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聖女フェス*6

 澪のトランペットが数曲を奏でる頃には、人が増えていた。

 ……どうやら、もっと奥の方、開拓地公園の端の端に居たらしい者達が、徐々にこちらへ出てきて、澪のエリア内にそっと腰を下ろすようになったようなのである。

 音につられて出てきたか、聖銀の杖から離れた位置では寒さに耐えきれないと判断したのか。どちらにせよ、澪としては丁度いい。

 澪が演奏する曲は、物悲しく静かな曲から、次第に物悲しくも勇ましい曲へと変化していた。

 今しがた演奏し終えたのは、『スカボローフェア』だった。一番高い音はチューニングのB♭の上のFだ。トランペットにしては然程高くない音を、澪は高らかに吹き上げる。

 ぱーっ、と、夜空を裂くようにトランペットの音が響く。それに合わせて、観客達の心もまた、悲しみを勇気で癒し始める。

 音楽は、人の気分を変えるのに最も良い方法のうちの一つだと、澪は思う。徐々に曲調を変化させていけば、徐々に、心をも変化させていける。

 逆に、気分を変えて演奏すれば、曲が変わる。

 澪は今、ステージに上がる前に一度意識して下げたテンションを、徐々に上げているところだ。それが演奏にもにじみ出て、『物悲しい曲』はそこに悲壮感や勇ましさ、そして微かな怒りや立ち向かう気力を滲ませるようになった。

 ……澪の気分の変化が曲に現れ、曲調の変化は、観客へと伝播していく。

 魔法のようだ。そう。これは、澪が使える魔法なのである。古来から人間達がずっと使ってきた、音楽という名の、魔法なのだ。




 ……そうして、物悲しくも勇ましく、そして美しい音楽を演奏する合間に、澪はまた、マイクを取る。少し唇が疲れてきたので、ここらで休憩がてらMCを入れるのが丁度いいだろう。

「えーと、さっき演奏した曲も私の故郷の曲で……思い出の曲だったんだよね。気に入ってくれたかな」

 澪が問いかけると、観客達は控えめながら、拍手を送ってくれた。ぼんやりと酒を呷っていた者達も、気だるげな動作で、ほとんど音の鳴らない形だけの拍手を、それでも満足気な緩い笑みと共に送ってくれている。澪は、それを嬉しく思いつつ、もう少しばかり、喋る。

「本当だったら、私ね。今年の夏に、この曲、大きい舞台の上で吹く予定だったんだよね」

 ここから先は、澪の話だ。観客達には理解できない、異世界の話である。


「音楽の腕を競い合う大会があってね。もっといっぱい、この楽器だけじゃなくて、60人くらい集めて、その大会に出場するの。私、ずっとそこで練習してた」

 吹奏楽部、というものは、この世界のこの観客達には上手く伝わらないだろう。結局、澪はそんな伝え方をしつつ、ぼんやりと思い出す。……もう、あの世界から離れて、半年以上が経過している。記憶も幾分、ぼんやりとしていたが、それくらいで丁度よかったかもしれない。

「私、そんなに上手い方じゃなくてさ。演奏する音の役割分担とか、してあるんだけど……それの、一番高い、一番目立つところは、担当できなかった。あ、勿論、それで嫌になったとかは、無くってさ。むしろ、私、ちょっと低めの音の方が得意だから、丁度いい役割貰えたなー、って、思ってたんだよね」

 澪は、2ndトランペットの担当だった。1stトランペットは、澪の友達が担当していた。澪は自分のポジションに納得してはいても、彼女に対して、微かな嫉妬を覚えないでも、なかった。

 何せ彼女は、澪より後から入部して、そして、めきめきと上達して、そして高校2年に上がる前には、次期1stトランペットとしての地位……3rdトランペットの地位を手に入れていたから。

「でも、なんか……えーと、頑張っても無駄なことって、あるじゃん?」

 澪は、恐らく吹奏楽部で暗黙の禁止になっていた言葉を、敢えて使う。

『頑張っても無駄』。……その感覚は、澪の中にもある。ずっと隠していたが、澪はその感覚を知っている。

 そして、今ここに居る人達もきっと、知っている。


「偶々そういう時期だったのか、練習の方法が間違ってたのか、分かんないけどさ。なんか、練習しても上手くならなくて……その一方で、隣で吹いてる人が、どんどん上手くなって、私より上手くなって、華やかな音、出せるようになって……ってやってたら、どうしていいんだか分かんなく、なっちゃってさあ」

 話すのが少々辛いような気もする。こんな私事を話すことの是非も、少々自分の中で考えてしまう。

 だが、澪は驕りだろうが何だろうが、ここに居る人達に、自分が一番苦しかった時の話をしてみたかった。自分の話で共感や同情を呼ぼうなんて、浅ましいような気もしたが、それでも。

「そうしてる内に、なんか、部内が……えーと、楽団?みたいなのの仲が、悪くなってきちゃってさ」

 詳細は、省く。喧嘩の詳細など、今ここで彼らに話したところでどうにもならない。面白くもないだろう。

 ……ただ、『足引っ張らないでよ。もっとちゃんと練習してよ』『練習してるよ』が喧嘩になっただけだ。ついでに澪も、それに巻き込まれた……ということになる、だろうか。

 トランペットパート内は、比較的、仲が良かった。1stの担当の友達も、澪が自分より下手であることについて、とやかく言わなかった。澪も、2ndの役割に納得して、自分の居場所はここなのだと、腹を決めていた。

