29、小さくて大きな吸血鬼
頭に直接響くような甲高い羽音が耳につく。
この特徴的な羽音を出す生物を俺は一つしか知らない。夏の風物詩、蚊である。
俺の体にはもはや血も流れておらず、この皮膚に針を突き刺すこともできないだろう。それが分かっていてもやはりこの羽音には反応せざるを得ない。俺は蚊を追い払うために顔まわりを手で煽いだ。それにどれだけの効果があるのかは分からないが、そうせずにはいられなかった。
「レイス~、ブンブンウルサイ!」
ゾンビちゃんも蚊の羽音が気になるらしい。
眉間に皺をよせ、顔の周りを手で払いながらこちらへ歩いてきた。
「なんか今日は蚊が多いね。刺された?」
「ウウン、でも音聞いてるだけでカラダがカユくなるよ」
「本能的に嫌な音だよね、蚊の羽音って。でもなんでこんなに蚊がいるんだろ。どこかに水たまりでもあるのかな」
「ミズタマリ……ウーン」
ゾンビちゃんも腕を組んで首をかしげる。
ダンジョンに存在する水場といえば温泉だが、あれは人が入れば即死するような毒沼だ。蚊がそれに耐えられるとは考えづらい。
なら中で発生したのではなく、外から何らかの影響で蚊が入り込んだのだろうか。例えば餌を求めて、とか。だがゾンビちゃんは刺されたりしていないと言うし、もちろんスケルトンや俺から血が吸えるわけもない。冒険者にくっついて入ってきたにしては数が多すぎる。
ダンジョンを我が物顔で飛び回る蚊を手で払いながら二人して悩んでいると、不意に通路の奥から声が聞こえてきた。
「おーい、誰か助けてくれ!」
「ん? ……うわっ!?」
「ギャッ」
俺たちは顔を引きつらせて小さく悲鳴を上げた。
通路の向こうから歩いてくる吸血鬼の皮膚に赤いドット柄が浮かんでいるのだ。青白い皮膚に赤いドットは遠くからでも非常に目立ち、俺たちに生理的な嫌悪感を抱かせる。
「ま、まさかそれ、蚊にやられたの?」
尋ねると、吸血鬼はゲッソリした顔で頷いた。
「ああ、朝起きたらこうなってた」
「餌は吸血鬼だったか……それにしても吸血鬼が吸血されるなんて皮肉だなぁ」
「面白がってないでどうにかしてくれよ。痒くて仕方がないんだ」
「どうにかって言われても」
「見てるコッチがカユイ!」
ゾンビちゃんはそう言って吸血鬼の身体から目を逸らす。
吸血鬼は首にできた蚊に刺されをボリボリ掻きながらため息を吐いた。
「僕は君たちの千倍痒いぞ。皮膚を剥がしてしまいたいくらいだ」
「スケルトンたちに頼んで剥いでもらう……?」
「私もテツダウ」
ゾンビちゃんはそう言って吸血鬼に手を伸ばすが、彼はゾンビちゃんから逃れるように後退りをし、慌てたように首を振った。
「じょ、冗談だ。本気にしないでくれ」
吸血鬼はそう言って引き攣った笑みを浮かべる。
だが「皮を剥ぐ」というのが悪くないアイデアに思えてしまうほど吸血鬼の皮膚は酷い有様なのだ。
「そんなに血を吸われたら貧血になりそうだなぁ。っていうかなんで気付かないんだよ、そんだけ刺されたら普通起きない?」
「寝込みを襲われるのは吸血鬼の宿命だ。しかしなぜ僕ばかり刺される? レイスはともかく、小娘も全然刺されてないじゃないか」
吸血鬼はやや不服そうに自分の赤い水玉模様の浮かんだ腕とゾンビちゃんのツギハギだらけの顔を比べる。
確かにこれほどまでに明暗が分かれるのは不思議だ。
「んー、やっぱり蚊もゾンビの血は嫌なのかなぁ。でもそれにしたって吸血鬼は刺され過ぎだよね」
「血ばっかノンデルからじゃない?」
「ああ、血の匂いに惹かれて寄ってくるのかなぁ」
吸血鬼は怪訝な表情を浮かべてシャツの袖を鼻に押し付け、首を捻った。
「そんなに匂いしないだろう。というか、血の匂いなら小娘もそう変わらないんじゃないのか。僕はベチャベチャ血を零したりしないし――」
「アッ」
ゾンビちゃんが短く声を上げた次の瞬間、吸血鬼の体が勢い良く吹っ飛んだ。彼女が突然、何の前触れもなく吸血鬼の頬を平手で叩いたのだ。吸血鬼は突然のことに受け身も取れないまま壁に叩き付けられ、そのまま地面に転がった。
首がもげそうな勢いだったがさすがは吸血鬼、一応首は身体にキチンと付いたままである。
「なっ、なにするんだ。一瞬心臓が止まったぞ!」
吸血鬼は頬をさすりながら見開いた目でゾンビちゃんを見上げる。頬は腫れ、叩かれた時に切ったのか口の端から結構な量の血が流れている。
