は彼を殴りつけ始めました」
「何やってるんだアイツは」
「修羅場ってやつかな」
なんとも凄惨な修羅場を目撃したらしいが、彼女は顔色ひとつ変えずその時の事を話し続ける。いや、俺に魚の表情が読み取れないだけかもしれないが。
その無機質な表情とは裏腹に彼女の声は夢でも見ているような、どこかうっとりとしたものであった。
「日が沈んで徐々に赤みを失っていく海岸とは裏腹に、彼の体はどんどんと深い赤に染まっていく。海では見られない光景でした。そこで私、彼の虜になってしまったんです」
表情と声と話の内容がチグハグで、頭の中がこんがらがってしまいそうだ。
なんと言っていいか分からない俺と退屈そうな表情を浮かべるゾンビちゃんを横目に、吸血鬼が呆れたようにため息を吐く。
「君もなかなかすごい趣味をしてるな」
「そうですかね? あんまり自覚ないですけど……とにかく、その時決意したんです。私は必ず彼の元へ行く、なにを犠牲にしても――と。そして私は魔女の元へ行き、陸に上がるため人の脚を手に入れました」
「……ん? 脚?」
「なにか?」
俺は彼女の銀色に輝く頭を眺め、次にほっそりした首、華奢な肩、それからドレスから伸びる美しい脚に視線を移していく。
そして俺は、混乱のあまり思わず頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待って。整理させて。ええと、君は元々海の中にいて、海面から顔を出して浜辺にいる狼男たちを見ていたってことで良いのかな?」
「ええ、その通りです」
「なるほど。じゃあその時の君の様子はどんな感じだったの?」
「様子?」
「ええとつまり、今の口ぶりだと魔女と取り引きするまで脚は人間のそれじゃなかったって風に聞こえたんだけど」
俺の言葉に、彼女はその銀色の頭部を小さく揺らして頷く。
「それで合っていますよ。自分で言うのも何ですが、私のこの脚は少し前までキラキラ輝く鱗に覆われたとても美しい尻尾だったんです」
「うん、魚の尾みたいな形をしていたんだね。じゃあ胴体は?」
「やだなぁ、胴体は生まれた時からこの形です。なにもイジってませんよ」
「そ、そう。じゃあええと……頭は?」
何とも言えない緊張感を胸に、俺は恐る恐る尋ねる。
すると彼女は、拍子抜けするほどあっさり明るい声を上げた。
「ああこれですか! これはですねぇ、元々はあなた達と同じような形をしていたんですが、脚を手に入れるのと引き換えに魚のものと代えられてしまいました」
「あ、脚の代償に頭を!?」
吸血鬼は信じられないとばかりに素っ頓狂な声を上げる。
だが彼女は、吸血鬼の言葉に事も無げに頷いてみせた。
「ええ。だって陸に上がるには脚が不可欠ですもの」
「だからって、もう少しマシな取り引きはなかったの?」
陸で人を探し回るのに脚が必要なのは分かるが、頭部が魚になるくらいなら台車の上に水槽でも乗せて人魚のまま狼男に会ったほうが良かったのではないだろうか。
少なくとも狼男はそちらの方が喜んだはずだ。絶対に。
だが海の中はこちらと少々常識が違うのだろうか。
彼女は銀色の頭部を撫でながら可愛らしく首を傾げてみせる。
「そういえば魔女は最初、声と引き換えに脚をやろうって取り引きを持ちかけて来ましたね。でもお喋りできなきゃ彼と愛を深められないじゃないですか」
「いやぁ、頭が魚の人の方が愛を深められないと思うんだけどなぁ」
「もういっそ人魚の姿のほうが良いんじゃないのか」
吸血鬼も俺と同じ事を思ったらしい。表情の読み取れない巨大な目を見つめながら、吸血鬼は遠慮なくそう言い放つ。
だが彼女はきょとんとした表情……をしているかはよく分からないが、頭に手を当てて首を傾げてみせた。
「ええっ、どうしてです? 元の姿だと魚率50パーセントなのに対して、今は魚率15パーセントくらいですよ? 人間に近付けてると思うんですけど」
「いやまぁ単純に面積だけで考えるとそうだけど……」
「もうやめだやめだ。僕らがうだうだ話してたって仕方がない。コウモリ便で狼男を呼んでやるから、あとは二人で話し合え」
吸血鬼はそう言いながらおもむろに立ち上がり、スケルトンから借りたペンをその辺のチラシの裏紙に走らせた。
「ええっ、良いの吸血鬼? 狼男なんかと付き合ったら絶対不幸になるってこの娘」
「僕らが何を言ったってあの娘は止まらないさ。狼男に直接振られれば流石に諦めがつくだろう」
「……振るかなぁ、狼男」
