112 舞台の上で消える星
目を閉じて、耳を澄ませば、それは聞こえて来る。
降りた幕の向こうから聞こえる、万雷の拍手と喝采が。
私は深い満足と一欠けらの未練を胸に、大きく息を吐く。
まぁ、未練は仕方ない。
多分この未練は、今この瞬間が一番小さく、満足が薄れるにつれて大きくなる。
次を、もう一度、後少し……と。
だから私の終わりは、今この瞬間がベストなのだ。
全てが望み通り。
私はこの舞台の上で、演じ終えて、人生も終える。
……最後に、私をこの瞬間に連れて来てくれた彼に、ほんの少しだけ感謝を込めて、事の起こりを思い返そう。
私、
それも幾度も主演を務めた、スタアと呼ばれる内の一人。
華やかな歌劇の舞台でTOPに立つのは並大抵の事じゃなかったけれど、その努力の分だけ私は何でも持っていた。
実力も、名声も、勿論お金だってとても沢山。
広い御屋敷も手に入れたし、皇都でもまだ珍しい蒸気自動車だって、運転手付きで買った。
少し前までの私は、それこそ出来ない事なんて何もないと錯覚しかねない位に、絶頂期にあったのだ。
ただそんな私の人生に綻びが見え始めたのは、およそ一年前。
最初に感じたのは、お腹の小さな痛み。
気になるほどでもない痛みだったし、その時の私はとても忙しかった事もあり、その痛みを無視してしまう。
でも今にして思えば、それはとても愚かな選択だったのだ。
時間と共に、痛みは少しずつ、本当に少しずつ大きくなって、やがて稽古の最中や舞台に上がってもそれを感じる様になって来る。
渋々と、私は忙しい時間をやりくりして病院に向かう。
けれども、そう、その時にはもう全てが手遅れだった。
気の毒そうに、言い難そうに、検査の結果を告げる医師。
「貴方の余命は、およそ半年です」
私は舞台の事しかわからないから、自分が何の病気で死ぬのかは結局理解出来なかった。
病院を変え、皇都でも有名な名医の診察や検査を受けたが、その結果は変わらない。
例え海外の医師に診て貰ったとしても、矢張り結果は同じだろうとも言われてしまう。
俄かには信じられなかった。
だって私はまだ二十を幾つか過ぎたばかりだ。
病に苦しむ様な年齢ではない。
そう医師に訴えたが、
「寧ろ若い間の方が回りの早い病もあるんだ。せめてもう少し早く発見できていれば……」
なんて風に言われてしまった。
その日から、自分の身体がどうにもならない病に侵されてると知ってから、痛みは急に強くなり、私は舞台に立てなくなる。
絶望した。怖かった。
死ぬって事に関しては、イマイチ実感が湧かなかったけれども、もう舞台に立てないままに自分が終わるなんて、ゾッとした。
稽古にも出れないと一日は私にとってあまりにも長くて、この一日を繰り返す度に私はゆっくりと腐りながら、半年後に終わるのだ。
どうしてもそんな風に思ってしまう。
そんな私の絶望に変化を与えてくれたのは、ある日、不意に見舞いにやって来た後援者の一人である。
実の所、その後援者にはあまり良くない噂がある人で、私も最初はその来訪に戸惑った。
……と言ってもその噂は、別に後援した役者に無体な要求をするとかではなく、彼の商売敵は不思議と不幸な目に合うと言う物だ。
歌劇に関しては純粋に後援、支援してくれているから、別に警戒した訳じゃないのだけれど。
さて置き、その後援者は臥せる私に向かってこう言った。
「本当はね、内緒にすべき事なんだけどね。私は夏梅ちゃんのファンなんだ。だから今の君の不幸に、もしかすると一助になるかも知れない御呪いを教えてあげよう。……万に一つだけれど、君と相性の良い―――に、君の声が届けば、助けてくれるかも知れないよ」
それは一笑に付すのが当然の申し出だったと、今になってもそう思う。
或いは馬鹿にするのかと、怒り散らす状況だったかも知れない。
でもその時の私は本当に絶望していて、状況が少しでも変わるなら、例え悪魔に魂を売る事だって躊躇いはしなかった。
だから、そう、後援者の申し出は、正に悪魔の囁きだった。
―――、悪魔に呼び掛ける方法を教えるだなんて。
まぁ正直な所、信じた訳じゃない。
何でも良かった。
縋りたかった。
何も起きなくて、何もかもが駄目でも、やっぱり騙されたんだと喚いて当たり散らしたかった。
だってその方が、ただ絶望して腐って行くよりは幾分はマシだから。
そして私は、彼に出会う。
コンクリートの床に描いた模様に垂らした私の血が光る。
普通、血は光らない。
なので私はとても驚いた。
でももっと驚くべき事に、その光が収まった後、床に描いた模様、魔法陣の上には一人の男性が立っていたのだ。
「……あぁ、今晩は。良い夜だね? 泣きそうな顔のお嬢さん。僕はレプト、君が求めた悪魔だよ。君が対価を支払えるなら、僕はその願いに応えよう」
その声に、言葉に、私は衝撃を受ける。
悪魔の見た目は、思ったよりも普通だった。
黒髪と黒の瞳は、この皇国ではありふれた組み合わせだ。
角や翼は異形だけれど、顔立ちを見る限りは皇国人と然程変わらない。
悪魔だと言うなら、てっきり外国の人みたいな容姿だろうと思っていたのに。
けれどそれでも、彼が普通の人なんかでは無い事は疑う余地がなかった。
だってその瞳に宿る光は深過ぎて、一体どれ程の時を、何を眺めて過ごせばそんな風になるのか想像も付かなかったから。
声に含まれた感情も深過ぎて、優し過ぎて、情け深すぎて、でも酷薄で、怒りが強くて、推し量れない。
僅かな時間対峙しただけで、私には彼を理解する事が出来ないと、理解させられてしまう。
にも拘らず、彼は私を理解した。
私でさえも、わかっていなかった、私を。
そうか。
そうだ。
私は、泣きそうだったのだ。
後から振り返るととても恥ずかしいのだけれど、私は彼に喚きたてた。
何で私がこんな不幸な目に合わなきゃいけないのかと。
どれ程に私が努力をして来たのかを。
そして喚いて喚いて喚いて、心の中に溜まった物を全部彼にぶちまけて、最後に口から出て来たのが、私の願いだった。
「もう一度、舞台に立たせて。どうせ死ぬなら、舞台の上が良い。公演最終日、千秋楽の幕が下りて、拍手と喝采に包まれて終わりたい。だって私は大和田夏梅よ。歌劇が大好きで、最期の最期までスタアであるべき大和田夏梅なのよ!」
なんて風に、無様に、熱心に、真摯に、懸命に、願いが口から零れ出る。