36、幽霊ダンジョン
「レイス、僕になにか用か?」
吸血鬼は起きてくるや怪訝な表情を浮かべて俺にそう尋ねた。
なにか用があっただろうかと考えるが、特に思い浮かばない。
「なにもなかったと思うけど」
「ええ? 用もないのに覗くなよ、気持ち悪いだろ」
「の、覗く?」
心当たりのない言葉に俺が首を傾げると、吸血鬼は不機嫌そうに頭を掻く。
「昨日棺桶に頭を突っ込んで僕の顔を覗きこんだろ」
「なんで俺がそんなこと。見間違えだよ」
「いや、そんなはずない。棺桶をすり抜けるなんて芸当、君以外に誰ができるって言うんだ」
「知らないよ、寝ぼけてたんでしょ」
俺がそう一蹴すると、吸血鬼は不服そうな表情を浮べながらもそれ以上口を開くことはなかった。
この時、俺は吸血鬼が夢でも見ていたのだと信じて疑わなかった。
だがその日の夜に俺は図らずも吸血鬼の見たものの正体を知ることとなる。
みんながすっかり寝静まり、ダンジョンが静寂に包まれた頃。俺はそれを吸血鬼の部屋の前で見た。
「う……あ……」
叫び出しそうになるのを必死に堪え、息を殺してそれの様子を伺う。
貴族風の衣装を纏った紳士だ。だが真っ青な顔、半透明の身体、膝の辺りで途絶えた脚、なにかに絶望したような空っぽの表情……間違えようもない、幽霊である。貴族風の立派な衣装も、朽ち果てたようにボロボロだ。
「はぁ……」
幽霊はため息を吐くと、肩を落としてどこかへ消えていった。
********
「オハヨー」
朝、寝ぼけ眼を擦りながら起きてきたゾンビちゃんに俺は思わず飛びついた。
「うわあああああ、怖かったああああ!」
「ナニナニ? ナニかあったの?」
「あったよ、大変なことが――」
昨日のことをゾンビちゃんに説明しようとしたその時。吸血鬼の部屋の扉が勢い良く開かれ、パジャマ姿の吸血鬼が靴も履かずに飛び出してきた。
「うわあああああ! レイス、夢じゃなかった、やっぱりいたんだよ!」」
「ま、まさか吸血鬼も見たの?」
吸血鬼は冷や汗をかきながら力強く何度も頷いた。
「幽霊だ、男の……でも知らない顔だった。僕の顔に冷たい息を吹きかけてきたんだ、鳥肌が立ったよ」
「俺も吸血鬼の部屋の前で見たよ。背筋がゾッとした……」
俺たちは二人、自分がどれほど恐ろしかったのかを熱弁する。それを聞いていたゾンビちゃんがおもむろに首を傾げた。
「ナンデ怖いの? レイスも幽霊でしょ」
「……た、確かに。君の仲間だろう、なんで怖がるんだ」
吸血鬼はそう言って俺をジッと見つめる。
確かに言われてみれば俺も幽霊なわけだが、やはり暗闇にぼうっと佇む透けた身体と虚ろな表情には恐怖を抱かずにいられない。自分がそうであるのと他人がそうであるのとはやはり大きな違いがあるのだ。
「そ、それを言うなら吸血鬼だって。俺のことは怖がらないじゃん」
そう指摘すると、吸血鬼は複雑な表情を浮かべて少し間をおいたあと口を開いた。
「多分、意思疎通のできそうな幽霊なら怖くないんだ。だが棺桶に顔を突っ込んで息を吹きかける幽霊は怖いだろ。何を考えているのか分からない」
「な、なるほど。確かにそれは生きた人間でも怖いね」
俺は吸血鬼の言葉に頷く。
もしあの幽霊が陽気に話しかけてきたとしたら俺もここまでの恐怖は感じずにすんだだろう。得体の知れない存在が目的も分からず自分たちの領域にいること自体が怖いのだ。
逆にあの幽霊の目的や素性を知ることができれば対処法も分かり怖さも和らぐかもしれない。
「とにかくあの幽霊と接触する必要があるよね」
「そうだな。アンデッドが神官に幽霊退治を頼むわけにもいかないし、できれば話し合いでカタを付けたい」
「で、ダレが行くの?」
ゾンビちゃんの言葉に、俺と吸血鬼は互いに顔を見合わせる。
「ここは同じ幽霊であるレイスに行ってもらうのが良いだろう」
「ここはダンジョンボスの吸血鬼が行くべきだと思うな」
俺たちは互いに指をさし合った格好のまま固まった。
少しの沈黙の後、吸血鬼が額にうっすらと汗を浮かべて口を開く。
「僕は絶対行かない」
「お、俺だって嫌だよ」
じっと睨み合う俺らを見て、ゾンビちゃんがため息混じりに呟いた。
「情けないオトコたちだナァ」
