56、嫌血主義の吸血鬼
「今日は吸血鬼協会の会合があるんだ。日が昇るまでには帰る」
吸血鬼はそう言って余所行き用の新しい服を纏い、日没を迎えるや一張羅のコートを羽織りダンジョンを出て夜の森へと消えていった。
ところがそれから数時間後、日の出どころかまだ満月が登りきっていないにも関わらず吸血鬼は疲れた顔をしてダンジョンに帰ってきた。
彼はやれやれとばかりに一張羅のコートを脱ぎながら不機嫌そうにため息をつく。
「ああ、今日は散々だった。会場に変な奴が乱入してきて大変だったよ」
「疲れてるとこ悪いけど吸血鬼にお客さん来てるよ」
俺の言葉に吸血鬼は驚いたように顔を上げ、同時に怪訝そうな表情を浮かべる。
「客? 約束した覚えはないが」
「いつ帰ってくるか分からないし日を改めてくれって俺も言ったんだけど、どうしてもって聞かなくてさ。でも思ったより早く帰ってきてくれてよかった」
二人きりでいるには気まず過ぎる客人だったから――
俺はそんな言葉を飲み込み、はにかんでみせる。
「こんな時間に一体何の用だろう。どんなヤツだ?」
「女の人だけど……なんていうか、ちょっと怖い」
吸血鬼は眉間に寄ったシワをますます深くする。
「怖い? オーガかなにかか」
「いや、そういう直接的な怖さじゃなくて」
その時。
ハイヒールが地面を蹴る音を響かせながら客人が通路の奥の暗がりからその姿を現した。
彼女は吸血鬼を見るなりギラギラと輝く赤い眼を見開き、血のような色をした唇を歪ませてニタリと笑った。
「いたぁ」
彼女の顔を一目見るや、吸血鬼はお化けでも見たように顔を強張らせて息を呑んだ。
「ひっ……なんでお前がここに」
「うふふ、血の匂いを辿ってきたの」
そう話す客人の口の端からやけに尖った牙が覗く。その顔は死体のように血の気がなく、目は青黒い隈に縁取られ、その足取りは夢遊病者のようにフラフラとおぼつかない。
彼女は暗闇に浮かび上がるような少女趣味の白いワンピースを揺らし、吸血鬼に近付いていく。
「血吸いの化物共に私の声は届かなかったみたいだけど、個別にお話すればまた結果も変わるかもしれないと思って」
俺は思わず首を傾げる。
彼女の言ったその言葉が「吸血鬼」を指すのだとしたら、それは彼女自身にも当てはまるのではないだろうか。彼女の持つ赤い眼や鋭く尖った牙は吸血鬼の特徴そのものだ。
「血吸いの化物って……あなたは違うの?」
大して深く考えずそう尋ねると、彼女は眉を釣り上げて般若のような表情を浮かべた。
「あんな化物と! 一緒にしないでッ!」
女はそう叫びながら血走った目を見開き、俺の首に鋭い爪の付いた手を伸ばす。
もちろん彼女の手は俺の身体をすり抜けたが、その目にも止まらぬ身のこなしから彼女が吸血鬼特有の高い身体能力を持っているという事は痛いほど伝わってきた。
「ひええ……」
その気迫に息を呑み、動けないでいると彼女は急に自分の肩を抱き、しおらしく項垂れてみせる。
「確かに私は吸血被害者よ。でも胸を張って化物じゃないと言えますわ」
「ええと……ちょっと意味が」
そのジェットコースターのような感情の起伏にビクビクしながら尋ねると、女の代わりに吸血鬼が嘲るような表情を浮かべて口を開いた。
「この女、嫌血主義者らしい」
「なにそれ」
その聞き慣れぬ言葉に首を傾げる。
すると客人が誇らしげに胸を張って言った。
「自らの呪われた運命に抗う勇敢なる者たちのことですわ」
だが吸血鬼は女の言葉を鼻で笑い、首を振ってそれを否定する。
「いいや違うな、自らが化物であるということから目を反らし続けてる愚か者だ」
二人は自分が正しいとばかりに睨み合い静かに花火を散らしている。
