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74、茶色くて甘くてテカテカした砂糖と油と怨念の塊





「やぁみんな! お邪魔してるよー」


 明るい声を上げながら甘い匂いと共に狼男が暗闇の中から姿を現した。甘い匂いといってもいつもの女物の香水とは違う、もっともっと甘ったるくて誰もが一度は嗅いだことのある香りだ。その両手には大きな紙袋をいくつも持ち、袋が揺れるたびにふわりと甘い香りが辺りに漂う。


「今日は随分大荷物だな」

「ヘンなニオイ」


 吸血鬼もゾンビちゃんも怪訝な表情を浮かべて狼男を見つめる。

 だが俺の視線は狼男ではなく、彼の持つ紙袋に釘付けであった。


「なんだレイス、目が血走ってるぞ」


 すぐそばにいるはずの吸血鬼の声をどこか遠くに感じながら、俺は震える手で恐る恐る紙袋を指差す。


「そ、それってまさか……」


 すると、狼男はなんの躊躇いもなくケロリとした顔で言い放った。


「ああ、チョコだよ。今日バレンタインだから」

「はああああああ!? チョコ!? それ全部!?」

「え? う、うん」

「なんでそんなモノわざわざダンジョンに持ち込むの? 理解に苦しむんだけど」

「えーっと、俺はどうしてレイス君がそんなに怒ってるのか理解に苦しんでるんだけど……あ、そっか。レイス君チョコが好きなんだね」


 狼男は紙袋から綺麗にラッピングされたチョコをいくつか取り出し、俺の前に並べる。


「……なに?」

「食べられないだろうけど、とりあえずお供えしてあげるよ。せめて気分だけでも味わって」


 そう言って、狼男は墓参りよろしく俺の前に跪き目を閉じて手を合わせる。こんなに露骨に幽霊扱いされたのは初めてだ。


「犬畜生の分際でチョコなんて食いやがって。チョコレート中毒で死ね」

「今日は随分荒れてるなぁ。レイス君そんなにチョコ好きだったんだ」

「お前は本当に人の神経を逆撫でするのが上手いな」

「ええ?」


 吸血鬼の呆れたような声に狼男はきょとんとした顔で首を傾げる。

 そうか。本当の勝ち組は己の勝ち負けや順位、他人の成果など気にしないのだ。だから狼男はこうも余裕のある表情をしているのだ。

 その事実に、俺の内側で燻ぶるドス黒い炎が大きくなるのを感じた。


「妬ましい……女の子からチョコを貰える男が妬ましい……女の子からチョコを貰った男を一人一人殺して周りたい……」

「すげー悪霊っぽくなってる。落ち着いてよレイス君、女の子の嫉妬は可愛いけど男の僻みはみっともないよ」

「アアアアアアアアッ」


 狼男の言葉が突き刺さり、目の前が真っ暗になった。

 なにがなんだか分からなくなり、俺は頭を掻き毟りながら半狂乱になって悲鳴を上げる。


「馬鹿がっ、これ以上レイスを刺激するな! おいレイス、深呼吸してよく考えろ。たかがチョコだろ? 僕らがそんなもの貰ったって仕方ないじゃないか」


 自分の悲鳴に紛れて聞こえてくる吸血鬼の冷静な言葉によって俺は急激に冷たい正気を取り戻した。

 だがせっかく戻った正常な思考で考えるのは、やはりあの茶色くて甘くてテカテカした砂糖と油の塊のことばかりである。黙って街を歩くだけで複数の女性から綺麗な箱入りチョコを貰えそうな顔をした我が同僚に向かって、俺は静かに語りかける。


「ああ、そうか。持たざる者の気持ちなんて持てる者には分からないんだ。良い? バレンタインデーにおけるチョコって言うのは騎士にとっての勲章、戦士にとっての戦果、つまり男の価値をはかるアイテムにも等しいんだよ。食べられる、食べられないなんて問題じゃない。バレンタインに女子から貰うチョコって言うのは『チョコレート』以上の価値を持ってるんだ」