********
結局議論は平行線をたどり、ひとまず様子を見ると言うことになった。フラリと現れた幽霊だ、フラリと消えてくれるかもしれない。
そりゃあ気味は悪いが出るのは夜だけだし実害はない……と、思っていた。
ところが、事態はそう簡単ではなかった。
「うう、身体が重い……」
吸血鬼はゲッソリした顔で肩を落とす。ここ連日幽霊に睡眠を邪魔され、あまり眠れないらしい。目の下にはクマが浮かび、ただでさえ不健康そうな顔色をより一層酷くしている。
だが体調不良なのは吸血鬼だけではない。
「ウー、なんかキモチワルイ」
地べたに横たわったゾンビちゃんが気怠げに頭を抱える。
その脇にはスケルトン数体が膝を抱えて座り込んでいた。彼らは俺に向かって紙を掲げ、その苦しみを訴える。
『肩凝りがヒドい』
『頭痛がする』
『ヤル気が出ない』
ダンジョンの空気もなんだかどんよりしている。
俺はすっかり沈んでしまったダンジョンを見渡してため息を付いた。
「これはマズイことになったね」
「スケルトンたちまで……筋肉もないのになんで肩凝りなんか」
吸血鬼は虚ろな目をあちこちに横たわるスケルトンに向ける。
こんなにたくさんのアンデッドが一気に体調不良に陥るなんて前代未聞だ。しかも筋肉や臓器を持たないスケルトンまで。
「……呪いなのかな」
思わず零すと、吸血鬼はビクリと大袈裟に体を震わせて引き攣った笑みをこちらに向けた。
「何言ってる。ただの風邪だろう……はは」
「そんなわけ無いでしょ。ダンジョンで殺された冒険者の怨霊がアンデッドに復讐しようとしてるのかもよ」
「き、君がそれを言うのか? しかしこのダンジョンで貴族の血を吸った覚えはないぞ」
「うーん、確かに冒険者じゃなさそうだよねあの人。ならうちのダンジョンでなにがしたいんだろう」
「なにがしたいんだろうなぁ……」
揃って首を傾げる俺たちを見かねたのか、ゾンビちゃんが地面に横たわったまま眉間にシワを寄せて不機嫌そうに言った。
「モー、ナンデも良いからどうにかしてよ。おニク食べられない!」
「うぐっ……」
俺と吸血鬼は額に汗を浮かべながら再び顔を見合わせた。
ゾンビちゃんの言う通り、こんな状態ではまともに冒険者と戦うこともできない。根本的な解決が求められているのは俺も吸血鬼も分かっていた。分かってはいたのだが、怖いものは怖い。だがこのままではいよいよ不味いことになる。
その二つの間で揺れ動いた結果、俺たちはある折衷案を採用することにした。
「……よし、ならば間をとって」
「……みんなで行こうか」
********
ダンジョンが静けさに沈んだ真夜中。そいつは今日も変わらず浮かび上がるように現れた。
「きっ、来たぞ」
吸血鬼が押し殺した声でそう呟く。俺と集まった大量のスケルトンたちは息を飲んで幽霊の透けた体を見つめる。
「……ネェ、ナンデこんなイッパイいるの」
ゾンビちゃんは俺達の後ろをゾロゾロと続くスケルトン行列に目を向けて呆れたように言った。
「言ったろ、みんなで行くって」
「これだけいれば心強いよね……!」
俺達がそう言うと、スケルトンたちは誇らしげに骨を鳴らす。大量のスケルトンの鳴らす骨の音は大きく厳かで、退魔の力を感じさせるような気がしなくもない。この音に驚いて消えてくれないかと幽霊を盗み見たが、残念ながら特に変化はなかった。
「ジャ、早くハナシしてこよー」
ゾンビちゃんはそう言って躊躇いもなく幽霊に近付いていく。ある程度進んだところでくるりと振り返り、先程から一歩も進んでいない俺達に冷ややかな視線を送った。
「ナニしてるの?」
「い、いや……まだ心の準備が」
吸血鬼の言葉に俺も力強く頷く。スケルトンたちも同様だ。
「ハァ、シカタナイなぁ」
そう言うとゾンビちゃんは再び前を向いて幽霊に近付いていく。
「おおっ、ゾンビちゃん凄い」
「小娘がここまで頼もしく見えるのは初めてだ……」
ゾンビちゃんは幽霊の目の前まで行くと、背の高い紳士の霊を見上げながら物怖じせず口を開く。
「オイお化け! ナニしにキタ!」
ゾンビちゃんのあまりに直接的な言葉に思わず震え上がる。
「あわわわ、あんなこと言って大丈夫!?」
「ひいいっ、あいつ恐怖を感じる部分が壊れてるに違いない!」
