135 悪魔を嫌う、冥府の女神
事の起こりは、少し前に僕に従属した悪魔王、『貪欲なる偏執』グロルダ・ポルルガを通して僕に招待状が届いた事だ。
「間違いなく罠ですが、それでもこれをお渡しする事が吾輩の役割だと愚考いたしましてな」
そんな風に言ってグロルダはそれを差し出した。
一通り目を通してから、読んだのかと問えば、グロルダは当然とばかりに首を横に振る。
成る程、どうやらグロルダは、この件に関わりたくはないらしい。
仮に読んでいたなら、僕は意見を問うただろう。
グロルダならば、僕と違った視点でこの招待状の意味を読み取ったかも知れないから。
でもそれはあまりグロルダにとって嬉しい事ではない様だ。
まぁ確かに、罠だと忠告してこれを渡した事で、グロルダは最低限の仕事と義理は果たしてる。
僕はそれを褒めこそすれ、責める様な真似はしない。
「そう、まぁ良いよ。良くこれを届けてくれた。もしこれが罠で僕が討ち取られたら、君は元の鞘に納まると良い。そうならなければ、今のままで良いね? どちらにしても君に損はない」
だから僕が敢えてそう口にすれば、グロルダは沈黙して胸に手を当て、深々と頭を下げて一礼した。
そう、元の鞘と称した様に、招待状の送り主はグロルダが以前に従属していた『虚飾の鏡』アウルザル、……正確にはその分割されて生き残った一部からだった。
『話がしたい。黒き墓石の下、冷たき魂の湖で、貴方を待つ』
文章から飾り気を取っ払って要約すると、こんな内容になる。
まるで恋文の様だとも、思う。
尤も僕が人間だった頃、恋文なんて貰った経験は、……あんまり覚えてないけれど、多分なかったような気がするけれども。
黒き墓石の下、冷たき魂の湖が冥府、冥界の類を示す言葉である事は、少し考えればすぐにわかった。
他の悪魔王に注目されず、また僕が配下の悪魔を送り込んでアウルザルの抹殺も行い難い。
そんな都合の良い場所は限られている。
だが冥府、冥界ならば多くの悪魔は目も向けたがらないし、力で攻め落とすにも不向きな場所だ。
僕や、或いはグラーゼンの悪魔軍ならやってやれない事はないだろうが、予測される損害はかなり大きいし、魂の安息、終着の地に攻め入ると言う悪評は後々にまで響く。
故に隠れ潜み、僕とだけ話したいと言うのなら、冥府、冥界は最も適した場所の一つと言えた。
勿論、悪魔であるアウルザルを受け入れて匿う様な冥府、冥界があるならばの話だが。
……さて、けれども問題となるのは、アウルザルが冥府、冥界に居るとして、一体どの冥府、どの冥界に居るのかだ。
ヒントとなるのは、『黒き墓石の下』と『冷たき魂の湖』。
この二つの単語だろう。
単に冥府、冥界を示唆するだけなら、単に墓の下で良い。
それをわざわざ黒き墓石の下と書くならば、黒と石に場所を特定する意味がある。
また冷たき魂の湖とは、恐らくもう転生出来ない魂がゆっくりと消えゆく最下層であろうが、魂が終着を迎える場所の特徴は、やはり冥府、冥界によって様々だ。
つまり多分、闇の中に石造りの建造物、住居や神殿が並び、冷たい水の流れて最下層に湖のある冥府、冥界を探せば良かった。
いやまぁそれでも候補となる冥府や冥界は多そうだが、アウルザルの過去の活動範囲を調べて行けば、絞り込みは可能だろう。
何せ僕の魔界には、その手の作業に滅法強い高位悪魔、元AIのヴィラが居る。
但しヴィラの存在まで調べた上で、敢えてアウルザルが場所の指定をぼかしたのだとすれば、仕掛けられている罠はもしかすると、とても厄介な物かも知れない。
そうして僕は、今こうして件の冥府の地を歩んでる。
勿論僕には、このあからさまな罠、誘いを黙殺する選択肢もあった。
と言うよりも、冷静に考えれば黙殺するのが正解だろう。
しかし残念ながらアウルザルが予測した通りに、この手の誘いには充分な準備をした上でとは言え、敢えて乗るのが僕のやり方であった。
誘いを無視してアウルザルを自由に動き回らせたなら、最終的には押し潰せるにしても、配下の悪魔に被害が出る可能性は高い。
その位には、一度滅ぼされた悪魔王とは言え、僕はアウルザルを評価している。
冥府に隠れ潜む件にしたって、他の悪魔では到底成し得ないし、それどころか思い付きもしないだろう。
だからこそ自分が動いてケリが付くのなら、それが僕にとっての最善だ。
まぁ尤も、アウルザルの狙いは幾つか想像が出来る。
仮に単に僕を倒した所で、同盟に集う悪魔王達や、何よりもグラーゼンとの敵対関係は解除されない。
故に追い詰められたアウルザルの狙いは、単純に僕を殺す事じゃなくて……。
そんな風に物思いに耽っていると、何時しか僕の足は長い螺旋階段を下り終り、硬い石の床を歩んでた。
