婚約者の足跡

作者: 水沢ながる

 どうも、足立と申します。

 突然で申し訳ありませんが、私、息子がいましてね。はい、一人息子です。母親──私の妻は、息子を産んだ直後に亡くなりました。いわゆる「産後の肥立ちが悪かった」と言う奴です。

 「お産は病気ではない」とは言いますが、人間一人産むんです、何があるかわかったもんじゃない。正直、舐めてました。あれよあれよと言う間に妻はいなくなり、私と生まれたばかりの息子が残されました。

 慣れないことばかりで本当に大変でしたよ。でも、ここで息子に何かあったら、妻に合わせる顔がない。必死でした。幸い、私の両親も妻の両親も近くに住んでいて、代わる代わる手伝いに来てくれたので、助かりました。でなければ、私も参ってしまっていたところです。

 おかげ様で、息子は祖父母の愛情に包まれてすくすくと育ちました。……そして、それが起こったのは、息子か五歳になった頃でした。


 息子の様子がおかしいのを、最初に教えてくれたのは母でした。

 育休が終わった少し後から、私は会社で大きなプロジェクトを任されることになりました。自然、仕事は忙しくなります。引き続き両親に頼ることになりましたが、正直寂しい思いをさせていたのではないかと思います。

「ねえ、幸ちゃんのことだけどね」

 ある日、母がそう話しかけて来ました。……あ、幸ちゃんというのは息子の名前です。幸一と言います。

「あの子ね、ちょっと目を離すと、誰もいない部屋の隅とか、何もない部屋の空中とかに向かって何か言ってるの。まるで見えない誰かと話してるみたいに」

 恐らくそれはイマジナリーフレンドのようなものではいかと、私は考えました。子供にはよくあることだと聞いています。しかも、息子のような一人っ子には。

「心配ないよ、母さん。そのうちおさまるさ」

 私はそう言いましたが、母はまだ心配なようでした。

「でも、あの子のしゃべっていること、さっぱりわけがわからないのよ……」


 同じようなことは、妻の両親にも保育園の先生にも言われました。それで、私も息子の言動を確かめてみることにしました。

 仕事が休みの日、私は息子を連れて近所の公園に遊びに行きました。近くに住む同じ年頃の子供も来ていて、息子も仲良く遊んでいます。その様子は、どこも変わったところはありません。やはりみんな気にしすぎなんだろう、そう思っていたところです。

 息子が、公園内に植えられた木のそばの、何もない空中に向かって不意にしゃべり始めたんです。

 それが、何らかの言葉であることはわかりました。しかし、何語かさっぱりわからない。何をしゃべっているのかもわからない。しかし息子は、そのわけのわからない言葉で楽しそうにしゃべっているんです。まるでそこに親しい誰かがいるように。

 しばらく会話した後、息子は手を振りました。見えない誰かは帰って行くようです。

 さくり。

 軽い音がしました。

 息子の横にあった砂場に、小さなへこみが出来たのが見えました。何もないのに、さくりと。見ていると、少し離れたところにまた、さくり。

 足跡だ。直感しました。

 何故だか、そう思えたんです。

 足跡はそのまま、どこかへ遠ざかって行きました。息子はそれをじっと見ていました。


「さっき、誰と話してたんだ?」

 公園からの帰り道、私は息子に訊いてみました。何気なさを装ってはいましたが、少し声が震えていたかも知れません。

「キィちゃんだよ」

 と、息子は答えました。

 キィちゃん、というのは私の耳にそう聞こえたというだけで、正確には少し違う発音のように思えます。違う人間が聞いたら、違うように聞こえるんではないでしょうか。ここでは便宜上キィちゃん、としておきます。

「キィちゃんはね、僕が一人でいる時に話しかけて来たんだ。すぐにお友達になったんだよ。色々、面白いお話を聞かせてくれるんだ。キィちゃんてほんとはもっと長い名前なんだけど、短くしてキィちゃんて言ってるんだ」

 キィちゃんのことを語る息子はとても楽しそうで、本当にキィちゃんのことが好きなんだということがわかります。やはり息子は、母親がいない寂しさをこの小さな体の内に秘めていたのかも知れない。私はそう感じました。