「そんな大袈裟な……」


 吸血鬼は眉間にシワを寄せ、どこか憐れむような目付きで俺の透けた体を見つめる。そんな目をするくらいならチョコをくれと殴りつけてやりたい気分だ。

 いや、やっぱ男のチョコなんていらない。何も言わず黙って殴りたい。


「チョコくらいレイス君だって作ってもらえば良いじゃん」


 狼男はアホ面引っさげ、ぬけぬけと思慮の浅い提案をする。

 俺は静かに、低い声でゆっくりと狼男に聞き返した。


「誰に、なにを、どうするって?」

「だから、このダンジョンの女の子にチョコを……」


 狼男はそんな事を言いながら地面に寝そべる我がダンジョンの紅一点を見下ろした。彼女は俺の前に供えられたチョコレート入りと思われる箱を指でつついて弄んでいる。


「ニク、ニク、ニクー」


 男たちのチョコレート談義にすっかり興味を失ったらしいゾンビちゃんを横目に、狼男はいつになく気不味そうな表情を浮かべた。


「……ごめん」

「それで? 狼男はそんな大量のチョコを持ってわざわざなにをしにこのダンジョンに来たわけ? 自慢?」

「ち、違うよ。ちょっと見て」


 狼男はそう言って紙袋の一つをひっくり返し、机の上にチョコの山を作った。そのどれもがラッピング一つとっても大量生産の義理チョコとは違う手の凝ったものばかりだ。心の中に燻ぶる火が一層大きくなるのを感じる。


「なんだよ、戦果報告ですか」

「違うって! 例えば……ほらこれ」


 狼男は金色のリボンと真っ赤な包装紙でラッピングされた小さな箱からトリュフチョコを一粒取り出し、真ん中で器用に割ってみせる。すると割れたチョコの中から粘性のある赤黒い液体がとろりと漏れ出して狼男の指を染めた。やはり本命ともなるとチョコレートのクオリティも一味違う。


「ベリーソース? まーオシャレですねー」


 俺の皮肉混じりの言葉に、吸血鬼が静かに首を振った。


「いや……これはそんな可愛いものじゃない……」


 吸血鬼の表情はどこか硬く、食品を見ているとは思えないような険しい視線を狼男の手のひらに向ける。

 狼男は苦笑いを浮かべて吸血鬼の言葉に頷いた。


「そう、これ血だよ」

「ふうん、血か……えっ、血?」


 俺は目を丸くし、狼男の手の上で甘い匂いを放つソレをまじまじ見つめる。

 戦いに敗れた冒険者たちの屍から流れ出るおびただしい量の血にはなんの感情も抱かないのに、この可愛いラッピングと甘いチョコレートでコーティングされた赤いものの正体には戦慄を覚えずにいられなかった。

 だが当の狼男は、こんなの大した事じゃないとばかりに割ったチョコレートを箱に戻してヘラヘラ笑ってみせる。


「俺、こういう変なモノ貰うこと多いんだよ。まぁこれは食べても害はないからまだ良いけど、変な薬とか、ヘタしたら毒とか入れられてる可能性あるからさ。ダンジョンここなら滅多な事じゃ死なないし、薬で錯乱してもみんなが止めてくれるでしょ?」

「だからなんでお前はそんなヤバイ女とばかり関わるんだ」

「そんなロシアンルーレットみたいな真似してまでチョコ食べなくても……」


 俺たちの割と真剣な言葉に、狼男は吹けば飛ぶような軽薄そのものといった口調で言い返す。


「せっかく作ってくれたのに捨てるなんてもったいないじゃん。それにほら、どうせ一人じゃこんなに食べられないし。吸血鬼君も一つどう? 血液入りだよ」

「いらん、気色悪い」


 吸血鬼は頬を引き攣らせながら狼男の勧めを即座に突っぱねる。

 すると狼男はまた別のチョコレートの包み紙を破りながらつまらなさそうに口を尖らせた。


「つれないなぁ。じゃあゾンビちゃん、あーん」


 狼男は新しいチョコレートをつまみ、地面に寝そべるゾンビちゃんの口元にそれを差し出す。その四角く切られた柔らかなチョコレートにゾンビちゃんは躊躇うことなく食らいつく。

 チョコをつまんだ狼男の指諸共。


「痛あああッ!?」


 狼男は親指と人差し指から流れる血で袖を真っ赤に染め上げながら地面を転がりまわる。

 俺たちはその様を見下ろしながら静かにため息を吐いた。


「馬鹿かお前は。猛獣に手渡しで餌をやるな」

「女の子に貰ったチョコレートを他の女の子に食べさせちゃダメじゃん」

「はは……で、そのチョコはどう?」


 狼男は指を抑えて蒼い顔をしながらも、得体の知れないチョコレートを口にしたゾンビちゃんに視線を送る。彼女はパキパキという生チョコにあるまじき音を響かせながらチョコレートを咀嚼していた。ゾンビちゃん自身は平然とした顔でチョコを食べているものの、なんらかの異物が混入していることは明らかだ。


「また良からぬものが入ってるな」

「んー、爪かな?」


 吸血鬼が苦虫を噛み潰した顔をする横で、狼男は気味悪いくらい冷静にチョコに混入した異物を推測する。

 俺は狼男のあまりの冷静な反応に薄ら寒い恐怖すら感じながら山のように残っているチョコレートに視線を向ける。ついさっきまで輝いて見えたチョコレートの数々が、今や女たちの怨念渦巻くグロテスクでドス黒い塊にしか見えない。


