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98、吸血鬼の人間体験





 ダンジョン最深層、宝物庫フロアには思わず背筋が伸びるような緊張が走っていた。

 ダンジョンボスの吸血鬼と睨み合っているのは、身の丈ほどもある杖を構えた魔道士。俺らの天敵、白魔道士である。

 切り傷一つ、血飛沫一つ無いその純白の衣が彼女の強さを物語っている。実際、彼女は強敵と言うに相応しい冒険者だ。

 とはいえ、いつまでも睨み合っているばかりでは埒が明かない。吸血鬼は一般的に魔法使いが苦手とする接近戦へと持ち込むべく、地面を蹴って白魔道士への飛び掛かる。


 戦闘は俺の想像より遥かに早く決着が付いた。


 白魔道士が杖をひと振りすると、暖かく柔らかな光が宝物庫フロアを包み込んだ。その光に触れるなり、吸血鬼は糸の切れた操り人形のごとく地面に倒れ込む。

 これで戦闘は終わり。全く外傷がないにも関わらず、吸血鬼はピクリとも動こうとしなかった。




*******




「吸血鬼! 吸血鬼ってば!」


 俺はそう叫びながら必死に吸血鬼の肩を殴る。この手がいかなるものにも触れられないことを、この時ばかりはすっかり忘れてしまっていた。


 生前の冒険者生活の中で、俺は白魔導士の神聖魔法により闇属性モンスターが消し飛ぶのを何度か見てきた。強力な神聖魔法はドラゴンゾンビすら消滅させるとも聞く。

 先ほどの魔法は、恐らく悪しきものを浄化する類の神聖魔法だ。まさにアンデッドにうってつけの魔法。

 あんなものをまともに食らって、果たして吸血鬼は大丈夫なのか。まさかこのまま目覚めないなんてことは――

 なんて縁起でもない考えが頭をよぎったその瞬間、吸血鬼が何の前触れもなくその目を開けた。


「うわっ!?」

「……し、死ぬかと思った……」


 吸血鬼は目を見開きながら半身を起こし、大きく息を吐く。

 思ったよりも元気そうだ。俺はほっと安堵の胸をなでおろす。


「今度こそ本当に息の根止まったかと思ったよ。それにしてもしぶといね、心配して損した」

「心配に損もクソもあるか。しかし瘴気の充満したダンジョンでなければ本当に危なかったかもしれない。ああ、なんだか体が重いよ」

「何言ってんだよ、ぴんぴんしてるじゃん。心配させようったってそうは――」


 俺はそこまで言って、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 突然黙りこくった俺に、吸血鬼は怪訝な表情を向ける。


「なんだ、変な顔して」

「い……いや、吸血鬼こそなんか……変だよ」

「は?」


 眉間に皺を寄せ、吸血鬼は不機嫌そうに首を傾げる。

 彼の体に傷はないし、返り血も浴びていない。普段の戦闘後よりよほど綺麗な格好をしている。だが、彼の体には確実になにか異変が起きているに違いない。俺に視線を向ける彼の瞳が、それを如実に物語っていた。


「吸血鬼、目が……黒いんだけど」


 俺は恐る恐る吸血鬼の目を指差す。吸血鬼の証である鮮やかな血の色をしていた彼の瞳が、黒く染まっているのだ。

 だが吸血鬼は俺の言葉を鼻で笑う。


「なに言ってるんだレイス。目がどうにかなってしまったのは君のほうじゃないのか」

「い、いや本当に――」


 その時、ガシャガシャと音を立てながらスケルトンが通路の先の階段を下りてくるのが見えてきた。このまま二人で言い争っていても仕方がない。吸血鬼の瞳を見てもらうべく、俺はスケルトンたちを手招きする。

 だがスケルトンが近付いてくるなり、吸血鬼は突然顔を強張らせて「あっ」と声を上げた。


「なに? どうしたの?」

「な、なぜだ……なぜ僕が映ってる!?」


 吸血鬼はそう言いながら一体のスケルトンを指差す。その指の先を見て、俺は吸血鬼の異様な反応の理由を察した。磨き上げられたスケルトンの鎧に、驚嘆の表情を浮かべた吸血鬼がしっかりと映っているのだ。

