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64、最恐の魔女






 ダンジョンは今、かつてないほどの緊張感に包まれていた。

 最恐の魔女、ミストレスから預かった少年を俺たちは逃がしてしまったのである。大きな失敗をしでかした俺たちの元へミストレスが罰を与えにくるだろうというのが大方の予想であった。


 恐いという噂話ばかりがひとり歩きしているが、ミストレスの正体はいまだに良く分からない。「分からない」というのはどんなものより恐いことである。

 本当なら良く知っている人に聞くのが一番だが……


「あああ、嫌だ……死にたくない死にたくない」


 吸血鬼は通路の端で膝を抱え、海の中で泡を吐くようにブツブツとネガティブな言葉を吐き出している。

 とてもミストレスの事を聞けるような雰囲気ではない。


「随分怯えてるね……」

「情ケナイ」


 ゾンビちゃんはケロリとした顔で吸血鬼を見下ろしている。吸血鬼の発する負のオーラに全く影響を受けていないらしい。

 だが俺は彼女のような強靭な精神力を持ち合わせていない。俺は吸血鬼の出す恐怖に感染し、まだ見ぬミストレスを想像しては恐怖に震えていた。

 今現在分かっているミストレスの情報は「魔女である」「美少年を侍らせている」「それなりに歳がいっているらしい」そして「尋常じゃない程恐い」――


 それらの情報を頭の中で組み合わせると、玉座に座ったボンテージ姿の妙齢の女性が少年たちに鞭をふるうというイメージが出来上がった。

 仮にミストレスが俺の想像通りだとしたらめちゃくちゃヤバい人……というかもはや変態である。

 どうせなら美人であって欲しいものだが。


「き、来たッ」


 吸血鬼が弾かれたように立ち上がり、怯えた表情で通路の先の暗闇を見つめた。

 注意深く耳を澄ますと、確かに通路の先から微かに足音が聞こえてくる。音が大きくなっていくと同時に俺たちの緊張も高まっていく。

 やがて暗闇から現れた人影は俺達に向けて手を上げた。


「やぁみんな、お揃いだね」


 銀髪の男が俺たちを見回して力なく笑う。俺たちは彼を見るや安堵のあまり大きく息を吐いた。人影の正体が良く知った男だったからである。


「なんだ狼男か……」

「お邪魔してるよー」


 狼男はそう言ってヒラヒラと手を振る。

 彼は前回同様見慣れない子供を連れていた。前回と違うことといえば、今回は狼男が子供を肩車していること、そして連れている子供が少年ではなく少女であるということくらいか。

 少女は裾の広がったボリュームのあるスカート、胸に付いた大きなリボンが特徴的な可愛らしい衣装を纏っている。その服装のせいもあってか、この前狼男が連れてきた少年よりも幼く見えた。

 少女はあの少年ほど聞き分けの良い子ではないらしい。狼男の乱れた髪と優れない顔色が子守の壮絶さを物語っている。


「ええと、その子は?」


 尋ねると、狼男は苦笑いを顔いっぱいに広げて言った。


「ミストレスだよ」

「えっ?」


 少女は狼男の肩からふわりと飛び降り、屈託のない笑顔を俺に向ける。


「半吸血鬼のお友達が一人減っちゃったから、代わりに遊んでもらおうと思って来たの!」

「ええと……ちょ、ちょっとタイム」


 俺は大いに困惑した挙句、吸血鬼を連れて狼男と少女から数メートルほど距離を取った。


「……これどういうこと?」


 吸血鬼も怪訝な表情を浮かべ、少女の方にチラチラと視線を向けながら首を傾げる。


「僕にもさっぱりだよ」

「えっ、会ったことあるんでしょ」

「直接合うのは初めてだ」

「ええっ!? 良く知ってるような口ぶりだったじゃん。あんなに怯えてたし」

「いや……有名人だし、他の吸血鬼たちから噂は良く聞いていたから、つい知ったような口をきいてしまった」

「な、なんだよそれ。あんだけビビッといて……」

「直接体験した事より人から聞いた得体のしれない噂話の方が恐いこともあるだろう」

「そんなものかなぁ……でも聞いてた話よりは全然恐くないね」


 俺たちはそっと少女……いや、可愛らしい衣装に身を包んだ「ミストレス」を盗み見る。彼女は子供らしい無邪気な笑みを浮かべて俺たちにキラキラ輝く丸い目を向けていた。その表情から怒りは感じられないし、もちろん鞭も持っていない。


