悪魔の囁き
悪魔になって幾万年かが過ぎた頃、僕は奇妙な声を聞いた。
『そろそろ生きるに飽いたか?』
とても懐かしい声が、僕にそう問いかけて来たのだ。
其れはきっと恐らく、あの人が僕に遺したお節介だろう。
僕が其れを鼻で笑える様なら、まだまだきっと大丈夫。
けれども少し焦った様に否定するなら、きっと色々と疲れてて、其の事を自覚させてくれたはず。
もしも答えられない様なら、もう少し踏ん張る方法を模索するか、或いは緩やかに終わりへ向かって行く。
きっとお節介な此の声は、優しい終わり方も用意してくれてる。
でもねって、僕はあの人に言いたかった。
今の僕は其のどれでも無いのだ。
悪魔、天使、神性等を不滅存在とは呼ぶけれど、実際の所は本当に不滅な訳じゃない。
魔界や天界に乗り込んで本体を消せば、悪魔や天使は滅びるし、神性は魔法さえ使えれば殺す事は割と容易だ。
僕は今までに悪魔も天使も神性も、其れなりの数を滅ぼしている。
一方、不滅存在以外は魂が輪廻し、転生するけれど、其れだって永遠の物じゃない。
悪魔や天使の糧となって消える魂もあれば、幾度も転生を繰り返した果てに何時しかどこかに消えてしまう魂だってあった。
けれども魂達の数が目に見えて減少するって事は無いので、多分どうやってか新しい魂は生まれて来ているのだろう。
世界もまた同じくである。
其れはとてつもなく強固な存在だが、数百億年、数千億年、兆や京、……那由多の果てには終わらぬ世界はない。
僕が存在してる年数は、世界に比べればほんの瞬きの間の様な物だけど、其れでもその間に数多くの世界を見た。
生まれたばかりの世界も、著しく発展して行く世界も、停滞した世界も、繰り返す世界も、そして滅び行く世界も。
結局の所は何が言いたいのかと言えば、全てに終わりはやって来るし、変わらない物は何も無いって事だ。
僕だって、終わりを見過ぎれば少しずつ擦り切れて行く。
其れを埋め合わせてくれる物も手に入るけど、何時かは滅び去るだろう。
僕が思うに、悪魔の寿命とは欲求の深さで決まる。
例えばグラーゼンは、長く生き、今も成長を続ける悪魔王だ。
彼の異名は『強欲の王』。
二つ名に爵位を冠する悪魔王は数居れど、王位を冠する悪魔王は片手で数えられる。
その中でも最も欲深く、何かを求め続けるグラーゼンは、其れが故に誰よりも強い力を誇った。
同時に気も長い為、ガツガツとした様子は中々見せないけれども、友人として長い時を過ごした僕から見れば、彼ほど欲深い悪魔は他に居ない。
欲が深いからこそ求め続け、終わりに心惹かれず、在り続ける強さを持つ。
逆に、王位を冠する悪魔王には『静寂の王』と呼ばれる者が居る。
誰にも関わらず、配下も全て眠りに付いて、静かに微睡む強大な悪魔。
けれども誰にも関わらぬ其の悪魔王は、もう皆の記憶から消えつつあった。
僕だって『暴虐の王』なんて呼ばれる事にならなかったら、静寂の存在を知る機会は無かっただろう。
そして忘れられ、知られぬままに、静寂の王は何時しか其の名の通りに静かに消えて行く。
では僕はどうだろうか?
あの人は、僕の欲は数万年程で尽きると見積もって声を遺した。
まあ単純に彼の好きな数字だっただけな可能性もあるけれど、何方にせよ僕は、元人間としては破格の長さを在り続けてる。
欲が尽きていてもおかしくはない。
ああ、否、確かにそうだ。
だって悪魔の寿命が欲だって理解出来るのは、欲が尽き掛けた悪魔だろうから。
今、僕の配下はかなり数が多くなった。
全ての配下は僕が直接生み出してるから、顔も知らない悪魔なんてのは一人も居ないが、直属以外は滅多に会わない者も多い。
魔界に住む人間の場合は、顔を見る機会もないままに世代交代してる事だってある。
森や山の幻獣や海の生き物達に関しても同様で、エリアの管理者位はわかるが、細かい所までは僕の目が直接届く訳じゃなくなった。
……多分だが僕の手の上は、もう既に一杯なのだろう。
指の隙間から知らないうちに色んなものが零れ落ちて行く。
多くの終わりを見届けて、持てる荷物も一杯で、確かに僕は疲れて、欲も尽きている。
確かに僕はグラーゼンに比べたらずっと欲の浅い、元人間の悪魔だ。
変わり者の悪魔だとは散々に言われて来た。
でもだからこそ、僕はあの人に言いたい。
「でもね、僕の、悪魔王レプトの寿命は欲だけじゃ無くてもう一つあるんだよ」
……と。
配下が増えて、悪魔軍の規模が大きくなるにつれ、僕自身が召喚に応じれる機会は少しずつ減って行く。
同盟悪魔王との会議や、配下が持ち帰る報告から各世界の状況、天使や他の悪魔勢力の動きを把握。
僕でなければ判断の出来ない案件は凄く増えたから、魔界を出られない。
気軽に自分を分割するって訳にも行かなくなった。
しかしそんな状況でも、僕が多少の欲求不満を覚えながらも魔界で動くのは、先ず第一にヴィラの存在があるから。
膨れ上がった悪魔の管理を一手に担う彼女の負担は、恐らく僕の比ではなかった。
と言うより、ヴィラが居なかったらそもそもこんなに強い勢力にはなれなかった筈だ。