 吸血鬼の姿が鏡に映らないのはあまりに有名。彼が自分の顔を見るには魔法のかかった特殊な鏡が必要だ。にも関わらず、なんの特殊効果もないただの鎧に小さな吸血鬼がばっちりと映りこんでいる。

 吸血鬼は這うようにしてスケルトンへ近付き、鎧に映った自分の顔を覗き込む。


「ほ、本当だ……瞳が黒い。なんだこれは、まるで人間じゃないか」

「……もしかしたら、さっきの神聖魔法のせいなんじゃ」

「神聖魔法というのは人の目の色を変える魔法なのか、恐ろしいな」


 わざと茶化すような事を言いながらも、吸血鬼はその蒼白い顔に引き攣った笑みを浮かべる。

 恐らく自分自身の体の異変になんとなくは気付いているのだろう。少なくとも、自分の体に起こっているのが目の色の変化だけでないことくらいは分かっているはずである。

 俺は今ある情報と持っている知識をまとめ、一つの仮説を作り出した。落ち着いた声で、ゆっくりと導き出した仮説を吸血鬼へと伝える。


「神聖魔法が人間に効かないってことは知ってる? だからゾンビなんかに神聖魔法をぶつければ、体を損壊させずに普通の死体へ戻すことができる。つまりさっきの魔法で吸血鬼の『吸血鬼部分』だけが浄化されて、今残っているのは――」

「そ、そんな……」


 できるだけショックを与えないよう努力したのだが、まだ配慮が足りなかったらしい。

 吸血鬼は崩れ落ちるようにして地面に膝と手を付き、この世の終わりとだとばかりに絶望感漂う声を上げた。


「酷過ぎる……吸血鬼になった時もショックではあったが、ここまでの衝撃ではなかった。名前も捨て、数百年吸血鬼として生きてきた僕に、今度は人間として暮らせと言うのか」

「いやいやいや、なに言ってるの。別に人間として暮らす必要はないよ」

「馬鹿か君は。人間がこんな場所で暮らしてたら命がいくつあっても足りない。それに吸血鬼なら血さえ飲んでれば良かったが、人間は野菜とか食べなきゃいけないんだろう? はぁ、今更野菜なんか食べられるかな……」

「なにか勘違いしてるって。確かに今の吸血鬼はほぼ人間だけど完全に人間に戻った訳じゃないし、なによりその状態は一時的なものだから」

「え? そ、そうなのか?」


 俺の言葉に吸血鬼は素早く顔を上げ、きょとんとした表情をこちらに向ける。

 俺は思わず苦笑いを浮かべながら口を開いた。


「当然でしょ。そんな簡単にアンデッドを人間に戻せたら苦労しないよ。さっき例に出したゾンビの場合だって、浄化に成功したとしても火葬しないと数日でまた人の肉を貪るようになるんだ。ダンジョンは瘴気が濃いし、吸血鬼は多分もっと早く元に戻れると思う」

「よ、良かった……危うく人里離れた山奥で家庭菜園と狩りに勤しみながらスローライフを送るところだった」

「なに楽しそうな隠居生活考えてんだよ、割と余裕だなぁ」


 吸血鬼はさっきまでの絶望に満ちた表情が嘘のように、服についた砂埃を払いながら平然と立ち上がる。そして黒い瞳をどこか遠くへ向けながら、冒険に出発する前の少年のような生き生きした笑みを見せた。


「元に戻れると分かると俄然余裕が出てきた。せっかくの機会だ、数百年ぶりの人間の体を楽しませてもらうとしよう!」




**********




 吸血鬼の最も有名かつ致命的な弱点――太陽。

 人の体を手に入れた吸血鬼はまず最大の弱点に身をさらし、弱点の克服に歓喜の声を上げた。


「ふははは! 見たか太陽、お前などもう恐くもなんともない。ざまあみろ!」

「テンション高いなぁ」


 日の光を浴びながらダンジョンの前で大騒ぎする吸血鬼。普段だったら数秒も持たず灰になってしまうのに、今はシャツの袖を捲り、蒼白い肌は直射日光を浴びて輝いている。見れば見るほど不思議な光景だ。