俺達はどぎまぎしながらゾンビちゃんと幽霊を見守るが、心配していたようなことは起こらなかった。しかし、期待していたことも起こらなかった。
幽霊はゾンビちゃんを一瞥すると、なにも言わずにため息を吐いたのだ。
「はぁ……」
「ギャッ、冷たい!」
ゾンビちゃんは手でゴシゴシと顔をこする。その間に幽霊はゾンビちゃんに背を向けてどこかへ行ってしまった。
「だ、大丈夫ゾンビちゃん!?」
「ウウッ、アイツの息冷たいよぉ」
「冷たい?」
吸血鬼は頬に手を当て、そしてハッとした表情を浮かべる。
「あの冷たい息、ため息だったのか?」
「そういえば吸血鬼も冷たい息を吹きかけられるって言ってたよね」
「毎晩毎晩人の棺桶に顔を突っ込んではため息吐いてたのか。なんて失礼なヤツだ」
吸血鬼は腕を組みムッとした表情を浮かべる。
あれだけため息を吐いているのだ、とにかくこのダンジョンに満足していない事は確かだろう。だがまだあの霊に関する情報が足りなさすぎる。向こうは話をする気がないようだし、行動から読み取る他ない。
「とにかくあの幽霊をもっと観察しないと。多分ダンジョンのどこかにいるはずだから後を追おう」
「ええ……僕もう疲れたし寝たいんだが」
「ダメ!」
うだうだ文句を言って逃げようとする吸血鬼の腕をゾンビちゃんがガッチリと掴み、半ば引きずるようにダンジョンを進んでいく。
だがなぜかダンジョンを一周する頃になってもあの霊の姿は見えない。
「もう消えたんじゃないのか?」
業を煮やした吸血鬼がうんざりした顔を隠そうともせずにぼやく。
確かに姿は見えないがまだまだ夜はこれから。幽霊が消える時間とは思えない。
「どこにいるんだろ、探してないとこあったかな?」
そう呟くと、一体のスケルトンが紙になにかを書き出した。彼はその紙を俺に向かって高く掲げる。
『温泉』
「あっ……そうか、温泉がまだだ」
「ええ、まだ行くのか。貴族の霊が魔物の温泉になんの用があると言うんだ」
「そんなこと言ったらアンデッドダンジョンに用があるとも思えないでしょ。怖いのは分かるけど、今手を打たないと……」
「モー、シッカリしてよ」
ゾンビちゃんの冷ややかな言葉を受け、吸血鬼は引き攣った笑みを浮かべながらのたまう。
「い、いや。別に怖いという訳では……」
「じゃあ早くイコイコ」
ゾンビちゃんは吸血鬼の背中を押して強引に足を進めさせる。吸血鬼もああ言った手前、行くのが嫌とは言い出せない。及び腰になりながらも温泉を目指して歩いていく。
そして浴場に着いた我々は温泉から昇る湯気に紛れるようにして佇む幽霊を発見した。
「うわっ、出た!」
吸血鬼は蒼白い顔をますます蒼くして幽霊から一歩二歩と後ずさりする。
幽霊は俺たちの存在に気付いているのかいないのか、こちらを見ようともせずただただ浴場の脇で湧き出る紫の温泉をじっと見つめている。そしてやはり、時折なにかに失望した様にため息を吐いて見せた。
「温泉スキなのかなぁ」
幽霊を遠巻きに眺めながらゾンビちゃんが呟く。
だが俺には彼が温泉好きには思えなかった。
幽霊にも色々と種類があるが、この世に未練があるためにあの世へ行けないというのが最も有名なタイプの一つだろう。もし彼が「温泉に入りたくてこの世に留まっている」とするならば、温泉に浸かろうとすらしていないのは不自然だ。そもそもここは人間から見ればただの毒沼。まともな神経の人間ならばこんな場所に入浴を目的として来たりはしないだろう。
では何を目的として来たのか。なんとなくの見当はついていなくもなかった。
「……幽霊になるとさ、今まで行けなかったところに行けるようになるよね。壁をすり抜けられるし、重力も無視できるし」
「そうだろうな。僕だったらダンジョンなんかじゃなくもっと楽しそうな場所に行きたいと思うがね。劇場とか退屈しなさそうだ」
「そうそう、幽霊なら劇場で一日中観劇することだってできる。人間だった頃にはできなかった事だよね。あの人も、人間だった頃にはできなかった事をやろうとしてるんじゃないのかなぁ」
「と、言うと?」
「風呂の覗き」
「ああ……なるほどな」
吸血鬼は神妙な面持ちで頷く。