「振るだろう流石に……振るよな?」
俺達は恐る恐る魚頭の少女に目を向ける。
だがいつの間にか、向こうもその表情の読めない目をこちらへと向けていた。彼女は酸欠の金魚のように頭頂部の口をパクパクさせる。
「そんな縁起の悪い話、告白の前になさらないで下さいよ」
ちょっと拗ねたような、不機嫌そうな声だ。どうやら聞こえてしまったらしい。
なにか言い訳をしようと口を開きかけたが、それより早く彼女の口がパクパクと動いた。
「でも……もし万一振られたら、少し協力して頂きたいことが――」
*********
「うーーーーーーん」
ようやく巡り会えた魚頭の少女の想い人は、先程からずっと唸り声を上げながら彫刻の品定めでもするように彼女の周囲をぐるぐると回っている。
「体は凄く良い、声も可愛いけど……うーーーーん、顔隠せばイケるかなぁ……」
全く遠慮することなく、狼男は唸り声を上げながら少女の体をジロジロと見回す。その失礼な態度に文句の一つも言わないのは相手が彼女の想い人である狼男だからか、それとも広い海が育てたのんびりした気質によるものなのかは分からない。
彼女が何も言わないのを良いことに、狼男はしばらくの間勝手なことを言いながら彼女の周りをウロウロ歩き回った。だがやがて彼は意を決したように顔を上げ、そして首を横に振った。
「……やっぱダメだわ、ごめん。俺結構鼻が良いからさ、生臭いのがちょっと」
「そ、そんなぁ」
少女はガックリ肩を落とし、頭頂部の口から大きくため息を吐く。
やはりその顔から表情は読み取れないものの、彼女の全身から発せられる落胆の空気を感じ取ることはできた。しばらく負のオーラを発し続けていたが、やがて彼女はゆっくりとその銀色の口を開く。
「でもあなたが言うなら仕方ないですね。大人しく海に帰ります……」
沈んだ声ではあるが、彼女もなんとか諦めがついたようだ。
「よ、良かった。振った」
「結構ギリギリだったな……」
俺は吸血鬼と顔を合わせ、思わず安堵の息を吐く。
来るもの拒まずな狼男もさすがに魚頭の女子は守備範囲の外だったようだ。
まぁ結果的にはこれで良かったのだ。スッパリ振ってくれたお陰で、俺たちもスッと次の段階に移れる。
「まぁ振られたんなら仕方ない」
「仕方ナイ」
ゾンビちゃんと吸血鬼がそれぞれ狼男の両脇へスッと近付いていく。そして二人は狼男の腕をそれぞれガッシリと掴み、彼の自由を奪った。
「え、なになに?」
狼男は困惑したようにキョロキョロと視線を巡らせる。無防備になった狼男の元へ、魚頭の少女がゆっくりと近付いていく。
そして彼女は、狼男の目の前で青いビロードの布を取り出した。折り畳まれたその布から出てきたのは、柄に美しい飾りの施された短剣だ。小ぶりではあるが、よく手入れされたその刀身は彼女の頭部と同じく銀色に輝いている。
「ごめんなさい、海に帰るために血が必要なの」
「え? ちょ……待っ」
彼女は短剣を両手に構え、そのまま狼男の胸に飛び込んだ。
鈍い音と共に短剣が狼男の胸に突き刺さり、少し遅れてシャツにじわりと血が滲む。
だが胸にひと突きするだけでは飽き足らず、魚頭の少女は狼男の胸に刺さった短剣をグリグリと左右に回した。
「痛い痛い痛い痛い!」
「ごめんなさいごめんなさい、頭と脚に浴びなくてはいけないのでもう少し血が必要なんです」
少女はペコペコ頭を下げながら申し訳なさそうな声を上げるものの、その手は少しも緩めようとしない。
それどころか血に濡れた自分の手を見て、彼女はうっとり呟いた。
「……まぁ、やっぱりとても綺麗な色。記念にしたいからもう少し下さいね」
少女は短剣を引き抜き、次は狼男の腹部に短剣を突き立てた。そこから流れ出る血を、彼女はどこからか取り出した空の小瓶に詰めていく。可愛らしいリボン付きの小瓶に詰められた血は、一見すると苺のジャムのようにも見える。
狼男は呻き声を上げながら青ざめた顔を上げ、こちらに縋るような視線を向けた。
「ねぇあのさ、俺突然呼び出されて魚人に告白されたと思ったらナイフで腹抉られてるんだけど、これどういうことなの? ちょっと理解が追いつかないんだけど」
俺はあれこれと考えを巡らせた後、狼男を見下ろしながら一言だけ呟いた。
「悲恋だよ」
「悲恋?」
「そう、悲恋だよこれは。人魚といえば悲恋だからね」
俺はしみじみとそう繰り返す。
狼男は怪訝そうな表情を浮かべて、俺をジッと見つめた。
「説明が面倒なだけじゃなく?」
「……悲恋だよ」