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18、霧




 日課である朝の見回りをしていた俺は、その異様な光景に思わず声を上げた。


「うわっ、なんだこりゃ」


 少し先の通路に厚い雲のようなものが溜まっているのだ。

 それはまるで良く晴れた空に浮かぶ入道雲がダンジョンにうっかり迷い込んでしまったかのよう。唖然としてじっと見ているとその雲はすごいスピードでこちらへ迫り、あっという間に俺を飲み込んだ。これでは雲というより霧だ。手を伸ばせば自分の指先が霞んで見えなくなるほどの濃霧である。ただでさえ存在感の希薄な我が体は、濃霧に溶けてなくなってしまいそうでさえあった。


「どうしちゃったんだこれ……」


 ダンジョンを包む外の森が霧に覆われているのを見たことはあるが、こんな濃霧ではなかったし、なによりダンジョンの奥にまで霧が入り込んだことなどない。

 とにかくここまで視界が悪いと見えていないも同じだ。俺は眼で見ることを諦め、耳に全神経を集中させる。すると、どこからか慌ただしく骨を鳴らす音が聞こえてきた。スケルトンたちもこの濃霧に慌てふためいているに違いない。俺は霧の中から声を上げる。


「おーい、誰かいる?」

「もちろんいるぞ」


 返事はすぐに、そして極めて近くから聞こえてきた。

 慌ててあたりを見回すが、やはり濃霧のせいで何も見えない。しかしその声の主が吸血鬼のものであることは分かった。


「どこにいるの?」

「どこに、だって? その質問は困るな、僕は今ダンジョンのいたるところにいるのだから」

「は?」


 その周りくどい気取った言い方が俺の精神を逆撫でする。

 俺の苛つきに気が付いたのか、吸血鬼は慌てたように声を上げた。


「そ、そう怒るなよ。雰囲気を大事にしたいタイプなんだ僕は」

「その言い草だと、この霧は吸血鬼の仕業なんだね?」

「ああ、僕の仕業というかこの霧自体が僕なんだ」

「は?」

「い、いや、本当にそのままの意味なんだって! 吸血鬼が霧に変身できるのを知らないのか!?」

「む、そういえば……」


 吸血鬼には多くの特徴や弱点がある。血を啜る、日の光に弱い、ニンニクが苦手などがメジャーなところであるが、「霧に変身する」というのもあったような、なかったような。いや、吸血鬼本人が「ある」と言っているのだからあるのだろう、多分。


「で、なんでまた霧になんて変身したのさ。正直すごく邪魔なんだけど」

「いやぁ、僕だって好きでこうなったわけじゃないんだよ。これには深い事情があるんだ」

「事情って?」

「髪型がキマらなくてね」


 吸血鬼の身勝手な言葉に俺は閉口してしまった。

 そりゃあ霧になれば髪型を気にする必要もないだろう。それは吸血鬼だけではない。このダンジョンに一歩足を踏み入れればこの濃密な霧以外何も目に入らなくなる。ゾンビも幽霊も冒険者も、誰も髪型を気にしなくて良い。いや、誰も髪型を気にできない。

 ならば今朝に限って髪型がキマってしまった者はどうなる。せっかくの髪型をみんなに披露できないじゃないか。

 いやいや、そういうことじゃないな。とにかく俺がこの暴君を止めなくては。


「だったら霧じゃなくてコウモリとかさ、他にあるでしょ。冒険者が来たらどうするの。これじゃあゾンビちゃんもスケルトンも戦えないよ。吸血鬼だって霧のままじゃ戦えないでしょ」

「いや、案外そうでもないんだよ。見てろ」


 そう言うと、霧の中から突然吸血鬼の腕が出てきて俺の腹を貫いた。風を切る音がしたから、どうやら幻覚の類ではなくきちんと実体のある腕らしい。

 呆然とする俺のすぐ横から吸血鬼の誇らしげな声が聞こえてくる。


「いやぁ、霧になるのは久しぶりだから不安だったんだが、やればできるものだな」

「な、なんかすごい……ちょっと待って、冒険者たちは吸血鬼が見えないけど、吸血鬼は手に取る様に冒険者が見えるわけでしょ。その上あらゆる方向から攻撃が出来て、向こうがいくら剣を振っても霧状態の吸血鬼にはダメージを与えられない……これって無敵じゃない?」

「まぁね。しかし弱点が一つある」

「弱点って?」

「僕が強すぎて冒険者が寄り付かなくなってしまう事だ! はーはっはっは」


 吸血鬼はその霧の身体を震わせ、高笑いを上げる。ダンジョン中に吸血鬼の振動が伝わるようだった。


「む、そうこう言っているうちに僕の体へ侵入してきた哀れな冒険者が4人。なかなかの手練みたいだな。まぁたまにはこの体で戦うのも悪くないだろう。レイス、君は是非僕の戦いを見ていってくれ。そして僕の勇姿を永遠に語り継ぐんだ」