「まぁ噂には尾ひれが付くものだからな。こんなに怯える必要はなかったのかもしれん」


 吸血鬼は先ほどまで通路の端で頭を抱えて震えていたのが嘘のようにしゃんとしている。俺にはここまで素早い心の切り替えはできなかったが、胸を圧迫していた恐怖感は随分と薄れた。

 取り敢えず接触を図ってみようと、なにか第一印象を良くする言葉を考える。だが俺がその言葉を実際に口にするより早く、狼男が恐る恐るといった風に口を開いた。


「あのー。俺はそろそろお暇しますんで、あとはみなさんでごゆっくり……」


 早々に退散しようとする狼男のズボンをミストレスがふくれっ面で掴む。


「だめーっ! 犬も一緒に遊ぶの!」

「いや、ええと、俺これから用事が……」


 いつもペラペラ軽薄に喋る狼男が珍しく口ごもっている。

 ミストレスはそんな狼男をさらに追い詰める。


「私と遊ぶより大事な用ってなに?」 

「も、もちろんミストレスとも遊びたいよ! でもいかんせん先約がさぁ……」

「女?」

「いや、まぁ……」


 そう答えた瞬間、ミストレスはどこからともなく杖を取り出した。派手なピンク色の塗装、先端についた大きな星のオーナメント、そして全体に散りばめられた輝くクリスタル。魔女の持つ杖というよりは女児のおもちゃのような派手な作りである。

 だがミストレスが杖を振った瞬間、それがおもちゃでないことがすぐに分かった。

 ミストレスの杖から出た星屑が狼男を包み込み、彼の姿を小型犬に変えてしまったのである。


「これでいっぱい雌犬(ビッチ)と遊べるね」


 琥珀色の目をパチクリさせる狼男……いや、犬を見下ろしてミストレスはニッコリ笑った。


「ああああやっぱ恐いいいい」

「おおお落ち着け、あのアホみたいにミストレスに逆らわなければ良いんだ」


 俺たちは通路の隅で小さくなりながらミストレスとの接し方の基本方針を決めた。

 ミストレスは俺たちの方を振り返り、ニッコリと笑ってみせる。


「みんなは私と遊んでくれるよね?」


 俺たちは声を揃えて叫んだ。


「喜んで!!」





*********





「うーん、なにで遊ぼうかなぁ。ねぇ、なにがしたい?」

「ミストレスの好きなので良いよ」

「そういうんじゃなくて! 聞いてるんだからちゃんと答えてよ!」

「うっ……ごめん」


 大人の模範解答を言ったつもりだったのだが、ミストレスのツボにはハマらなかったらしい。

 子供の扱いというのは難しい。気を使いすぎるのも良くないようだ。

 次に口を開いたのは吸血鬼である。


「できればあまり疲れないのが良いな。そうだ、隠れんぼとかどう――」

「じゃあ鬼ごっこね!」

「そ、そうか……」

「じゃあ私鬼やるから逃げてね! じゅー、きゅー……」


 ミストレスがカウントダウンを始めた次の瞬間、物凄い速さで俺と吸血鬼を追い抜いて走り去った者がいた。ゾンビちゃんである。


「ゾ、ゾンビちゃん随分気合入ってるなぁ」


 彼女は他のゾンビよりはマシであるが、元々あまり足の速い方ではない。そのゾンビちゃんが風のように走っているのだ。

 小さくなっていくゾンビちゃんの背中を眺めながら吸血鬼はため息を吐く。


「精神年齢が合うんだろう。僕らはのんびり接待遊戯といこうじゃないか」


 カウントダウンを聞きながら、俺と吸血鬼はのろのろとミストレスから距離を取る。


「子供と遊ぶなんて久しぶりだなぁ」

「うーん、ミストレスの年齢は君なんかよりずっと上のはずなんだがな」

「えっ、マジ?」

「ああ。どんな魔法を使っているかは知らないが」

「ええー……魔法って凄いなぁ」


 俺はそっと振り返り、ミストレスの様子を伺う。

 どうやらカウントダウンが終わったらしく、ミストレスは俺たちのすぐ後ろにまで迫っていた。


「待て待てー!」

「来たよ吸血鬼。いい感じで捕まってね」

「分かってる」


 吸血鬼は後ろを振り返り、ミストレスの足の速さに合わせて逃げる速度を調節する。


「待てー!」


 子供らしい声を上げながら迫るミストレスがあのおもちゃのような見た目の杖を握ってることに、俺たちはこの時ようやく気が付いた。


「えっ、おい、なんで杖――」

「えいっ」

「あっ……えっ?」


 吸血鬼はきょとんとした表情で自分の胸から突き出た星形のオーナメントを見下ろす。子供のおもちゃのようなメルヘンな杖は鮮やかな色の血液を滴らせながら吸血鬼の心臓を貫いていた。