これならば彼が温泉を見つめてため息を吐いている理由も分かる。こんな深夜に温泉に入る者はいないし、そもそもこの温泉に入るような客はゴブリンやオーガ、知性のある魔獣など普段からほとんど裸みたいな恰好をしている者ばかりだ。動物園的な楽しさはあるかもしれないが、この男が求めているのはそういう楽しさじゃないのだろう。
「僕を見てため息を吐いたのは、僕が男だったからか」
「そうだね、女吸血鬼を期待してたんじゃない?」
俺達の会話にゾンビちゃんが目を丸くした。
「チョット待って、私もため息ツカレタよ」
「まぁ……ゾンビは好みじゃなかったのかな」
ゾンビちゃんは恐い顔をして幽霊を睨みつけ、唸るような低い声で言う。
「アイツ食い殺してヤル!」
「落ち着いてゾンビちゃん、あの人もう死んでるよ」
「そんな事はどうでも良い! それより早くここを出ていってもらうとしようじゃないか。ここにいたってヤツの求める物は出てこないんだ、それはアイツも分かってるはずだろう」
俺は吸血鬼の言葉を受け、そっと温泉を眺める幽霊に目をやる。
「そのはずだけど……出て行かないってことは他に行くあてもないんだろうね。どこか紹介してあげられればいいんだけど」
「近くの町の大浴場の場所でも教えてやれば良いんじゃないのか」
「でもそれだと深夜は営業してないだろうし、人間の町だと祓われる危険があるからなぁ。だからわざわざアンデッドダンジョンまで来たんじゃない?」
「そうか……しかし人間の町がダメだとするとかなり選択肢は狭まるな。君良い場所知ってるか?」
「うーん、温泉ではないけど……ちょっと行ってみる」
俺は大きく息を吸い込み、意を決して幽霊へと近付く。そして虚空を見つめる幽霊にそっと耳打ちした。
「……!」
幽霊の虚ろな瞳に光が宿った瞬間だった。
彼は俺に向かって親指を立てると、まるで煙のように消えてしまった。
「キエタ!」
ゾンビちゃんが目を見開いて感嘆の声を上げる。
吸血鬼もパッと顔を輝かせ、それからおもむろに肩を回し始めた。
「おおっ、身体が軽くなった!」
吸血鬼の言葉によってスケルトンたちもそれぞれガチャガチャと音を立てながら身体を揺らせる。なんだか一気にダンジョンが明るくなったような気がした。
「ワー、ありがとうレイス!」
「凄いじゃないか、一体なにを言ったんだ?」
ゾンビちゃんと吸血鬼はその輝く瞳で俺をジッと見つめる。少し照れるがそう悪い気はしない。俺は頭を掻きながらあの幽霊が向かったであろう場所を説明する。
「多くの冒険者が憧れる伝説の高レベルダンジョン、『サキュバスの巣』を教えたんだ。可愛いサキュバスがたくさんいるんだけど、数多の難所を通り抜けないと辿りつけないダンジョンなんだって。そこを目指して命を落とした冒険者は数知れないとか。でも幽霊ならそんなの関係ないからね」
「ほう……そんなとこがあるのか」
吸血鬼は興味深そうに頷く。
俺は得意になってさらに続けた。
「そうなんだよ、冒険者が滅多に来ないとこだから辿り着くと凄いサービスしてくれるって話で……あっ」
俺はここまで来てようやく気付いた。ゾンビちゃんが今まで見せたことのないような冷え切った表情をしていることに。
「あっ、いや、誤解しないで欲しいんだけど別に俺が行きたいとかそういうわけじゃないよ? ただ冒険者やってた頃に偶然噂を聞いて、たまたま思い出しただけで……」
「チョット噂聞いただけで住所マデ覚えてるの?」
「うぐっ」
ゾンビちゃんの冷ややかな視線が俺の透けた体を突き刺す。俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「小娘の言う通りだ、不潔だぞレイス!」
吸血鬼がニヤニヤした笑みを堪えながら俺を糾弾する。
思わぬ掌返しに俺は目を見張った。
「ええっ、ちょっと興味ありそうな顔してたじゃん!」
「は? なんの事だ?」
「くっそー、裏切ったな!」
「モウ私寝る」
ゾンビちゃんは抑揚のない声でそう言うと、さっさと俺に背を向けて歩き出す。
「ああっ、待ってゾンビちゃん!」
ゾンビちゃんは俺の声を無視し、ダンジョンの暗闇の中へと消えていった。
彼女の信頼を取り戻すのに大量の肉とそれなりの時間を要したことは言うまでもない。