だが俺から言わせれば彼らの説明はどちらも等しく不合格だ。何が何だか全く分からない。
「……いやそう言うの良いから。辞書に載ってるみたいにきちんと説明して」
吸血鬼は俺の抗議にハッとした表情を浮かべ、改めて口を開く。
「ああ……すまないな。簡単に言うと血液を口にしない吸血鬼のことだ」
「ええっ、吸血鬼なのに吸血しないの?」
その名にも冠されているように「吸血」こそ吸血鬼最大のアイデンティティではないのか。
そんな疑問が噴出したが、どうやら彼女のアイデンティティは「吸血しないこと」にあるようだった。
「わざわざ人を殺してその血を奪うなんてことしなくても生きていけますの。なのに欲望に身を任せて他者の命を奪うなんて獣と一緒だわ」
そう言って女は蔑むような視線を吸血鬼へ向ける。
だが吸血鬼の女を見下ろす視線にも同じように蔑みと哀れみが混ざっているように見えた。
「またそれか。その話については会場で結論が出ただろう。血を飲みたくなければ飲まなきゃ良い。だが他の吸血鬼にそれを強要するな」
「殺人を咎めるのがいけない事だって言うの?」
「何か勘違いしているようだな。いいか、お前はもう人間じゃないんだ」
「あなた達はそうでしょうけどね」
議論は平行線のまま時間ばかりが悪戯に過ぎていく。二人の話は論点や目線があまりに違いすぎて全く噛み合っていないのだ。
こんな不毛な議論を続けたって得るのは疲れだけだ。どうしたらこの議論を打ち切れるのか思案し始めた頃。
ペタペタという足音と共に通路の曲がり角からゾンビちゃんがそのツギハギだらけの顔を覗かせた。
「ナンノ騒ぎ?」
怪訝そうな表情を浮かべながらゆっくりとこちらへ近付いてくるゾンビちゃん。
その手には赤黒い液体の滴る肉塊が握られており、彼女の口周りやワンピースも同じ赤黒い液体で汚れている。
「ゾンビちゃんそれは」
「ニク」
ゾンビちゃんは俺の問いに即答し、手に持った肉塊に齧り付く。
「あー、今一番来ちゃいけない人が来ちゃった」
俺は頭を抱えながら横目で女を見やる。
目の前に彼女の忌避する吸血よりもっと直接的でグロテスクな光景が広がっているのだ。さぞ衝撃を受け、ヒステリックに喚き始めるだろう……そう思ったのだが女の様子は俺の想像とはだいぶ違ったものであった。
彼女は獲物を前にした獣のようにギラついた眼をゾンビちゃんに向け、あろうことか喉を鳴らしたのである。いや、正確に言うなら彼女が熱心な視線を注いでいるのはゾンビちゃんではなく彼女の持っている肉、もっと言えば肉から滴る血なのだろう。
ゾンビちゃんは彼女の視線に気が付いたらしい。肉を隠すように上半身をひねり、半眼で女を睨み付ける。
「アゲナイよ」
女はゾンビちゃんの言葉にハッとした表情を見せ、慌てたようにゾンビちゃんの肉塊から視線を逸らす。
「い、いるもんですかそんなもの!」
「ははは、飢えた吸血鬼には刺激が強すぎたか?」
吸血鬼は動揺を隠せないでいる女に間髪入れず挑発的な言葉を吐きかけた。
女は威嚇するようにその尖った牙を剥き、失態を誤魔化すかのごとく声を張り上げゾンビちゃんを捲し立てる。
「あまりの惨たらしさに言葉を失ったのよ。恐ろしくて気絶するかと思ったわ、なんて残虐で野蛮なのかしら。人間が可哀想だとは思わないの!」
イマイチ話を飲み込めていないらしく、ゾンビちゃんは女の言葉にキョトンとした表情で首を傾げる。
「カワイソウ?」
「そうよ、その肉は人を殺して手に入れたものでしょう」
「ウン」
「うんじゃないわよ!」
「ナンデ怒るの? ちゃんとオイシク食ベテルのに」
ゾンビちゃんはそう言って困ったように眉を顰め、堂々と肉を口に運ぶ。
彼女に悪びれる様子がないのが酷く気に触ったらしい。