 何が起きたのか理解できていないような表情で、吸血鬼は口から血を吐きながら崩れ落ちる。

 杖に付いた血を払い、血の海に沈んだ吸血鬼を見下ろしながらミストレスは可愛らしい声を上げた。


「あ、鬼に捕まったら罰ゲームね」

「そんなの聞いてな」

「えいっ」


 気付くと、俺の透明な体をミストレスの杖が貫いていた。だが当然の事ながら俺の体には血も流れていないし心臓もない。もちろん痛みなんてものも感じない。

 ミストレスは何度も俺の体に杖を打ち込み、やがてきょとんとした表情で首を傾げた。


「んー? おっかしいなー、ちゃんとお化け退治もできるよう仕上げてきたのに」

「ひっ……」


 やはりミストレスは少年を逃がしたことを怒っているに違いない。ミストレスの目的は彼女の要望に答えられなかった俺たちを罰することなのだ。


「でも罰ゲームないとつまんないし……あっ、じゃあこうしよう! お化けを一回捕まえるごとに、十体のガイコツ君たちの頭をふっ飛ばすの」

「な、なんだよその謎ルール!」

「じゃあ今から適応ね! よーいどん!」


 スケルトンたちに手を出させる訳にはいかない。俺は壁をすり抜け、全力でミストレスから逃走する。

 だが鬼ごっこならば正直負ける気がしなかった。物理的干渉を一切受け付けない俺の体はダンジョンの曲がりくねった迷路も階段も関係なく縦横無尽に行動ができる。いくら足が早くても床や壁をすり抜けられる俺の逃走スピードに追いつけるはずない。

 俺を捕まえられるとしたらそれは俺と同じく壁や床をすり抜けられる者だけ――


「待て待てーっ!」

「……なっ!?」


 振り向くと、巨大化した杖に跨って箒のように空を飛び、壁を破壊しながら俺に迫るミストレスと目が合った。


「ひいっ、なんでもありかよ!」


 俺は必死にダンジョンを逃げまわるも、魔法を使用したミストレスのスピードには敵わず徐々に距離を詰められていった。

 ミストレスの杖が俺の背中に迫り、もうダメかと諦めかけたその時。


「みんな、敵がいたぞ! 武器を構えろ!」

 

 通路の先から勇ましい声がして、俺は反射的に動きを止めた。見ると、剣を携えた冒険者数名が鋭い眼光で俺たちを睨みつけている。


「ミストレス、ちょっとタイム! どうしよう、吸血鬼も今死んでるのに……」

「もー、ゲームの邪魔しないで!」


 頭を悩ませる俺を尻目に、ミストレスは冒険者に向けて杖をひと振りする。すると狼男を犬に変えた時と同じ様に杖の先から星屑が放たれた。キラキラ輝く星屑は天の川の如く冒険者の方に向かって流れる。流れついた星屑が冒険者に当たった途端、熟れた石榴のように冒険者の頭が弾け飛んだ。


「ひっ……」


 綺麗なエフェクトに似合わぬえげつない攻撃に歴戦の冒険者たちも驚かずにはいられなかったようだ。

 だがなおも冒険者たちは自らを奮い立たせ、ミストレスに果敢に立ち向かう。その数秒後、彼らは頭の無い肉塊として地面に転がることとなった。


「うわっ、えげつない……」

「あっ、見ーっけ!」


 ミストレスは急に明るい声を上げて転がった死体の方を指差す。よく見ると地面に這いつくばり、ほふく前進で死体へ近づいて行く人影があった。こんな事をする人は一人しかいない。


「あっ、ゾンビちゃん!」


 ゾンビちゃんはビクリと体を震わせ、恐怖の滲む顔をこちらへ向けた。

 もう少し待ってミストレスがいなくなってからゆっくり食べれば良いものを、ゾンビちゃんには「我慢」という選択肢がなかったようである。


「ツギハギちゃんって勘は良いけど頭悪いね。えいっ」


 ミストレスは死体の山を飛び越えながらゾンビちゃんにに近付き、彼女の頭を杖で叩く。ポカっという可愛い擬音が響いた次の瞬間、ゾンビちゃんの頭が石榴のように吹っ飛んだ。