 一方、俺はスケルトンたちと共に薄暗いダンジョンの中から彼の様子を静かに見守っていた。

 吸血鬼は俺たちのことなど意に介さない様子で、さらなる弱点の克服に挑戦しようと企んでいるようだ。


「よーし、このまま川へ遊泳に――うっ」


 だが、吸血鬼の新たな挑戦は早々に中止せざるを得ない状況となってしまったようだ。

 あれだけ高かったテンションが急にどこへ行ってしまったのだろう。吸血鬼は突如口をつぐみ、フラフラしたおぼつかない足取りでダンジョンへと戻ってきたかと思うと、そのまま地面に倒れこんだ。


「な、なに? どうしたの」

「気持ち悪い……ヒリヒリする……」


 絞り出すように声を上げた吸血鬼の顔はいつにもまして蒼白く、それとは対照的に彼の体は熱湯でもかけられたように赤く腫れあがってしまっていた。

 恐らくは日射病と重度の日焼けだろう。俺はため息をつきながら太陽にノックダウンされた吸血鬼を見下ろす。


「何百年も日陰にいたんだからそんなに急に太陽の下で活動できるわけないでしょ。完全に人間になったわけでもないんだし、調子に乗ったらダメだよ」

「ああ……やはり太陽は強敵だったよ」


 スケルトンたちに筆談用の紙で扇がれながら、吸血鬼は仰向けになってぼーっとダンジョンの天井を見上げる。人間化により体力の低下も起こしているのかもしれない。

 力が戻るまで大人しくしていることを是非とも勧めたかったが、どうやら彼にそういった考えはないらしい。

 休憩もそこそこに吸血鬼はむくりと起き上がり、好奇心の宿った黒い瞳を輝かせながら意気揚々と声を上げる。


「ならば次はダンジョン内でできる人間体験だ!」




**********




 どうして「吸血鬼」は人間に恐れられているのか。それは吸血鬼が人を襲い、その血を啜るからである。

 名前にもなっている通り、吸血鬼は血液を主たる食料としている。吸血鬼は吸血鬼となった瞬間から人としての食事を摂らなくなり、人を食事とするようになるのだ。


 だが今の吸血鬼ならば、きっと人間の食事を摂れるようになっているはず。

 ということで、吸血鬼はどこからか引っ張り出してきた血に塗れた冒険者の遺品をあさり、手のひらに収まるほどの巾着袋を取り出した。俺はその袋に刻まれた見覚えある獅子の刻印に目を見張る。


「あっ、それキメラ印の干し肉だ! ちょっと高いけど美味しいんだよね」

「ふうん。もう少し上品なものを口にしたかったが、まぁ冒険者の常備食などこんなものか」


 吸血鬼は不満を漏らしながらも一欠片の干し肉を指の先でつまみ、袋の中から取り出す。そして好奇心に満ち満ちた視線を手の中の干し肉に向け、期待感の滲む声を上げた。


「人間の食事など数百年ぶりだ」


 吸血鬼は「人間の食事」である干し肉を恐る恐る口の中に放り込む。

 だがその瞬間、期待に満ちた吸血鬼の表情が微かに歪んだ。干し肉を咀嚼するたびに彼の眉間に刻まれた皺は深くなっていく。やがて口をへの字に曲げ、耐え切れないとばかりに口を開いた。


「し、舌が痺れる……これ腐ってるんじゃないか?」


 俺は吸血鬼の差し出した干し肉を一瞥し、静かに首を振る。


「大丈夫だよ、多分香辛料のせいだから」

「そうなのか? 僕の繊細な舌には刺激が強すぎるよ。それにこれ固すぎるぞ。顎が疲れる」

「そんな立派な牙があるくせに、なにおじいちゃんみたいなこと言ってるんだよ」

「誰がおじいちゃんだ! とにかくこんな粗野なもの、僕の口には合わない」


 吸血鬼はそう言って干し肉の入った袋の口を閉じ、さっさとポケットに入れてしまった。数百年ぶりの人間の食事は、吸血鬼にとって良いものとは言えなかったようだ。

 血液など流動食のようなもの。数百年間ろくに固形物を食べず過ごしてきた吸血鬼に干し肉は難易度が高すぎたのかもしれない。


「やはり冒険者の食料など食べるべきじゃないな。口直しといこう」


 いつの間に用意していたのか。干し肉の代わりとばかりに吸血鬼が取り出したのは血液で満たされたボトルとグラスである。慣れた手つきでボトルの栓を開け、トロリとした赤黒い液体をグラスに注ぐ。