気配にふと視線を上げれば、一人の女性、感じる気配から察するに冥界の管理者である神性が目の前に居る。
薄絹を肩に纏っただけの、青白い肌をした女。
この手の存在の多くがそうである様に、彼女もまた非常に美しい。
……いや、美し過ぎると言った方が良いだろうか。
一部の隙も存在しない、作り物以上に整った、精緻過ぎる顔立ちに身体つき。
そんな女が肌の大半を晒した格好をしていれば、並の男ならば視線を外せなくなるだろう。
或いは目が潰れてしまってそもそも見えなくなる可能性もあるけれど。
でも僕が彼女に感じるのは、欲情ではなく寒気であった。
肌が泡立つほどに鋭い敵意を、彼女は僕に向けて放ってる。
出会ったばかりで決め付けるのもなんだが、どうやら仲良くなるのはとても難しそうだ。
けれど幾ら相手が非友好的だからと言って、まずは名乗り、話さなければ何も始まりはしないだろう。
「御機嫌よう、美しい冥府の神性。僕は悪魔のレプト。用件は先ぶれが伝えてると思うけれど、以前の戦いで僕等が滅ぼした悪魔王『虚飾の鏡』アウルザルの残滓の捕縛だ」
だから僕は両手を広げて敵意がない事を示しながら、名乗り、来訪の用件を告げる。
すると彼女は小さな溜息を一つ吐き、僕への敵意を僅かに緩めた。
「良かろう。魂を貪る悪魔とは言え、超越者に至った者の名乗り。返さぬでは礼を失する。特別に妾の名を教えてやろう。冥八神が一柱、クシュラトリア。冥府の土産にその記憶に記せ」
しかし口から出た言葉は、棘を含んだ物であり、また実に高圧的だ。
やっぱり仲良くなるのは難しそうである。
まぁ仕方ないだろう。
今回の目的は冥府の神性と仲良くなる事じゃなくて、アウルザルの捕縛だ。
尤も捕縛じゃなくて消滅になるかも知れないし、或いは話し合いの結果では別の形になるかも知れないが。
それにしても、彼女、クシュラトリアの名乗りで貴重な情報が二つ手に入った。
一つ目は、この冥界には管理者が複数、恐らくはクシュラトリアを含めて八柱は居るであろう事。
とは言え八柱と言う数は確定じゃない。
冥八神に対応する他の八神が存在する可能性もあるし、冥八神が既に幾柱か欠けてる場合だって充分にあり得た。
ただやはり、クシュラトリアの言う冥八神こそが冥府の管理者の全てである可能性は高いから、彼女と同程度の神性が八柱居ると仮定した場合、力攻めをした際に出る損害の計算が可能になる。
次に二つ目は、冥八神の全てがそうとは限らないが、少なくともクシュラトリアはアウルザルの味方ではないだろうと言う事。
僕の来訪目的を告げた時、彼女は既に知ってた筈にも拘らず、僅かに喜びの色を表情に滲ませた。
あの表情は嘘では出せない。
多分クシュラトリアは本当に単純に悪魔が嫌いで、悪魔同士が潰し合って冥府から消えてくれる事が嬉しかったのだろう。
出会った時からの不機嫌の理由も、アウルザルが冥府に滞在し続けているからだとの推察も出来る。
そこまで悪魔が嫌われてる事に関しては、こう、あまり良い気分ではないけれど、必要以上に積極的な敵対者が増えないのは有り難い。
但しそれは、彼女が僕にとって不利益な行動を取らないかどうかとは、また少し別の話だった。
「善し、では彼奴の待つ最奥までは、妾の力で送ろうぞ。何、礼は要らぬ。悪魔が必要以上に我が領域を彷徨くのが気に食わぬだけ故な」
唇の端をキュッと吊り上げて笑うクシュラトリアの言葉と同時に、僕の足元だけに穴が開く。
優秀な護衛であるベラがその動きに後れを取ったのは、クシュラトリアに悪意はあっても、害意や殺意がなかったからか。
或いは元は冥府の生き物とは言え、既に悪魔となったベラも、やはりこの地の環境にその力を抑えられたからか。
「ベラッ!」
慌てて僕の転移を阻害しようと、クシュラトリアに飛び掛かろうとするベラを僕は声で制し、素直にその身を委ねる。
本気で抵抗する心算なら、まぁそれも出来なくはないだろう。
しかしそうすれば、少なくともクシュラトリアは気分を害し、もっと露骨に敵対行動に出る可能性があった。
最悪の場合は、クシュラトリア以外の冥八神まで出て来ての、本格的な戦争に発展しかねない。
それ位ならば、この程度の悪意ある悪戯は、甘んじて受け入れた方がまだマシだ。
実際、僕が見る限り、冥府の環境に力を抑えられてはいても、クシュラトリア程度の神性は、単独であるならばの話だが、充分に捻り潰す事は可能だろう。
つまり実力差も把握出来ない経験の浅い神性の悪戯に、必要以上に慌てる必要は何もない。
ベラは僕の制止とその後の態度を見、少し不満そうではあるものの、大人しくその場に伏せる。
そしてそれを見届けた僕は、足元に開いた穴に引き摺り込まれ、冥府の最下層へと飛ばされた。