46、酒は飲んでも飲まれるな
「うーん、これ大丈夫なのかなぁ……」
「ねぇタベテ良イ? タベテ良イ?」
今にもそれに飛びつこうとするゾンビちゃんを数体のスケルトンがやっとの思いで押さえつけている。しかしゾンビちゃんが痺れを切らして本気を出せばスケルトンの制止など大した問題にはならないだろう。
俺は助けを求めて吸血鬼へ視線を向ける。
「どう思う吸血鬼?」
「少なくとも僕はパスだ」
吸血鬼はそう即答し、地面に横たわるそれに渋い顔を向ける。
「色々と理由はあるが、なにより全く美味しそうに見えない」
「まぁそうだよねぇ……」
輪の中心に横たわるその死体は見れば見るほど食欲が無くなってくるような小汚い痩せぎすの老人で、死んでいるにも関わらず鼻の頭が赤い。人間の味など分からないし知りたくもないが、もし仮に俺がゾンビや吸血鬼だったとしてもこの死体は遠慮しておきたいと思っただろう。
しかも問題は見た目だけではない。この老人の死に方は他の冒険者とは全く違うものだったのである。
彼はヨタヨタした不思議な足取りでダンジョンに単独で入り、上階の知能なきアンデッドを素手で捌いて進んでいった。これはかなりの手練、そう思いダンジョン奥で身構えていたのだが、彼は俺たちのいるフロアに足を踏み入れた瞬間に目を回してそのまま倒れこんでしまったのである。
スケルトンが確かめた時には彼の心臓は既に止まっていた。
死因の分からない死体を囲み、俺たちは頭を抱える。
「変な病気とかで死んだかもしれないし、迂闊に食べない方が良いと思うけどなぁ」
「そうだな、少なくともなにか患っているのは間違いないだろう」
老人の皮膚は異様に黄色く、目は落ち窪んでまるで骸骨のようだ。これが健康だと言うのなら世の中の病人の9割は健康だろう。
だがゾンビちゃんはそんなこと気にならないらしい。彼女は本能のまま貪欲に目の前の肉を求めてその青い手を伸ばす。だがその手はスケルトンに阻まれて肉に触れることは叶わない。ゾンビちゃんはすがるような視線を俺に向けて言う。
「ネェまだ食ベチャダメ? 食べてイイでしょ?」
「うーん……でも衛生的にどうなの?」
「ゾンビに衛生もなにもないだろう。良いじゃないか食べさせれば、どうせ死なないんだ。まぁ僕は食べないが」
「そんな適当な」
吸血鬼の投げやりな言葉に俺はため息を吐く。
スケルトンたちも吸血鬼の言葉に気が抜けてしまったのだろうか。次の瞬間、ゾンビちゃんはスケルトンの細く白い腕を振り払って死体に飛びついた。
俺らがあっと声を上げたその時には、すでにゾンビちゃんは老人の枯れ木の様な腕に噛り付いた後であった。
「あー、食べちゃった……どう? 変な味しない?」
「スル! 変なニオイもスル!」
「ならなおさらやめた方が良いよ!」
「ヤダッ」
ゾンビちゃんはそう言いながら一切手を緩めることなく肉に食らいついている。
彼も老人とはいえ冒険者。多少は筋肉がついているようだが水分量が少なく、その肉はまるでビーフジャーキーみたいだ。
「あとからお腹痛くならないと良いけど……」
「放っておけ。それより僕らはこっちを見てみようじゃないか」
吸血鬼はニタリと笑い、十年間倉庫の隅に捨て置かれていたようなボロボロの鞄を拾い上げる。この老人が背負っていたものだ。
「大したもの入ってないでしょ」
「分からないぞ、高い地位や技術を持つ者ほど浮世離れしているものだ。高難易度ダンジョンのお宝や上級魔法具がしれっと入っているかもしれん」
吸血鬼はそう言いながら鞄をひっくり返し、地面に中身をぶちまける。音を立ててホコリとともに鞄から転がり出てきたのは、どれもこの鞄と同じく古ぼけたガラクタばかりだ。
「……なんだこれは、価値どころか用途が分からないぞ」
吸血鬼は転がりでたガラクタを見下ろして顔を顰める。
赤い糸を花のような形に編んだ大きな飾りや、ふっくらした子供を模った陶器の人形、龍の飾りが巻き付いた水晶玉など、どれも異国情緒を感じさせる品々ばかりだ。吸血鬼はその中からくびれの部分に赤い糸を巻かれたひょうたんをつまみ上げ、プラプラと振ってみせる。