********





「もうダメだ……限界だ……なんで僕がこんな目に……」


 吸血鬼は地面に倒れ込み、虚ろな目で血と怨嗟の声を吐いている。

 「もう限界」という言葉は決して大袈裟なものではない。ミストレスに何度仲間たちの息の根が止められるのを見たか、もう数えることすら諦めた。いくらアンデッドでもこんなに休みなく破壊と再生を繰り返していたら過労死してしまうのではないだろうか。

 スケルトンなどはもはや体の修復を諦めたらしい。ダンジョンにはあちこちに骨が散らばり、場所によっては足の踏み場もないような状態だ。

 ミストレスがダンジョンに来てもう半日ほどになるが、彼女の体力には全く陰りが見えない。


「……ねぇ吸血鬼」

「なんだ」

「これやっぱあの男の子逃がした罰なんじゃないのかな」


 吸血鬼は虚空をみつめながら俺の言葉に小さく頷く。


「ああ、奇遇だな。僕もそう思っていたとこだ」

「このままジワジワ殺される前に、ミストレスにお引き取り願いたいんだけど」

「それは僕だって同じだよ。だが口で言って帰るような奴とは思えないぞ」

「うん。だからまぁ、力づくで」

「それこそ無理だろう」


 吸血鬼はそう言って手を広げてみせる。彼の胸部にあいた穴からはリズミカルに血が噴き出していた。


「この有様だぞ」

「でもミストレスが恐いのって魔法だけじゃん。そして魔法使う時、ミストレスは必ず杖を使用してる……つまり、あの杖さえ奪ってしまえばミストレスはただの無力な子供なんだよ」

「な、なるほど。だが杖を奪うのだってそう簡単な事じゃない。下手な動きを見せたら八つ裂きにされかねないぞ」

「それは大丈夫」

「何か策があるのか?」

「ミストレスはゲームが大好きだからね」










「コレ動かなくなっちゃったぁ。体は治したのに」


 しばらくすると、通路の先の暗がりからミストレスが現れた。その手に持った杖から伸びる星屑の鎖でゾンビちゃんを繋ぎ、まるでぬいぐるみのように軽々と引きずっている。

 ミストレスの言う通りゾンビちゃんの体に傷はないが、いくら呼びかけても死んでしまったかのように応答がない。スケルトンと同じくミストレスとのゲームを放棄したか、もしくは精神的な限界が来て防御機構が働いたのだろう。


「まぁ良いや。じゃあ次のゲーム始めるよーっ! えっとね、次はねー……」

「待てミストレス」


 吸血鬼が果敢に手を上げ、ミストレスの前に歩み出る。そして意を決したように口を開いた。


「さっきからお前が鬼をやってばかりだろう。たまには役職を変えようじゃないか」

「えー、鬼やりたいの? まぁ良いけど」


 ミストレスは想像以上にあっさりと吸血鬼の提案に頷いた。気が変わらないうちにとばかりに吸血鬼は鬼の最初の仕事であるカウントダウンを始める。


「よし……じゃあいくぞ、10、9、8――」

「わー逃げろー!」


 ミストレスはパタパタと可愛らしい足音を立てて走り出す。やはり魔法を使わなければその身体能力は子供とさほど変わらないようだ。

 吸血鬼は早口でカウントダウンを終わらせ、小兎を追い掛ける虎のごとくミストレスに迫る。鬼のような形相の大の男が少女に手を伸ばす光景になぜだか妙な胸騒ぎと「通報」の二文字が浮かんだ。