「まぁ美味しいですって? 呆れた、人を殺して肉ばかり食べていると倫理観が失われるのだわ」
女は頬を引き攣らせながら吐き捨てるようにそう言った。
だがゾンビちゃんは全く気にする素振りを見せず、極めて冷静に反論してみせる。
「倫理で腹ハ膨レナイ」
その奇妙なやり取りの一部始終を見ていた俺は吸血鬼と顔を合わせ、どちらからともなくため息を吐く。
「全く話が噛み合ってない……」
「そもそもゾンビに道徳や倫理を説くのが間違ってるんだ」
ゾンビちゃんは肉塊の最後の一口を飲み込んだ後もまだ名残惜しそうに手に付いた血を舐め取っている。
流石にゾンビちゃんの説得は無理だと悟ったのだろうか。女はゾンビちゃんから目を逸らし、再び吸血鬼にその体を向けた。
「全く、ここは人食いばかりですわね」
「当然だ。アンデッドダンジョンだぞ」
「なら皆さんには明日から人殺しをやめて人間との共存をはかって頂きます」
「お前耳付いてないのか!? ここはダンジョンだって言ってるだろう。冒険者だってそんなこと望んでいないぞ、独善も大概にしろ」
吸血鬼はイラつきを隠せないらしく神経質そうに足を揺すっている。
ゾンビちゃんも女の言葉に慌てて首を振り、すねた子供のように頬を膨らませた。
「ニク食ベレナイのヤダよう」
「そんなもの食べるくらいなら飢えて死になさい!」
女は今にもゾンビちゃんに襲いかかりそうな剣幕でそう怒鳴りつける。彼女のその鬼のような形相は毎日血を飲んでいる吸血鬼よりよほど「吸血鬼」らしい。
俺は彼女をなんとか落ち着けるべく、頭に浮かんだ質問を彼女に投げかけた。
「じゃ、じゃああなたは一体なにを食べてるの? 本当になにも食べてなかったらいくら不老不死の吸血鬼とはいえ満足に動けないでしょ」
すると女は急に淑女のような笑みを湛え、誇らしげに胸を張って俺の質問に答えた。
「ラズベリーや葡萄、ザクロなど果実の汁を飲んでいます」
「ええっ、果物?」
俺は思わず腕を組んで首を傾げる。
ザクロは人肉の味がし、かの鬼子母神も食べていたなどと言われているが所詮果物は果物。
確かに色は血を連想させる赤い色をしているかもしれないが、味はもちろん含まれている成分なども全く違うはずだ。
「そんなものが本当に血の代用品になるの?」
吸血鬼にそっと近付き小声で尋ねると、彼はうんざりしたような表情を浮かべて吐き捨てるように言った。
「なるわけないだろ、パンの代わりにスポンジを食うようなものだ。大方動物の血かなにかで渇きを誤魔化しているんだろう」
「ワー、ホントだ!」
ゾンビちゃんの明るい声につられて顔を上げた俺達はその光景に思わず背筋を凍らせた。
女はその辺を這いまわっていただろう灰色の丸々太ったネズミの腹に顔を埋め、どうやらその血を啜っているらしいのだ。
「これは重症だな」
女は吸血鬼の蔑んだような声で我に返ったように顔を上げ、そして自分の手の中にあるネズミの死骸に目を丸くする。
「ハッ、私ったらなにを……ああおぞましい!」
そう言って女は汚い物でも扱うように先ほどまで口を付けていたネズミの死骸を投げ捨てる。
ゾンビちゃんはそのネズミを拾いあげ、バリバリ音を立てながらその頭を噛み砕いた。
「ンー、カサカサしてるぅ」
ゾンビちゃんはそう言って不満そうに口を尖らせる。
まるで血抜きをした後のようにネズミの首からはほとんど血液が流れ出てこない。
「しっかり吸血してんじゃん」
「ははは、嫌血主義が聞いて呆れる! 言っておくが獣の血など気休めにしかならないぞ、血を拒絶すればするほどそのことしか考えられなくなる」
吸血鬼はそう言っていやらしく高笑いをしてみせる。
そして女に言い返す暇も与えず、矢継ぎ早に口を開いた。