「水の音がするな、水筒か」
「ああ、そういえば上の階のゾンビと戦う前に飲んでたよ」
「ほう。なにかすさまじい霊薬とかじゃないだろうか」
吸血鬼はまだ一攫千金の夢を捨てきれないらしく、眼に希望の光を灯しながらひょうたんの栓を抜く。
ひょうたんの細長い口を通って吸血鬼の手の平に零れ落ちるその液体は全くの透明で、一見しただけではただの水との違いは分からない。だがそれから立ち上る匂いがその液体の正体をハッキリと物語っていた。
「酒……だよね?」
「すごい匂いだな、これはかなりキツイやつだぞ」
吸血鬼は顔を顰め、手のひらに溜まった酒を地面に捨てる。
「ただのアル中だったか。期待して損した」
「これは期待する方が悪いでしょ。確かにちょっと仙人っぽくはあるけどさ……」
俺はそう言ってゾンビちゃんに食べられつつある老人の死体に眼を向ける。
だが俺の眼は老人の死体ではなく、そのそばに寄り添うゾンビちゃんに釘付けになった。彼女の様子がおかしいのだ。その眼は虚空を見つめたまま微動だにせず、まるでまぶたを閉じずに眠ってしまったかのよう。その上、ゾンビちゃんはまだ肉が十分残った死体が目の前にあるにも関わらずそれに手を伸ばそうとしない。
「ゾ、ゾンビちゃんどうしたの。大丈夫?」
「んふふー。ナニが?」
ゾンビちゃんはヘラリと笑って首を傾げる。
彼女の姿を見て俺は妙な胸騒ぎと既視感を覚えた。このふわふわした感じ、微妙に噛み合ってない会話、据わった眼……
「ゾンビちゃん、酔ってる?」
「うわぁ、面倒な事になったぞ」
吸血鬼は思い切り渋い顔でゾンビちゃんを見下ろし、そばにいたスケルトンたちに向かって指示を出す。
「この死体回収してくれ。これ以上泥酔されたら困るからな」
吸血鬼の言葉に頷き、数体のスケルトンが死体に駆け寄ってそれに手を伸ばす。だがゾンビちゃんはスケルトンたちの手を振り払って食べかけの死体に覆いかぶさり、これを拒否した。
「ヤダー! 私がマダ食ベテル途中デショウガ!」
「あーあ、だから食べない方が良いって言ったのに……」
「完全に酔っ払いじゃないか。本当に面倒だ」
俺たちは顔を見合わせてため息を吐く。
するとゾンビちゃんは不意に顔をあげ、俺たちをギロリと睨みつけた。
「『メンドクサイクソゾンビめ、腹破裂シテ死ネ』だなんてヒドイ!」
「そこまで言ってないだろう」
「口に出サナイだけでソウ思ってるんデショ!」
ゾンビちゃんはそう言いながら無茶苦茶に腕を振り回す。
酔っているとはいえゾンビちゃんの力はやはり凄まじく、その拳がもし俺たちに向かえば甚大な被害が出ることは想像に難くない。
「お、落ち着いてゾンビちゃん。誰もそんなこと思ってないよ、みんなゾンビちゃんが大好きだよ」
そう言って宥めるとゾンビちゃんはピタリとその動きを止め、ゆっくりとした動きで俺を見上げる。顔をあげた彼女は先ほどまでの怒りが幻だったのかと思えてくるような、とろけるような笑みを浮かべていた。
「エヘヘー、ホント?」
吸血鬼は眉間に皺をよせ、呆れたように目を回す。
「なんだコイツ、情緒不安定タイプか」
「シッ……煽るような事言うと何するか分からないよ」
ゾンビちゃんが本気で暴れればスケルトンや吸血鬼への被害はもちろん、下手したらダンジョンそのものが崩落してしまいかねない。
吸血鬼もそれが分かっているのかそれ以上の文句は慎んだが、うんざりとした表情までは変えられなかったようだ。
「このまま朝まで酔っ払いに付き合うのはゴメンだぞ」
「そうだよねぇ、酔っ払いってどのタイミングで怒るか分からないし……どうすれば良いかな」
「そうだな」
吸血鬼は腕を組んでしばし考え込んだ後、不意に邪悪な笑みを浮かべてゾンビちゃんを見下ろした。
「よし……ちょっと殺るか」
「えっ、なにするの?」
「大丈夫、少し首を折るだけだ」
「少し首を折るってなんだよ……」
「それが一番手っ取り早いだろう。酔いが覚める頃には動けるようになってるさ」
「うーん、確かに」
いつ来るか分からない睡魔を待つよりも物理的に落としてしまった方が確実で早い。