「当たり……というかハズレ多すぎじゃない? まともなチョコあるの?」

「た、たまたまそういうチョコを引いちゃっただけだよ。さぁゾンビちゃん遠慮せず食べて食べて」


 狼男はそう言ってチョコレートの包み紙を次々破り、ゾンビちゃんに押し付けていく。


「ゾンビちゃんに毒味させるなよ……」


 そう狼男を窘めてはみたものの、ゾンビちゃんも特に文句を言うこともなく、時折恐ろしい咀嚼音を響かせながらそのおぞましいチョコを黙々と頬張っていく。

 だがとうとう恐れていた事態が起こった。

 手のひらサイズの小さなカップケーキをカップごと頬張り飲み込んだ次の瞬間、ゾンビちゃんが目を回しながらおびただしい量の血を吐き出したのである。中に毒でも入っていたに違いない。

 だが流石と言うかなんと言うか、ゾンビちゃんは血を吐きながらもチョコを食べる手を休めようとはしなかった。


「うわああ、無理しないで良いから!」


 俺の制止が聞こえていないのだろうか。彼女は口元を自分の血で赤く染めてなおもチョコレートを頬張り続ける。チョコに混じった謎の薬品の数々によるものなのか、彼女の顔は赤くなったり蒼くなったり白くなったりを繰り返し、今や「床屋のアレ」のような様相を呈していた。


「あはは……みんななかなか刺激的なものを入れてるなぁ」

「呑気に言ってる場合かよ!」

「人に勧める割に自分は一つも食べてないじゃないか」

「あー……い、いや。やっぱり俺は良いや」


 狼男は虚ろな目でチョコを口に運び続けるゾンビちゃんから目を逸らしつつ苦笑いを浮かべる。


「はぁ? お前が持ち込んだものだろう」


 吸血鬼が怒気を孕んだ声を上げるも、狼男はヘラヘラ笑いながら紙袋を置いて立ち上がった。


「俺、これから女の子とデートあるからさ。ちょっと変わったチョコ作ってくれたらしくて、食べないと悪いしお腹空かせとかないと」

「変わったチョコってなんだ。血や爪や謎の薬物の混ぜ込まれたチョコ以上に変わっているものがこの世に存在するのか?」

「そっちとは『変わってる』のベクトルが違うよ。その子創作料理好きみたいでさ、ゴボウとかニンジンとか、あとキノコとかが入ったチョコレートを作ってくれたんだって」


 狼男の言葉により、にわかに吸血鬼の表情が固まる。


「……キノコ?」

「うん。なんてキノコかは教えてくれなかったけど、どっかから仕入れた特別なキノコって話だよ。俺、野菜もチョコも別に好きじゃないけどせっかく作ったんなら食べてあげなきゃね」

「あー……そ、そうなんだ。キノコ……ねぇ」


 キノコというワードに引っかかりを感じ、俺は吸血鬼を盗み見る。つい先日、我がダンジョンに完全防備で訪れ、錯乱キノコ狩りをしていったうら若き乙女を思い出さずにはいられなかったのだ。吸血鬼も同じことを思っていたらしく、なんともいえない微妙な表情を浮かべて足元に視線を落としている。


「……まぁ、気を付けて行ってこい」

「う、うん。なんか急に優しいなぁ」


 狼男はこれ幸いとばかりに大量の毒物を置いたまま俺たちに背を向けてさっさとダンジョンを後にしてしまった。

 ゾンビちゃんの力ない咀嚼音だけが響く静かで重い空気が辺りに充満している。俺はどうしても黙っている事ができなくなり、重い口を開いて吸血鬼に尋ねた。


「ねぇ吸血鬼、キノコってもしかして……」

「はは……まぁそうと決まったわけじゃないさ。普通にキノコ好きの女かもしれん」


 吸血鬼は重苦しい空気を払うように明るい声を上げてみせるが、その表情が強張っているのを俺は見逃さなかった。狼男の貰った山盛りチョコレートの中身を考えれば、嫌な予感が頭に過ぎるのも致し方ないことであろう。


 俺はせめて狼男の無事を祈ろうと手を合わせて足元に視線を落とす。ところが、この迂闊な行動により俺は自分の足元に転がる大量のチョコと綺麗なリボンをガッツリ視界に入れてしまった。

 刹那、胸の中で消えかけていた黒い炎が再び燃え上がる。中に何が入っていようとチョコはチョコだ。そうなると、狼男を待ち受けている(かもしれない)過酷な運命を思うだけで自然と笑みがこぼれる。


「ククク……いい気味だね」

「……君酷い顔してるぞ」





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