 彼はいつものように悠然とグラスを傾けて血液を口に含み、そして勢い良く霧状の血液を噴き出した。

 

「うわっ!? 汚いな!」


 俺の透明な体を通過していく赤い飛沫に思わず顔を顰める。

 吸血鬼はゴホゴホと咽こみながら見開いた目を被害者である俺ではなく血液で満たされたグラスに向けた。


「マッズイ!! なんだこの纏わりつくような生臭さは!」

「そりゃあ人間が人間の血なんか飲んだらそうなるんじゃないの」

「うう……八方塞がりだ。これじゃあ何も食べられないじゃないか」

「しばらくジッとしてお腹空かないようにしていた方が賢明なんじゃない?」

「そうだな、もう人間体験は十分だ。なんだか酷く疲れたし大人しく休んでるよ」


 好奇心を疲れと痛みが上回ったのだろう。吸血鬼は珍しく俺の忠告を素直に受け入れ、ふらふらと歩きだした。

 だが吸血鬼が忠告を受け入れたとしても、自室で大人しく休めるとは限らない。

 通路を歩く吸血鬼の前に、ゾンビちゃんが現れたのである。


「用なら後にしてくれ、疲れてるんだ」


 吸血鬼はこちらを見つめるゾンビちゃんを一蹴し、彼女を避けて先へ進む。

 だがゾンビちゃんは足早に歩く吸血鬼の背中にピッタリくっつき、何も言わず吸血鬼の後頭部をじーっと見つめている。かと思うと、次は吸血鬼の背中を指でつつき始めた。

 ゾンビちゃんを無視して進んでいた吸血鬼もさすがに我慢しきれなくなったらしい。足を止め、勢い良く振り返って険しい顔をゾンビちゃんに向ける。


「鬱陶しいな、なんだ一体!」

「オイシイ?」

「は?」


 怪訝な表情を浮かべる吸血鬼の手を取り、ゾンビちゃんは彼の指に素早く齧り付く。

 短い悲鳴を上げながら手を引っ込めたものの、吸血鬼の中指は彼の手を離れ、ゾンビちゃんの口の中で骨ごと噛み砕かれてしまった。


「な、なにするんだ!?」


 吸血鬼は血の滴る指を庇うように押さえ、怒りと驚きと苦痛の入り混じった複雑な表情でゾンビちゃんを見下ろす。

 ゾンビちゃんは吸血鬼の指を咀嚼しながら、血に濡れた唇をペロリと舐めた。


「ンー、マズくはナイ!」

「そうか、今はほとんど人間だから……逃げろ吸血鬼!」


 俺の言葉とほぼ同時に吸血鬼は地面を蹴り、弾かれたように通路を駆け出した。


「痛い痛いッ……なんでこんなに痛いんだ」


 走りながらも吸血鬼はゾンビちゃんに噛まれて先の無くなった指をしきりに気にしている。出血はなかなか止まらず、来た道を記すかのように地面に赤い雫が続いていた。


「普段はすぐに回復を始めるけど、今はそう簡単に治らないからね」

「クソッ、なんて不便な体だ。足も体も重いし、冒険者達(あいつら)はいつもこんな体で戦っていたのか。呆れを通り越して感心するよ」

「感心してる場合でもないんじゃないかなぁ」

「待テ待テー!」


 後方から押し寄せる悪鬼のような笑い声。

 恐る恐る振り向くと、嗜虐心と食欲にギラギラと輝く二つの目がすぐそこにまで迫っていた。


「ひいっ!?」