殴った方のゾンビちゃんはというと、悪びれた様子もなくケロリとしていた。
「蚊、止まってた」
そう言ってゾンビちゃんは手のひらを吸血鬼に向ける。彼女の手のひらには確かにペシャンコになった蚊がへばり付いていた。
「ち、力加減と言うものを知らないのかお前は」
「まぁまぁ吸血鬼、ゾンビちゃんも悪気ないから……ん?」
異様な気配を感じ、俺は注意深くあたりを見回す。
ダンジョンの奥から今までとは比べ物にならないほど大きな羽音が聞こえてくるのだ。そしてその音はどんどん大きくなっていく。
「な、なにこの音」
「蚊の羽音には違いないが……一匹じゃ二匹じゃこんな音は出ない」
吸血鬼は険しい表情を浮かべてダンジョンの奥をジッと見つめる。その姿は俺達の目には未だ映らないが、音は確実に接近しつつある。
巨大な蚊の塊がダンジョンを埋め尽くす光景が頭に浮かび、俺は小さく身震いした。
「ドウシヨ、アナ掘って隠れようかな」
ゾンビちゃんは苦い顔をしながらポツリと呟く。この状況下において彼女のアイデアはとても魅力的に聞こえた。
「俺も逃げようかな、大量の蚊が人を襲ってるとこなんて見たくないし」
「あっ、お前ら自分だけズルいぞ!」
「ズルいって言われても……ああ、どんどん音が大きくなる!」
そしてとうとう、羽音の発生源がダンジョンの暗がりからその姿を現した。
だがその姿は俺たちの想像していたものとは少し……というかだいぶ方向性が違っていた。
「……えっ、なにアイツ」
「蚊……なのか?」
「なんかキモチワル」
俺たちは逃げることも忘れ、どんどん近付いてくるそれに目を奪われていた。
シマシマ模様の身体、細長い手足、尖った針のような口――蚊だ。紛れもなく蚊である。ところが、ソイツは俺たちのイメージする蚊の数百倍の大きさをしていた。手も含めれば、その体長は恐らく吸血鬼の身長をも超えるであろう。
「あのー、ちょっとお願いがあるんですけども」
蚊の羽音にも似た甲高い声。俺たちの中にそんな声を出す奴はいないし、そもそも人間の声帯に出せる音域とは思えない。よく見ると、その声は巨大蚊の細長い口から発せられていた。
「実はですね、少し血を分けて頂きたくて」
「……断る」
吸血鬼は困惑の表情を浮かべながらもきっぱりと言い切った。
だが蚊の方もその程度では引き下がらない。
「お願いしますよ、お腹の赤ん坊のために血が必要なんです」
「メ、メスなのか」
「血を吸う蚊はみんなメスです。ここに美味しくて栄養満点の吸血鬼の血があるとママ友から聞いて来ました」
「ならそいつらに伝えろ、お前らにやる血は一滴もないとな!」
吸血鬼は突き放すように冷たく言い放つが、なおも蚊は食い下がる。
「痒くて仕方ないんですね、分かります。でもあなたの事は噂になっていますから、きっとこの先もたくさんの蚊があなたの血を狙ってきますよ」
「うっ……生物が生息できないくらい蚊取り線香を焚いて迎え撃ってやるさ」
吸血鬼はそう強がって笑ってみせるが、その眼からは光が失われてしまっている。それに気付いたのか、蚊はここぞとばかりに吸血鬼へそっと近付いた。
「それも良いですが、もっと確実な方法がありますよ。私と取引をしませんか? あなたの血を私に下さるというなら他の蚊にはもうこのダンジョンに入らないようにさせます」
「お前に何の権限があってそんなことができるというんだ」
「ご存じありませんか? 我々は蚊の王の一族、すべての蚊は我らの配下にあるのです」
蚊の王。その言葉には聞き覚えがあった。
「あっ……ちょ、ちょっとそこで待っててください。吸血鬼来て!」
俺は慌てて吸血鬼とゾンビちゃんを蚊に話を聞かれない距離まで連れ出す。
「どうしたレイス?」
俺は声を潜め、怪訝な表情を浮かべる二人にそっと耳打ちする。
「蚊の王って聞いたことがあるんだ。魔王にもその働きを認められた由緒ある魔物の一族で、その影響力は魔王に匹敵するとかしないとか」
吸血鬼は俺の言葉に眼をかっ開き、後ろでうるさい羽音を出している蚊の化け物を盗み見る。
「そ、そういえば僕も聞いたことあるような。アイツ、そんなやんごとなき身分の魔物だったのか!?」
「うん、そんな人に恩を売れる機会なんてそうそうないよ」
「確かに一理あるな」
吸血鬼はそう言って目を輝かせる。