献身的に支えてくれる彼女の前で、どうして背負った荷物が重いだなんて思えるだろうか。
罰を望んだAIを、其のままで終わらせてなるモノかと悪魔に変えたのは僕である。
勿論、ヴィラだけじゃない。
ベラも、ピスカも、アニスも、グレイも、イリスも、他の配下達も、皆僕が悪魔に変えた。
自分から望んだ者が殆どだけれど、それでも僕は彼等の親だ。
相棒だったり、友だったり、恋人だったり、その他の関係を兼ねたとしても、皆が僕の家族である。
責任も確かに感じはするけれど、もっと良い言い方をするならば、そう、繋がりだろう。
悪魔王レプトのもう一つの寿命とは、『繋がり』であり『情』だった。
友情や慕情、愛情など、言い方は様々だけれど、僕は彼等に心を向けてる。
彼等こそが僕の欲した物だから。
僕は彼等に必要とされる限りは、決して消えはしない。
けれども其れでも、魔界からあまり出なくなった僕には、もう以前の様に誰かと関わる物語を紡ぐ事が出来ないのは、唯一つの心残りだった。
しかし、それから暫く経ったある日、僕は誰かの呼ぶ声を聞く。
召喚ではない。
召喚ではないのだけれど、切実に、その声は僕を呼んでいた。
弱々しく、なのに狂おしく。
両隣を見れば、ヴィラと、最近は僕の補佐をしてくれる様になったグレイが頷いた。
行って来いと、彼等はそう言っているのだ。
だから僕は立ち上がり、己の力で世界を越える。
辿り着居た場所は消毒薬の匂いに満ちた、一人用の病室。
彼女は病室のベッドの上で、呼吸を補助する為のチューブが喉奥に差し込まれているから、声には出さずに呟く。
『死にたくないなぁ……』
そんな風に。
でも声にならなかったとしても、悪魔は其れに込められた意思を聞き取れる。
だから僕は彼女に問う。
「こんにちは、声が聞こえたから寄ってみたんだけど、どうして君は死にたくないのか聞かせてくれる?」
以前、あの人が僕に問うた様に。
驚きに目を見開く彼女だったが、誰かと話すのも久しぶりだったのだろう。
もごもごと口を動かし、声にならない声を発する。
無かった事になりたくないのだと。
彼女、櫻子は父子家庭に育ったらしい。
母は彼女が幼い頃に亡くなったそうだ。
父は悲しみにくれたが、櫻子を懸命に育ててくれた。
しかし不幸は一度ならず二度訪れる。
櫻子が高校に入学した夏、彼女は病を発症してしまう。
母と同じ病気、遺伝性の死に至る病だ。
最初の一年、父は仕事で忙しい合間を縫って、櫻子の見舞いに訪れてくれていた。
けれども徐々に弱って行く櫻子に、母と同じ結末を見たのだろう。
やがてその足は途絶えてしまった。
責任感を支えにして、必死に櫻子を育てて来た父は、その死を見届ける事を拒絶したのだ。
元々、決して心の強い人間ではなかったから、仕方の無い事ではある。
でもそれでも櫻子を見ないまま、再婚を決めた父に、彼女は強い悲しみを覚えた。
責めても仕方ない。病気になった自分が悪い。
そう自分に言い聞かせてみても悲しみは消えず。
ただ、無くなってしまいたくないと、その想いばかりが強まった。
あぁ、まるでどこかで聞いた様な、懐かしい話である。
ならば僕の言うべき事は一つ。
「生きる道はあるよ。君は幸運だ。僕が此処に居るからね。ただし其れは、人間としてじゃあないし、対価に僕の願いを一つ聞いて貰う必要もある」
嘗てあの人は自分の終わりを望んだけど、僕の願いは違う。
生きれるとの言葉に、此方を見る櫻子の瞳に輝きが宿る。
そうなるのは知っていた。
どんな道であれ生き延びたいと願い、藁にも縋るだろうと、僕に分からぬ筈が無い。
僕は此れから櫻子を悪魔にするだろう。
けれども其れは、彼女を配下に加えるって意味ではなかった。
悪魔になる事を了承した櫻子に、僕は自分の片目を抉り出す。
同時にほんの少し、魔界の一部を割って、其の片目に付随させる。
「君は此れから悪魔として生きる。そして此れが最初の契約だ。僕は君を悪魔に変えて、君はその代わりに悪魔として紡ぐ物語を、僕に魅せて欲しい」
微かに頷き、ぎゅっと目を閉じた櫻子の額に、僕は片目を押し付けた。
彼女は小さな魔界を持つ、悪魔王の候補にして、人型の、額にもう一つの目を持つ下級悪魔となるだろう。
勿論最初は保護もするし、多少の援助も行うが、僕の配下じゃ意味がない。
櫻子、否、生まれ変わった彼女が、自分で考えて歩んで紡ぐ物語にこそ、僕は興味を持っているのだ。
僕は彼女を険しい道に突き落としたのかも知れないが、悪魔との契約とは元々そう言う物である。
彼女は此れから、善き人と出会い、悪しき人と出会い、色んな契約を結んで行く。
僕がそうだった様に、或いは、僕が経験もしなかった契約すら結ぶだろう。
……だから、僕が語る物語は此れで終わりだ。
此れからは僕も観客として、彼女の物語を楽しもうと、そんな風に思ってる。
きっと彼女は僕を楽しませてくれるだろう。
何せ僕はとびきり運が良いのだ。そんな僕が選んだ彼女がハズレな筈は無い。
何時かまた、僕が自分の物語を紡ぎたくて堪らなくなる其の時まで。