「吸血鬼になりたての者が嫌血主義を主張するのはよくある事だが、それを貫けた吸血鬼はいない。飢えに耐えかねた時お前は他人の命を奪うのか、それとも自分の命を投げ出すのか。今から楽しみだな」
「黙りなさい、死ぬべきなのは言って分からない人殺しの化物の方よ!」
女は怒りに顔を歪ませ、ネズミの血で染まった牙を剥き出しにして吸血鬼を威嚇する。これではもはやどちらが彼女の言う「血吸いの化物」なのか分からない。
「まぁ落ち着いて……他者の命を奪うなって言ったのはあなたでしょ」
「会話がいまいち噛み合わないな。慢性的な飢えで頭が回らなくなってるんだろう。飢餓は思考や精神にも悪影響を及ぼす」
吸血鬼は得意げにそう言って懐から手のひらに乗るような薄く小さな瓶を取り出し、彼女に差し出した。
「同胞のよしみだ、一本分けてやろう」
「それは……」
「血に決まっているだろう」
吸血鬼はそう言って悪魔のような微笑みを浮かべ、瓶に付いた蓋を取る。
「遠慮はいらないぞ。殺したのはお前じゃない、罪悪感を抱くことなんてないんだ。さぁ」
悪魔の囁きが女の渇いた喉を誘惑する。
女はまるで夢遊病者の様な足取りでフラフラと吸血鬼の差し出した瓶に近付いていく。その様を吸血鬼は勝ち誇ったような邪悪な笑みを浮かべて見下ろしていた。
「あんまり良い趣味じゃないなぁ」
そう言って吸血鬼を窘めると、彼は急に誠実そうな表情を浮かべて「心外だ」とでも言わんばかりに首を振った。
「なに言ってる。これは紛れもなく人助けだよ」
「ふーん……まぁ別に良いけど」
どんな方法であれこれでこの女がダンジョンから出て行ってくれれば御の字だ。
ところが俺たちのやり取りで女は正気を取り戻してしまったらしい。彼女はキッと吸血鬼を睨み付け、彼の差し出した瓶を叩き飛ばしてしまった。
吸血鬼の手を離れた瓶は天井近くにまで飛び上がり、やがて重力に引かれて吸血鬼の頭に落下した。
瓶は吸血鬼の頭で粉々に割れ、血を被った彼の髪は赤く染まっていく。
「うわっ!? なにするんだ、せっかくの厚意を!」
血が目に入ったらしく吸血鬼は赤く染まった顔ごしごしと擦っている。血塗れの吸血鬼を見て女の眼の色が変わった事にも彼はまだ気が付いていない。
「ね、ねぇ……なんか様子が」
そう言い終わらないうちに女は突然吸血鬼に飛び掛かって彼を地面に転がし、馬乗りになってその首筋に尖った牙を突き立てた。
「痛ッ!? 離せ!」
吸血鬼は女の髪を引っ掴んで剥がそうとするが、彼女はまるでヒルのように噛み付いたままなかなか吸血鬼から離れようとしない。
激しい格闘の末に女を突き飛ばすことに成功したが、その頃にはあまりの出血量に吸血鬼の顔色は蝋のように白くなってしまっていた。貧血のせいか立つこともできない吸血鬼を見下ろし、女は口に付いた血を拭う事もせず高笑いを上げる。
「あっはははは! そうだ、アンデッドの血を飲めば誰も殺さずに済むじゃない、私ってばなんて頭良いのかしら!」
女は狂ったように笑いながら俺たちに背を向け、軽い足取りでダンジョンから去っていった。
嵐が去り、不気味なほどの静寂に包まれたダンジョンに残された俺達は互いに引き攣った顔を見合わせ、ため息混じりに声を上げる。
「アーア、逃ゲチャッタよ」
「なんかアンデッド食べるみたいな事言ってたよ。もしかして俺たちとんでもない化物を世に放っちゃったんじゃ。頂点捕食者の座を奪われるかもよ」
「はは……そう簡単にいくものか。獅子を狩って食うようなものだぞ」
吸血鬼はそう言って力なく笑う。
だが数週間後「連続吸血鬼捕食事件」を報せる回覧板が回ってきて、彼も流石にその表情を強張らせる事となった。