 吸血鬼は小さく悲鳴を上げ、ゾンビちゃんから逃れるべく必死に地面を蹴る。だがゾンビちゃんとの距離はなかなか広がっていかず、吸血鬼の息はどんどん上がっていく。

 いつもならば吸血鬼がゾンビちゃんを撒くことなど容易いが、今は違う。力を失ったか弱い吸血鬼が彼女に捕まれば、なすすべもなく生きたまま食われることだろう。


「クソッ、追いつかれる!」

「落ち着いて吸血鬼。こんな時こそ人間たちを見習わなきゃ」

「ど、どういう意味だ」

「戦うか、もしくはダンジョン外まで逃げるんだよ!」

「……よ、よし。分かった」


 吸血鬼は通路を歩いていたスケルトンの腰からすれ違いざまに剣を引き抜き、素早くゾンビちゃんと向き合う。そして剣を構えつつ、射抜くような鋭い眼光を彼女に向けた。


「たとえ力を失っても小娘ごとき僕の敵ではない!」


 吸血鬼は剣を大きく振り上げ、そして力いっぱいにゾンビちゃんに振り下ろす。だがゾンビちゃんは吸血鬼渾身の一撃を軽々受け止め、その刃を片手でへし折った。


「あっ……」


 折れた剣を見つめ、呆然と立ち尽くす吸血鬼。そして愛用の剣を奪われた挙句目の前でへし折られ、口を大きく開いたままピクリとも動かないスケルトン。

 数秒間の気まずい沈黙の後、吸血鬼はゾンビちゃんとスケルトンに背を向け、その手に剣を持ったまま再び弾かれたように走り出した。


「なんだこの剣は。重いし、脆すぎるだろう!」


 吸血鬼は迫るゾンビちゃんを気にしつつ、折れた剣に向かって悪態をつく。

 この剣の持ち主であるスケルトンが吸血鬼の言葉を聞いていないことに胸をなでおろしながら、俺はため息をついた。


「剣が重いのは当たり前でしょ! 今の非力な吸血鬼があんな大振りな攻撃したって当たるはずないよ」

「知るかそんなの! もっと早く言え!」

「ああもう、やっぱ戦うのナシ! 吸血鬼に人間の戦い方は無理だよ」

「じゃあどうすれば良いんだ!?」

「……仕方ない。吸血鬼に人類の叡智が生み出した、古来より伝わる『バケモノからの逃走術』を伝授するよ」

「おお、良く分からないがなんか凄そうだな。頼むぞレイス!」


 吸血鬼は瞳に希望の光を宿らせながらも、その白い顔に汗を浮かべながらゼェゼェと苦しそうに肩を上下させている。

 弱い姿を見せたくないと意地を張っているのか表情だけは涼しげだが、本当は喋るのもやっとなはず。これが成功しなければ八つ裂きにされてゾンビちゃんの腹に収まる未来は回避できないだろう。

 俺は背筋を伸ばし、ゆっくり落ち着いて吸血鬼に指示を出す。


「まずは……そうだな、なにか食べ物持ってる?」

「さっきの干し肉が」

「できるだけ細かくちぎって、後方に投げつけて」


 俺の指示に従い、吸血鬼は袋から取り出した干し肉を細かく千切り、まるで紙吹雪でも飛ばすかのように迫りくるゾンビちゃんに投げつける。

 すると髪を振り乱しながら一心不乱に吸血鬼を追跡していたゾンビちゃんが、不意にその足を止めた。そして地面に膝をついたかと思うと、散らばった干し肉の欠片を夢中になって頬張り始める。