「約束はできないけど……分かった、どんなものか見させてもらうよ」

「よし、ではついてきたまえ」


 そう言うと霧の中から吸血鬼の腕がぬっと伸び、ちょいちょいと手招きをした。吸血鬼というのは本当に何でもアリなんだなぁと思わず感心してしまう。

 吸血鬼の腕は俺を上へ上へと案内し、そしてあるところで霧の中に溶けるようにして消えてしまった。直後、霧の向こうから足跡が聞こえてきて、俺は急いで壁の中へと身を隠す。その後を追うように話し声が聞こえてきた。


「なんだか霧が濃いね、ダンジョンの中なのに」

「外も霧が濃かっただろう。きっと中に入り込んでしまったんだ。多分奥に行けば霧も晴れるさ」

「ま、歩けないほどじゃないしね」


 吸血鬼の言った通り、冒険者は4人。

 冒険者たちが引き返してしまわないようにするためなのか、上のフロアは下に比べると随分と霧が薄かった。おかげで少々離れた場所からでもこの戦いを見届けることができそうだ。


「よし、だいぶ進んだな。そろそろ良いだろう」


 吸血鬼の囁くような声が耳元で聞こえたその直後、吸血鬼の鋭い爪が集団の一番後ろにいた冒険者を襲った。彼は絶叫する暇も与えられず、おびただしい量の血を首から流しながら地面へ崩れ落ちた。


「あー、もったいない」


 吸血鬼の気の抜けたような言葉とは裏腹に、冒険者たちは霧の中で大パニックに陥った。それぞれ武器を抜き、霧に潜む「何者か」を退治しようと闇雲に振り回すが武器は空を切るばかり。それも当然である。霧に化け物が潜んでいるのではなく、化け物自体が霧なのだから。


「こ、こんなの聞いてない!」

「いったい何がどうなってるんだ!?」

「そんな……このダンジョンにいるのはゾンビやスケルトンのはず」

「……あっ」


 俺は思わず小さく声を上げた。

 そうだ。このフロアは本来知能無きゾンビたちのテリトリーである。そこで血を流せば当然――


「ギャー! ゾンビよ!」


 血の匂いを嗅ぎつけたか、霧の中から続々とゾンビが現れた。ゾンビたちは吸血鬼の爪に掛かって倒れた冒険者の死体をあっという間に骨にし、さらにその無尽蔵の食欲を満たそうと残った冒険者めがけてノロノロと突っ込んでいく。

 本来動きがのろく、適当な武器さえ持っていればそれほど恐れることは無い「知能無きゾンビ」だが、霧の中から突然現れる恐怖や、その数の多さにすっかり参ってしまったらしい。冒険者たちは死に物狂いで剣を振り回し、ダンジョンを奥へ奥へとがむしゃらに進んでいく。

 その後をこっそりついていくと、またどこからか吸血鬼の小さな声が聞こえてきた。その声には先ほどまでの覇気がなく、すっかり落ち込んでしまっているようである。


「ああ……せっかくの獲物が。誰かに死体を回収してもらわないと、せっかく倒してもゾンビたちに喰われてしまう」

「とは言っても、視界が悪いのは俺達アンデッドも同じだよ。今からここにスケルトンたちを呼んでも来るまでに大分時間がかかる。もう少し奥に進めばスケルトンたちがいるはずだから、冒険者たちがそこにたどり着くまで手出ししないほうが良いと思う」