そんな俺たちを見てゾンビちゃんは呆れたように言った。
「二人とも、ケンリョクにヨワイね」
「権力に弱いくらいで丁度いいんだよ。よし、じゃあ吸血鬼頑張って」
「うっ……しかし……」
吸血鬼は蚊の尖った口を見て表情を強張らせる。蚊とはいえ、ここまで大きいとかなり不気味だし恐い。
だがどんなに恐ろしくたってそれで吸血鬼が死ぬことはないのだ。
「なにビビッてるの、今まで散々人の血を吸ってきたじゃん。蚊も来なくなるし一石二鳥でしょ、ほら行って行って」
「あ、ああ……」
吸血鬼は渋々ながら蚊の前まで歩いていき、自らの血を提供するよう申し出た。すると蚊は嬉しそうに甲高い声を上げる。
「ありがとうございます! ではさっそく」
「わああっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ。その口を刺して吸血するわけだろ?」
「ええ、そうですけど」
「痛くないのか?」
「ちゃんと麻酔を出しますから大丈夫ですって。じゃあ私お腹ペコペコなんで、いただきまーす」
蚊は細長い手足で吸血鬼の身体を絡め取り、その細長い口を首筋に押し込む。口はゆっくりと吸血鬼の首に刺さっていき、痛みと不快感からか吸血鬼は体を強張らせて険しい表情を浮かべた。だがその表情も時間の経過により少しずつ和らいでいく。
「……あ、痛くなくなってきた」
「ちゃんとまふいだしてまふって」
「うわっ、刺したまま喋るな!」
「はいはい……」
麻酔を終え、吸血を始めたのだろう。蚊の腹が赤い液体で徐々に膨らんでいく。
「うっ……け、結構取られるな」
心なしか、吸血鬼の元々白い顔がさらに白くなっていくような気がする。
だがまだまだ蚊の吸血行為は止まらない。
「おい、いつまで吸われるんだ」
「吸血鬼、あと少し辛抱して!」
「あ、ああ……」
蚊の腹がどんどん大きくなる。それに従い吸血鬼の顔色がどんどん悪くなる。
気のせいだろうか、吸血鬼の顔がどんどんやつれていっているような……
「も、もう無理だ! 眩暈がしてきた」
我慢の限界だとばかりに吸血鬼が暴れだす。だが貧血で力が入らないのだろう、巨大な蚊の細長い手から逃れることすらできない。
「あとちょっとの我慢だから、頑張れ!」
「あ……も、もうダメだ……意識が……」
吸血鬼はそう言い残し、そのままぐったりと動かなくなった。だがなおも蚊は吸血鬼から口を離そうとはしない。
結局、吸血鬼が解放されたのは彼が意識を失ってから5分程度経ってからのことだった。
「ふー、お腹いっぱい」
蚊は膨れて赤くなった腹をその長い手で擦る。ようやく蚊から解放されて地面に倒れた吸血鬼の体は、なんだかいつもより一回りほど細くなっているような気がした。
「と、取りあえずこんなとこで寝かせとくのは可哀想だし、どこかに運んであげようか。ゾンビちゃん持ってくれる?」
「ウン……ウワッ、軽い!」
ゾンビちゃんは吸血鬼を軽々と持ち上げ、まるで重量挙げ選手の様に掲げて見せた。他人事ながら、なんだかこっちまでクラクラしてくるようだ。
「うわぁ、吸血って怖ぇ」
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それから数日後、ダンジョン宛に一通の手紙が届いた。俺たちは同封されていた奇妙な生物の映った写真に首を捻る。
「……なんだコレは」
「うーん、ボウフラ……かな」
「キモカワイイ」
どうやら無事子供が生まれたことを知らせてくれたようである。母体があの大きさであるから、きっと子供もかなりの大きさがあるのだろう。あんなに大きいのがたくさんいるかと思うと考えただけで鳥肌が立つ。
吸血鬼は早々に写真を机の上に伏せ、代わりに手紙を手に取って広げた。
「読み上げるぞ。ええと……先日はありがとうございました、おかげで可愛い子供たちがたくさん生まれました。娘たちの出産の際にも是非よろしくお願いします……ハァッ!?」
吸血鬼はまるで貧血を起こしたかのようにヘナヘナと座り込んでしまった。
「い、一体どれだけ僕から血を搾り取れば気が済むんだ」
「まぁまぁ、きっとこの子たちが子供を産むのは随分先の話だよ。その時はその時で考えよう」
「ああ……しかしもう二度と貧血体験はしたくないものだよ」
吸血鬼は大きく息を吐き、グラスに注いだ血液を一気に飲み干した。