「おお、足止め成功だ!」


 すぐそこまで追い詰めた吸血鬼と散らばった干し肉の欠片のどちらをゾンビちゃんが優先するか、正直賭けだったがどうやら上手く行ったようだ。

 吸血鬼の歓声に俺は思い切り胸を張る。


「これぞ黄泉比良坂逃走術だよ。俺はこの手法で獰猛なハルピュイアの群れからも逃げ果せ――」

「ありがたいお話の最中に申し訳ないが、化物がおかわりをご所望のようだぞ!」


 吸血鬼の切迫した声に慌てて後ろを振り向くと、すでにゾンビちゃんが餓えた獣のごとき二つの眼をこちらに向けて走り始めていた。


「早ッ!? もう食べたのか……ええと、肉は?」

「あれで全部だ!」

「仕方ない。無いなら作らないと。剣はあるよね」


 護身用のつもりか、スケルトンの折れた剣を吸血鬼は未だ大事そうに携えていた。

 吸血鬼は手に持った剣に視線をやりながら怪訝な表情を浮かべる。


「ネズミでも狩るのか? だがそんな余裕は」

「違う違う。吸血鬼のだよ」

「……は?」


 吸血鬼の表情がにわかに曇り始める。

 だが、今はこの方法しかないのだ。


「腕とか指とか、逃げるのに不必要な部分をちょろっと切り取るだけだからさ」

「ふざけるな! 自分の体を餌にするやつがあるか!」


 吸血鬼はとんでもないとばかりに目を見開き、激しく首を振る。だが幸いにも先ほどゾンビちゃんにやられた中指の出血は止まっているし、あと一、二本指を切ったとしても逃走に支障はでるまい。なにより彼はアンデッドだ。


「大丈夫、また生えてくるんだし。指や腕を食べられるのと全部食べられるの、マシな方を選ぶと良いよ。どうする?」

「……ああもう! 分かったよ!」


 吸血鬼はヤケ気味に声を上げ、そしてひと思いに左手人差し指に刃を当てる。良く手入れされたスケルトンの剣は、吸血鬼の指を滑るように切断した。

 苦痛と怨嗟の叫びを上げながら、吸血鬼は切り取った指をさらに輪切りにして再び後方にばら撒く。

 ゾンビちゃんも先ほどと同じように地面に膝をついて血の滴る肉片を拾い、口に放り込んだ。


「――――」


 今なんと言ったのだろう。ゾンビちゃんの唇がなにかを呟いたように見えたが、吸血鬼の絶叫に掻き消されて俺の耳には届かない。

 ゾンビちゃんが肉を回収し終えるより早く俺たちは曲がり角を曲がり、ゾンビちゃんの姿は見えなくなった。

 人間の体にも慣れたのか、それとも火事場の馬鹿力を発揮したのか、吸血鬼の走る速度もだんだんと早くなってきている。入り組んだ迷路をジグザグに進んだこともあってか、もはや後方からゾンビちゃんの足音は聞こえてこない。

 そして長い逃走の果てに、俺たちはとうとうダンジョンの入り口へとたどり着いたのだった。

 西日が差し込むダンジョン入り口で、吸血鬼は大きくため息をつく。


「……疲れた。人間の体なんてもうこりごりだ」


 吸血鬼は赤い陽の光を体に受けながら、崩れ落ちるようにその場に座り込む。

 額の汗を拭うその手は乾いた血で赤く染まっていたが、出血そのものは止まっているようだ。

 ……いや、それだけじゃない。よくよく見れば彼の指の断面は塞がりかけ、すでに指の再生が始まっているようだった。


「ああ、走ったせいで日焼けしたとこが擦れたかな。体がヒリヒリする……」


 吸血鬼はそう言いながら首元に手を当て、苦痛に歪んだ顔を上げる。

 彼の顔を見たその瞬間、胸の中に燻っていた不安がよりハッキリとしたものへと変わっていくのを感じた。俺は恐る恐る吸血鬼の顔を指差し、ゆっくり声を上げる。


「吸血鬼……目が……」


 まるで泉の底から血が湧き出るように、吸血鬼の瞳が赤く染まっていく。それは決して西日の赤い光のせいなどではなかった。

 彼に起こった異変はそれだけに留まらない。頬には仮面が割れたようなヒビが入り、指からはサラサラと細かな灰色の砂のようなものが零れ落ちている。

 いや、違う。指から砂が落ちているのではなく、指が崩れ落ちて砂となっているのだ。


「あ……れ……?」


 自身の崩れ落ちる指に首を傾げたその瞬間、吸血鬼は乾いた泥人形が崩れるように灰の山へと姿を変えた。

 せっかくゾンビちゃんから逃げ切れたというのに、なんとタイミングの悪いことだろう。よりによって今、吸血鬼は「吸血鬼」としての力を完全に取り戻したのだ。そしてその代償として背負わされた弱点により、吸血鬼はその体を灰へと変えたのである。

 俺は深いため息を吐き、こちらの様子をうかがっていたスケルトンたちに呼びかけた。


「スケルトン、箒とちりとりお願い。それからDanzonで『吸血鬼復活セット』注文しといて。お急ぎ便でね」


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