「キャーッ やだー!」


 絶体絶命のミストレスはケタケタ笑いながらどこからともなく杖を取り出し、鬼ごっこのルールを一切合切無視した一撃を吸血鬼に撃ち込む。

 だがこんな事は想定内だ。ミストレスの一撃を避けるのは難しいが、避けることを最初から考えず急所を外す事だけに集中すればそれほど難易度は高くない。

 当初の計画通り、ミストレスの杖は心臓を逸れて吸血鬼の体を貫いた。吸血鬼は血を吐きながらニッと笑い、自らの体を貫く血塗れの杖をミストレスの小さな手から奪い取る。


「あーっ、返してよぉ」


 バランスを崩して尻もちを付いたミストレスは杖が手から離れた事に気付くと慌てたように吸血鬼の足に縋る。

 戦利品を掲げ、吸血鬼は勝ち誇ったように笑った。


「ふははは、僕の勝――」


 ぼとり、と音がして地面に何かが転がった。

 黒い布につつまれた細長い円柱状の物体。その端からは赤い液体が漏れ出て、反対の端にはミストレスの杖を持った手が付いている。

 それが吸血鬼の腕だと理解するのには少し時間がかかった。


「人のもの取ったらダメだよ」

「あっ」


 吸血鬼の体が小さなサイコロステーキのようになってボロボロと崩れ落ちていく。断末魔の悲鳴を上げる時間すら吸血鬼には与えられなかった。


「えっ……なんで」


 計画が失敗し、途方に暮れる俺をミストレスの冷たい視線が貫く。


「あ もしかして杖がなきゃ魔法使えないと思った? ていうかコレただの玩具だし」


 ミストレスはそう言いながら吸血鬼の腕がついたメルヘンチックな杖を振ってみせる。


「魔法を使うなんて手足を動かすのと同じだよ。あなた道具や詠唱がないと手足を動かせないの? 私ならたとえ杖を取られても、舌を抜かれても、なんなら頭を飛ばされても魔法は使えるよ。試してみる? ……なんてね」


 そう言って子供らしからぬニヒルな笑みを浮かべると、サイコロステーキの山となった吸血鬼が突然再生を始めた。まるで立体パズルのように綺麗に肉片がくっつき、何事もなかったかのように元の体へと戻った。だがいくら待っても吸血鬼は目を開けようとも立ち上がろうともしない。

 彼もまたミストレスとのゲームを放棄したのだろう。要するに「死んだふり」だ。


「ねー、寝てないで遊ぼうよー」


 ミストレスが甘えた声を出しながら吸血鬼の体を揺するも応答はない。もはやこのダンジョンで立っているのは俺とミストレスのみだ。

 顔を上げれば視界いっぱいに仲間たちの屍の山が見える。

 もうこの危機をどうにかできるのは俺だけだ。俺がどうにかしなくちゃいけない。少年を助けるためとはいえ、そもそもこんな事になったのは俺のせいでもあるのだ。


「ごめんなさい、俺が逃がしたんです……」

「ん? なに?」


 ミストレスはきょとんとした顔で俺を見上げる。

 俺は勇気を振り絞り、土下座するような勢いで頭を下げた。


「俺があの少年を逃がしたんです! ごめんなさい、もう勘弁してください」

「え? そんなことどーだって良いよ」

「えっ……?」


 目を丸くする俺に向かって、ミストレスはつまらなさそうに口を開く。


「替わりはいくらでもいるし、探そうと思えばすぐ見つけられるし、連れ戻すことも殺すことも容易いよ。別にそこまでする価値はないけど」

「じゃ、じゃあどうしてうちのダンジョンに?」

「最初に言ったじゃん、遊んで貰おうと思って来たって」


 俺は思わずダンジョンをぐるりと見回す。死んだように動かないアンデッドたち、散乱する骨……この惨状はミストレスに言わせれば虐殺ではなく「遊び」であるらしい。

 呆然としていると、時間が止まってしまったかのような静かなダンジョンにミストレスの間の抜けた声が響いた。


「ふわーあ。みんな寝ちゃったし、私も眠くなってきたから帰るね」


 ミストレスは願ってもみないことをサラリと言うと、魔法の杖……いや、子供のおもちゃをひと振りする。おもちゃの先から出る星屑がミストレスの体を包み、やがてシャボン玉が弾けるようにパチンと消えてしまった。


 あとに残ったのは屍の山と怖いくらいの静けさのみ。

 ……と思っていたが、それは正確ではなかった。俺たちはアイツのことをすっかり忘れていたのである。


「ワンワン!」

「あっ」


 岩陰からのそのそと出てきた琥珀色の目の小型犬を見て俺はハッとした。

 恐らくどこかに隠れて惨劇を眺めていたのだろう。おかげで屍の山の一部になることは免れたが、今になってそのツケが回ってきたようだ。

 彼を犬に変えてしまった魔女はたった今帰路についてしまった。


「……どうしようコレ」


 犬は縋るような視線を俺に向けるが、この透けた手でできることなど何も思い浮かばなかった。





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