136 魂の最期の場所
この冥府の最下層にある『冷たき魂の湖』とは、砂の様に積もった行き場もない魂達の上に、冥府を流れた水が注がれて溜まった場所だ。
本当に美しい静謐な湖で、魂達はその底でゆっくりと溶けて行く。
そこには苦痛なんて存在しない。
何せ苦痛どころか、喪失感や虚無感すら、既に湖に溶け出してしまっているのだから。
静かで穏やかで、少し寂しい、魂の最期の場所。
勿論同じ境遇の魂は周囲に無数にあるけれど、溶け行く魂達には最早それすら感じ取れまい。
この光景を前すれば、最もこの場所に縁遠い存在であろう悪魔の僕でさえ、終わりを意識せずには居られなかった。
終わりを拒絶して足掻き、運良く悪魔に成った僕。
それが正しい事だとは到底言えないが、それでも同じ状況になれば、例え百度だって僕は同じ選択をするだろう。
なのに目の前にある美しい湖は、そんな僕にすら自分を酷く無粋に感じさせて、……僕は思わず口をへの字に曲げる。
でも、それでも僕が曲げるのは口だけだ。
僕自身は曲がらない。
この湖の前でだって、僕は選択を迫られたなら、やっぱり百度だって全てに同じ選択をするだろう。
まぁさて置き、僕は確かにこの場にそぐわない無粋な異物だが、けれども『冷たき魂の湖』にはもう一人、僕と同じく、或いは僕以上に無粋な異物が存在した。
「そろそろ宜しいですか。暴虐の王、レプト」
そんな風に声を掛けて来る、これと言って特徴のない一人の男。
あぁ、全く、本当に、無粋も無粋だ。
自分だって場違いだってわかってる癖に、僕が場違いだってわかってる癖に、こんな場所に呼び出して。
せめてもう少し位待てないのだろうか。
けれど、声を掛けられてしまっては、無視をする訳にも行かない。
僕は口をへの字に曲げたままにそちらに、『虚飾の鏡』アウルザル、……より正確にはその分割されて残った一部に向き直る。
「あぁ、漸く拝謁の栄誉に浴する事が叶いました。かの強欲の王に並び立つ御方よ」
呼び出しておいてその物言いは、慇懃ではなく慇懃無礼と言うのだが、でもまあ目くじらを立てる程の事じゃない。
僕の属する同盟は彼の本体であったアウルザルを敵対して滅ぼしたのだし、その残滓が今更どんな態度を取ろうが、無礼も何もあった物ではないだろう。
「クシュラトリアが出迎える様に仕向けて良かった。彼女なら、その愚かさ故に貴方に嫌がらせをするだろう事はわかってましたし、暴虐の王は女性に甘いとも聞き及んでいましたから」
どうやら僕を単独でここにやって来させる為の小細工が、クシュラトリアだったらしい。
彼女は何も知らないままに、アウルザルの思う通りに動いたのだろうが、愚か呼ばわりは少し哀れに思う。
ただ、そう、クシュラトリアは神性としては経験の浅い子供の様な物だ。
経験が浅いから実力差を理解出来なかったし、自分より格上が目の前に居るかも知れないと想像も出来なかった。
悪魔を過度に嫌うのも未熟さ故の潔癖で、多分冥府の外に関しての知識もあまりないのだろう。
そんな未熟さを利用しておいて愚かと呼ぶのは……、否定はしないが、あまり好きな物言いじゃない。
尤もそれも、アウルザルに言わせれば僕が女性に甘いから出る言葉なのかも知れないが。
さてあまり楽しい気分じゃないけれど、それでも言うべき事は言わねばならなかった。
僕は曲げていた口を元に戻すと、
「御機嫌ようアウルザル。僕も会えて嬉しいよ。君の最終的な目的は未だ不明だけれど、僕を呼んでしたかった事はわかってる。でも多分無駄だと思うから、諦めて捕まる気はないかな? 出来るだけ悪い様にはしないよ」
そう告げる。
僕の言葉に嘘は何一つ混ぜてはいない。
探していた相手に会えたのは嬉しいし、結局アウルザルが何をしたくて力を求めていたのかは不明だ。
強さを求める事に理由なんてないのかも知れないが、僕が思うにアウルザルならあんな風に裏の手ばかりに走らずとも、もっと上を目指せた様に思う。
アウルザル自身がどう思っていたかは兎も角として、僕はその位に彼を脅威に考えていたし、評価もしていた。
ましてやこの場所で無為に散らすのは惜しいとさえ、思ってる。
でもアウルザルは、僕のそんな考えを理解したからこそ、視線に怒りを宿して首を横に振った。
「甘い、甘い、甘い。暴虐の王よ。どうしてそんなに甘いのに、貴方は王となれたのだ。なぜ貴方が、あの方と並び立てるのだ! 憎い。妬ましい。あぁ、私は、例え命を賭してでも、貴方になりたい」
それは宣戦布告にして、呪い。
そう、アウルザルが僕をこの場所に呼び出した目的は、僕に成り代わる事である。
アウルザルの正体は、『虚飾の鏡』との称号通りに、相手を映し出す鏡だ。
今のあまり特徴がない男の姿も、恐らくは誰かから写し取った物だろう。
写し取った相手は、まぁ多分生きてはいまい。
「僕になりたい……か。まるでドッペルゲンガーだね。でも今の君に、僕を写し取れる力はあるの?」
ドッペルゲンガーとは、姿を写し取った相手を殺し、成り代わる魔物。
今のアウルザルは正にそれだった。
恐らくだけれど、写し取る鏡であるアウルザルは、何時か何処かで出会ったグラーゼンの輝きに魅せられ、けれどもそのあまりに強い輝き故に目を逸らしてしまったのだろう。
だからこそ、アウルザルは少しでも早く力を付けてグラーゼンから目を逸らさずに見れる様になろうと、色んな無茶を躊躇わなかった。
だからこそ、グラーゼンと並び立つとされる王の称号を持つ僕を、アウルザルは嫉んだ。
「なれるとも! その為のこの場所だ!」
出会った当初の落ち着きはどこへやら、まるで咆哮の様に叫ぶアウルザル。
成る程、だったらもう、口で言っても止まるまい。
好きな様にやらせるとしよう。
勿論、今の段階でアウルザルの行動を阻害し、仕留める事は簡単だ。
例え冥府の底であっても強力な悪魔王の僕と、残滓でしかない今の彼の差はあまりに大きい。
だがそれ故に、今の段階でアウルザルを屠る事は、戦いでも何でもなく単なる処分となるだろう。
それはあまりに惜しかった。
今アウルザルは、命懸けで道理を退けて不可能を可能に変えようとしている。
割れた鏡の破片でしかない今のアウルザルが僕を写し取ろうとするのは、手鏡の中に大陸を映し収めようとするも同然だ。
大きさが圧倒的に足りて居ない。
ならば一体アウルザルはどうやって、その大きさの不足を埋めるのか。
僕は彼の足掻きを見届けたかった。
だってこれは彼の最期の輝きだから。