少々乱暴な気もするが、首が折れた程度ならそう時間は掛からずに回復することができるだろう。
吸血鬼はそろりそろりとゾンビちゃんの背後に周り、ゆっくりと彼女の頭に手を伸ばす。吸血鬼の手がゾンビちゃんの髪に触れたその瞬間、彼女は凄い勢いで振り返って吸血鬼の右手を掴んだ。
「触ルナァッ!!」
「ギャーッ!?」
吸血鬼の手が聞いたこともないような音を立てながらあらぬ方向に曲がる。吸血鬼は慌ててゾンビちゃんから飛び退き、現代芸術のようになってしまった手を痛みに歪んだ表情で見つめる。
「なっ、なにするんだ!」
「ウルサーイ! レディに気安く触ルナ!」
「クソっ、なにがレディだ小娘め」
「ま、まぁ抑えて抑えて……」
俺はそう言ってなんとか吸血鬼を宥める。
酔っているにも関わらず、彼女の感覚はむしろいつもより研ぎ澄まされているようにすら思う。しかも吸血鬼の右手はボロボロで、もはやゾンビちゃんの首を折るどころではない。
「この作戦はダメだね、なにか他の手を考えないと」
吸血鬼は痛みに耐えながら指を真っ直ぐに伸ばしていく。手は内出血で紫色に腫れ、見ているだけでこちらにまで痛みが伝わってくるようだ。
吸血鬼はすっかり意気消沈してしまったらしく、生気の抜けた表情を浮かべる。
「はぁ、僕もう行って良いか? なんだか酷く疲れた」
「そう言わないでよ、もしゾンビちゃんが暴れ出したら俺たちじゃ始末に負えない」
「それは分かるが、朝まで酔っぱらいの相手は嫌だ。眠らないと治るものも治らない」
「まぁそうだよね……」
俺は頭を抱えてゾンビちゃんを盗み見た。
「痩せスギだよ〜モット食ベナサイよ〜」
彼女はなにやらスケルトンに絡んでいるらしく、スケルトンは助けを求めてこちらへチラチラと視線を送ってくる。その態度が気に入らないらしく、ゾンビちゃんはスケルトンの鎖骨をハンドルのごとく掴んでガタガタ揺さぶる。
「コラー! ヒトの話には相槌と返事をシロー」
「無理言わないでよゾンビちゃん、スケルトンたち喋れないんだから」
俺は疲れ切ったように俯いているスケルトンとゾンビちゃんの間に割って入る。
彼女は俺を見るや眼をスッと細め、俺の体に手を伸ばして空を掴んだ。
「触レナーイ。手貸してぇ」
「えっ? 手?」
「ウン」
俺は困惑しながらもゾンビちゃんの差し出した手の平の上に手を重ねる。
するとゾンビちゃんはなんの躊躇いもなく俺の手にバクリと齧り付いた。もちろんゾンビちゃんの歯は俺の手をすり抜けてしまったが、俺は思わず彼女の前から手を引っ込めた。
「わっ! な、なに!?」
「食ベレナーイ。ナンデェ?」
「なんでって……ゾンビちゃんが食べちゃったからでしょ」
「フーン。じゃあ吸血鬼手貸してぇ」
ゾンビちゃんはそう言って吸血鬼に手を伸ばす。
吸血鬼は思い切り顔を顰めてサッと手を背中に隠した。
「絶対に嫌だ」
「ナンデェ?」
「何でも何もあるか。食べるつもりだろう!」
「ゼッタイ食べナイ! ゼッタイ食ベナイカラ!」
「嘘つくな酔っぱらいめッ」
ゾンビちゃんはほとんど駄々をこねるみたいにして吸血鬼に手を伸ばす。だが当然の事ながら吸血鬼も頑なに手を出そうとはしない。しばし言い合いが続いたあと、吸血鬼はとうとう諦めたように頷いた。
「分かった分かった、じゃあ手を出すから眼をつむってろ」
「ウン!」
ゾンビちゃんは言われた通り眼をつむって手を差し出す。吸血鬼は食べかけの死体から腕をもぎ、それをあたかも自分の手のようにしてゾンビちゃんの差し出した手の上に乗せる。
するとやはりというかなんというか、ゾンビちゃんは本能のまま手の平の上に乗せられた死体の腕に噛り付いた。
「ンー、ミンナ痩セテルなぁ。もっとイッパイ食ベナイト美味シクなれないよ」
ゾンビちゃんは目を瞑ったまま悪びれる様子もなく死体の指を噛み砕く。
吸血鬼は呆れたようにため息を吐きながら齧りかけの死体の腕をゾンビちゃんの口に押し込んだ。
「なに訳の分からないことを言ってる。喋ってないで食え」
そして吸血鬼は小さな声でボソリと呟く。
「そして酔い潰れろ」