 しばらく話していると、息子は少しうつむいて言いました。

「でもね、キィちゃん、もう少しでお家に帰っちゃうんだって」

「……そうか。それは寂しいな」

「だからね、僕、もっと一緒にいたいなって言ったんだ。そしたらキィちゃん、ケッコンしたら一緒にいられるよって言ったんだ」

 それは、子供の無邪気な言葉に過ぎないのでしょう。しかし私は、どういうわけかこの言葉を聞いた時、ぞくりと背筋に寒いものが走ったのでした。

「それで……結婚するって言ったのか、キィちゃんに?」

「うん。そしたらね、キィちゃん、約束だよって言ったんだよ」

「──キィちゃんはお家に帰るんだったな。いつ頃帰るかって、言ってたかい?」

「次の日曜だって」


 その日は、とても寒い日でした。朝からちらほらと降っていた雪が、夕方になると本格的に降り積もり始めました。

 私は何か気になって、その夜は息子と川の字──二人なので刂の字になって寝ていました。

 真夜中。

 私は不意に目が覚めました。

 横を見ると、寝ていた筈の息子が上体を起こしています。息子は、窓の方をじっと見ていたのです。

 息子に声をかけようとした、その時です。

 窓の外から、声が聞こえました。

 風の音かと一瞬思いましたが、すぐに違うとわかりました。何かが……息子を呼んでいる。

 私は咄嗟に、息子を毛布に包んで抱きしめました。窓の外にいる何かから、息子を守る為に。窓の外の声は、ひたすら息子を呼んでいます。いけない。あれに息子を渡してしまってはいけない。それは親としての直感でした。

 強い風が吹いているかのように、窓がガタガタと揺れます。それに反応するように、腕の中の息子がもがきました。私は必死で息子を抱きしめていました。


 ──コウイチクン。


 窓の外で、呼んでいます。


 ──ヤクソク。

 ──ケッコンスル、ヤクソク。

 ──ヤクソクハ、マモラナイトイケナイ。


「結婚は、出来ないんだ!」

 私は叫んでいました。


 ──ドウシテ。


 窓の外にいるものが訊いて来ました。

「それは……幸一はまだ子供なんだ。子供は結婚出来ないんだよ! そういう決まりなんだ! 二十歳……せめて二十歳になるまで待ってくれ!」

 今思えば無茶な理屈ですが、その時の私にとっては何でも良かったんです。しかし、「決まり」という言葉は相手には効いたようでした。


 ──キマリナラ、シカタナイ。

 ──コウイチクンガ、オトナニナルマデ、マツ。

 ──モウ、カエラナイト。


 窓の外から、何かが去って行く気配がしました。私は安堵し……そこから先は、よく覚えていません。

 気がつけば、朝になっていました。私は息子をしっかり抱いたままで、息子はすうすうと寝息を立てて眠っていました。

 私は念の為、外に出て辺りをうかがってみました。外には昨日からの雪が積もっていましたが、その雪に。

 家の周りをぐるりと囲むように、足跡がついていました。公園で見たものでした。人のものとは明らかに違う。しかし、犬猫や他の動物のものとも違う。それでも確かに、それは何かが歩いた足跡なのだとわかるのです。

 足跡は家の周囲を歩き回り、軒や屋根の上まで伸びていました。はしごをかけて屋根に登ってみると、足跡は屋根の上で不意に途切れていました。まるで、その場で空の上に舞い上がったか、虚空に消えてしまったかのように。


 それっきり、息子がキィちゃんと話すことはぴったりとなくなりました。保育園にも学校にも普通に通い、友達とも仲良くしているようです。以前、それとなく訊いてみたことはありますが、キィちゃんのことはすっかり忘れているようです。

 しかし、私にはまだ不安が残っています。

 キィちゃんとの結婚は、息子が二十歳になるまで猶予されただけなのです。

 いずれ、息子が二十歳になったら、あれはまたやって来るに違いない。その時は息子も彼なりの生活をしているだろうし、ことによれば恋人がいるかも知れない。息子が一緒に行くのを拒んだら、キィちゃんは一体どうするのだろう、と。


 息子は今年中学生になりました。

 二十歳になるまで、あと七年です。

 その時になるとまた私の前に現れるのでしょう……あの、奇妙な足跡が。


 私の話はこれだけです。こんな話を話せる場所があって良かった。聞いて下さり、ありがとうございました。

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