「ぐっ……分かった。悔しいがしばらく待とう。どうかゾンビたちに喰われないでくれよ……」


 だが吸血鬼の願いが叶うかは微妙なところであった。

 ゾンビたちは鼻がよく、冒険者たちについた血の臭いを辿ってどこまでも追いかけてくるのだ。霧のせいでうまく進めず、冒険者たちの疲労もどんどん溜まっていく。

 とうとうダンジョンの袋小路にて絶望に打ちひしがれながらへたり込んでしまった。


「お、おいなにやってる。そんなとこにいたらゾンビが来ても逃げられないだろう」

「あー、なんかもう諦めてない?」


 冒険者たちの顔色は一様に悪く、全く覇気が感じられない。肉を求めて彷徨い歩くゾンビたちの方がよほど生き生きとしているくらいだ。

 まぁそれも無理のない事だ。ついさっき仲間が一人得体のしれない方法で殺されたのだから。


「はー、脱出魔法覚えておくんだったな」

「僕たち、ここで死ぬの……?」

「ゾンビに食い殺されるぐらいなら……いっそ……」


 冒険者たちの不穏な会話が聞こえてくるや、吸血鬼は慌てたように声を上げる。


「おいレイス、これは不味いぞ。ここまでやって成果ゼロではスケルトンたちに怒られてしまう」

「1回こっぴどく怒られた方が良いんじゃない?」

「そんな! 薄情者! ただでさえ体が薄いというのに情まで薄いのかお前は!」

「八つ当たりはやめてよ……まぁでも、確かにダンジョンで自殺はいくらなんでも可哀想かな」

「おおっ、なにか策があるのか?」

「うーん。まぁやるだけやってみるか」


 俺は哀れな冒険者のため、半透明で重い腰を上げた。




********




「……だ、誰……?」


 霧の中から突如現れた俺を、冒険者たちは呆然とした顔で見つめる。

 俺が人の見た目をしているからだろうか、冒険者たちは取り乱したりせず、取りあえずは冷静に俺を迎えてくれたようだ。

 俺は全身から神秘感を出しながら、すべてを包み込むようなイメージで両手を上げる。


「私はー、ダンジョンの神だー」


 俺の突然の告白に、冒険者たちは困惑しながら互いに顔を見合わせる。


「か、神?」

「そんなバカな」

「でもなんか透けてるし……」


 普段のダンジョンで俺がいきなりそんな事を言っても誰も信じないだろうが、この異常な状況下ではかなり胡散臭い話でもおいそれと否定することができないようだ。藁にもすがる思いとはきっとこのようなことを言うのだろう。


「私はー、君たちを助けたいー。このようなところで死ぬような人間じゃないはずだー」

「そ、そんな事を言ったって……じゃあどうすれば」

「力をー、合わせるのだー。そしてこのソンビフロアを突破するのだー」

「あの、具体的にはどういう風に」

「そろそろ時間だー、健闘を祈るー」

「あっ、ちょっと待って!」


 冒険者の伸ばした手は虚しく空を掴んだ。俺は霧の中に体を紛れ込ませ、冒険者たちの元を離れる。

 すぐ耳元で吸血鬼の呆れたような声が聞こえた。


「なんだ今の三文芝居は」

「いやいや、渾身の演技だったでしょ。見てよあの生命力に満ちた眼!」


 俺は嬉々として冒険者たちを指差す。

 今にも自分の首をナイフで切り付けてしまいそうだった先程までに比べれば、随分と元気になったと言えるのではないだろうか。

 そしてとうとう彼らのうちの1人が立ち上がり、仲間を見下ろして言った。その声には力と覚悟がみなぎっている。


「アイツが本当に神かどうかは分からない。だが正体はどうあれ、言っていることは間違いじゃないだろ。みんなで力を合わせてダンジョンを脱出するんだ」

「だから、具体的にどうしたら良いの?」

「そうだな、俺の場合は……これだ」

「あっ」

「ゲッ」


 霧の中から俺たちもおもわず声を上げる。

 冒険者が意気揚々とカバンから取り出したのは、工事でもするのかと思うほどの量の爆弾であった。


「でもこんな狭い場所で爆弾を使うのは危ないって……」

「確かに危険だが、このままじゃ死ぬだけだ。それにこれを使えばゾンビにダメージを与えるだけじゃなく、爆風と熱で霧も晴らすことができるかもしれん」


 どこからか吸血鬼の息を呑む音が聞こえた気がした。

 冒険者は爆弾片手に仲間たちを鼓舞する。


「炎系の魔法やアイテムを積極的に使え。小さな火の玉でも良い。霧なんて所詮は小さな水滴の集まりだ、炎で炙れば蒸発させられる」


 その言葉に吸血鬼の霧の体が振動した。震えているのか。


「吸血鬼、霧を晴らすって言ってるけど……」

「マズい、これはマズいぞ」


 吸血鬼はその声まで震わせている。

 霧と化した吸血鬼の体は大きすぎて、攻撃を避けることはおろかどこかに身を隠すことも難しい。


「よし、みんな行くぞ」


 冒険者たちは闘志みなぎる声を上げ、無慈悲にも立ち上がる。

 けたたましい爆発音が聞こえると、ダンジョン中を震わせるような吸血鬼の絶叫が響いた。





********





 スケルトンたちは乱暴に箒を振り回しながら床に積もった灰を集める。


「いやぁ、申し訳ない」


 吸血鬼は今や小さな雲のようになってしまい、情けなくあたりを漂うことしかできない。

 さきほどの冒険者たちが大暴れしたせいで吸血鬼の霧の体は灰に姿を変え、ダンジョンの広範囲に降り積もったのだ。

 冒険者たちは大量の爆弾と魔力を消費しながらもダンジョンからの脱出を果たせたが、お陰でこちらはダンジョンの掃除にてんてこ舞いである。


『余計な仕事増やして!』


 一体のスケルトンが吸血鬼に向けて紙を掲げると、それに引っ張られるようにしてあちこちから不平の言葉が書き殴られた紙が吸血鬼に向けて上げられる。それはまるで労働者たちによるデモ行進のようだ。


「あーあ、こりゃあスケルトンたちかなり怒ってるね」

「な、何度も謝ってるじゃないか。これ以上どうしろというんだ」

「もう一段階上の謝罪が必要なんじゃない?」

「なんだその怪しげな謝罪。嫌な予感が……」



 その後、無事に体が回復した吸血鬼はスケルトンたちによって毎朝のセットが必要ない丸刈りにカットされ、髪が伸びるまでの数日間好奇の視線に晒された。

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