吸血鬼の言葉にハッとして、俺は食べかけの老人の死体に眼を向ける。
まだ肉は半分以上残っているにも関わらず、ゾンビちゃんは結構な泥酔状態だ。この肉をもっと食べさせることができればそのうち潰れてしまうはず。
「スケルトン、こっちにそれ運んでくれる?」
俺は吸血鬼の手助けをすべくスケルトンたちに指示を出す。
彼らによってゾンビちゃんの目の前に死体が置かれると、吸血鬼は未だに目を閉じたままのゾンビちゃんに言った。
「さぁ、さっさとこの死体を処分してくれ」
「ンー? ウン……」
ゾンビちゃんは言われるがまま目前の死体に手を伸ばして口に運ぶ。だがこれもアルコールの影響か、ゾンビちゃんにしては珍しくまるで酒のつまみでも食べるようにしてちびちびと死体を齧っている。時折眠そうに目を擦ったりはするものの、まだ酔いつぶれるには至らないようだ。
痺れを切らしたらしい吸血鬼が今度は死体から肉をもぎ取り、ゾンビちゃんの口に押し込んだ。
「遠慮はいらない、じゃんじゃん食え」
「モガモガ……」
「さぁ食え! 食え!」
「ウググ」
吸血鬼は折れた右手の恨みを晴らすかのごとくゾンビちゃんの口にグリグリと肉を押し込んでいく。さすがのゾンビちゃんも吸血鬼の矢継ぎ早の攻撃についていくことができず、目を白黒させて苦しそうに呻いている。
「それ大丈夫なの。窒息しちゃわない?」
「それならそれで好都合だ」
吸血鬼は薄ら笑いを浮かべながらゾンビちゃんの口に肉を詰め続ける。少々やりすぎにも思える吸血鬼の攻撃はみるみる効果を表し、ゾンビちゃんは今にも目を回して倒れてしまいそうだ。それが酔いからくるものなのか窒息によるものなのかは定かじゃないが。
「よしっ、あと一歩だ」
吸血鬼はラストスパートだとでも言わんばかりに攻撃の手を速める。もう肉も残すところあとわずか。
その時、ゾンビちゃんは突然肉を詰め込む吸血鬼の腕を掴み、その手首をへし折った。
「ギャーッ!?」
突然の攻撃になすすべもなく、吸血鬼の手首はあらぬ方向に折れ曲がる。
だがそれだけでは腹の虫が収まらなかったらしい。ゾンビちゃんは口に入っていた肉を飲み込み、勢いよく吸血鬼の鳩尾に拳をぶち込む。
「ガッ……」
「ミシミシ」だとか「ベキッ」だとか言う様々な種類の不穏な音が吸血鬼の身体から聞こえた。ゾンビちゃんは焦点の定まらない眼でうずくまる吸血鬼を見下ろし、いつも以上に呂律の回らないたどたどしい口調で言う。
「ニクは! 自分のペースで! タベル!」
ゾンビちゃんは声高らかにそう言うや否や、受け身も取らずうつ伏せに倒れた。
「ゾ、ゾンビちゃん?」
声をかけても、スケルトンが揺すっても、ゾンビちゃんはピクリとも動かない。俺はスケルトンと顔を見合わせ、互いに頷き合った。
「……潰れたね」
そう呟いて俺たちはホッと胸をなで下ろす。
今回の功労者である吸血鬼は、その脇でもんどりうちながら胸を掻き毟っていた。
「いっ、息がっ……できない……」
吸血鬼は目を白黒させながら苦しそうに肩を上下させる。こちらも潰れてしまったらしい。腹の中の大事なものが、物理的に。
「たすけっ……」
吸血鬼は血を吐きながら俺たちに手を伸ばすが、内臓にうけたダメージを癒やす手段を俺たちは持っていない。
「ええと……あんまり苦しいなら介錯しようか?」
割と本気で言ったのだが、吸血鬼は「ふざけるな」とでも言いたげに俺を睨んだ。
だが文句を言う余裕もすでに無いらしい。吸血鬼は腹を抱えたままうずくまり、そのまま動かなくなった。
「二人も潰れちゃった。あっ、こっちもある意味酒のせいでこうなったんだっけ」
ほとんど骨と化した老人の死体も、二人と同じようにして地面に横たわっている。こうして三人で倒れていると、彼もまた酒に酔い潰れて眠ってしまったかのようだ。
スケルトンはどこからかペンを取り出して紙に何かを書き出し、ゾンビちゃんの頭に乗せた。
ゾンビちゃんの頭の上で、この状況にこれ以上ないほど相応しい言葉が踊っている。それがなんだかおかしくて、俺はその言葉を声に出して読んだ。
「『酒は飲んでも飲まれるな』」