 ……だが、澪は気にした。部内に派閥のようなものができていって、次第にアンサンブルが揃わなくなり、夏のコンクールに向けて次第に悪くなっていく空気の中……澪は、なんとか部内の雰囲気を取り戻さなくては、と、焦っていた。

「私、頑張ってたよ。それこそ、ホントに肺に穴が開くまで練習してたよ。あ、だから私、一回胸切って開いて縫ってるんだけど……あ、その話はいいや。うん。ごめん。痛い話しちゃった。ごめんごめん」

 澪は観客に謝りつつ、あの後のことを少々、思い出す。

 ……『1stより下手』な澪は、下手な練習の仕方をした結果、うっかり、肺に穴を開けた。部内の仲を取り持とうと方々を気遣っていたストレスで食が細り、益々痩せ気味になっていたことも原因の1つだったかもしれない。




「でも、まあ、それって他の人には関係ないじゃん?私が苦しいからって、他の人が苦しくないってことにはならないし。私の方が大変だからもっとがんばれ、とか、意味わかんないこと言うつもりは無いし」

 澪は、トランペットの管を抜いて、中に溜まった水を捨てる。呼気に含まれる水蒸気が冷えた管の内側に触れて液体に戻り、それが溜まってしまうのだ。だから定期的に、こうして水を抜く必要がある。

「皆それぞれに大変なんだよね。でも、だから助け合おうとか、だから思いやりを、とか、そういうのは嫌じゃん。苦しいのは苦しいんだし、苦しい時に思いやりなんか思い出してられないじゃん?」

 なんとなく、言い訳がましい気がしながらも、澪はそう話す。

 かつての自分を肯定してやりたいような気分で。同時に、ここに居る人達も同じようなことを感じたことがあるのなら、僅かにでも救いになるのではないかと信じて。

「だから……まあ、せめて、ちょっと元気な時にだけ、そういうの思い出すようにしようって思ってるよ。苦しい時には自分のことで精一杯だし、それでいいって思うから。だから、元気な時だけ」


 肺に穴が開いた以上、澪は、練習には参加できなかった。すぐに入院して、手術が行われた。それから少々、入院もしていた。

 ……そして、ほんの2週間程度練習しなかっただけで、トランペットの腕は鈍る。そもそも、一度穴が開いた肺を気遣いながらでは、最高の演奏をすることはできない。

 足を引っ張りたくなかった。

 大好きな音楽も、大好きな仲間達も、それらが大好きであるが故に、澪は足手纏いになる自分がそこに居ることを許せなかった。


 ……そして、何より。

「ほら。元気じゃない時には、頑張れないからさあ……」

 相談した時、『そんなこと言わないで、もうちょっと一緒に頑張ろうよ』と。そう、1stトランペットの友達は言ってくれたが。

 だが、澪はもう、元気じゃ、なかった。


 頑張って練習したトランペットは、望んだように上手くならなかった。頑張って仲を取り持とうとした部は、結局仲良くならなかった。

『頑張っても無駄だった』。

 だから澪は、夏のコンクールを前にして、退部することにしたのかもしれない。




 最後の曲は、ショパンのノクターンにした。

 最初の『月光』同様にピアノ曲だが、優しく甘やかな旋律は軽やかに動きがあって、『月光』よりはトランペットのソロに向く。

 滑らかに繋がる連符を奏でるために、指回しを何度も練習した。その甲斐あって、『ノクターン』はその名の通り夜に相応しく、甘く、会場に響いていく。

 ……澪が、1年生の冬、ソロコンテストに出場するために練習していた曲だ。

 結局、部内のオーディションで落ちて、出場権を得ることはできなかったが。だが、澪はそれでもこの曲が好きだし、トランペットが好きだ。

 好きだからこそ、もう少し上手いやり方があったのではないかと、今も思う。

 後悔することばかりだ。

 だが……1つ、よかったことがあるとすれば、澪がこの世界に来て、こうしてトランペットを演奏する機会を持てているということだろう。そして、後悔しながら、考えたり、思い出して沈んだりする機会をも、また。


「私、今夜はちょっと沈ませてもらったけど、明日には元気になってるからさ。もし時間があったら、聞きに来てくれると嬉しいな」

 演奏を終えて、澪は観客達にそう言って、手を振ってステージを下りる。

「じゃ、皆、お休み。なんか美味しい物とか、かわいい物とか、そういうかんじのいい夢、見られますように」




 ステージを下りた澪は、そこで唇の整理運動を行う。ぷるぷる、と唇を振動させて、その間に手早く、トランペットを片付けていく。

 ……そうしていると、そっと、近づいてくる人影があった。

「勇者様も落ち込むようなこと、あんのか」

「げぇっシベちん!」

 気配に振り向けば、そこにはシベッドが居たのである!


「なんでこっち居るの!?ナビスは!?」

「終わったからこっち見に来たんだよ」

「いや、それにしたって!私の方見にくるよりマルちゃんとかパディとか見に行った方が良くない!?」

 澪は『何故!?』でいっぱいなのと、自分の妙に落ち込んでいるところを知り合いに見られた恥ずかしさでいっぱいなのとで、いっぱいいっぱいだ。いっぱいの二乗だ。とにかくいっぱいだ。

「ポルタナのモンがポルタナの聖女様の礼拝の後にポルタナの勇者見に来ちゃ悪いのかよ」

「いや悪いとは言わないけど……うわあ……」

 澪は頭を抱えて蹲る。『うわわわあわああわあああ』とよく分からない奇声を発してみると、観客達が遠巻きに『何事か』と眺めてくる気配がある。そう。ここはまだ観客が居る場所だ。澪が慌てふためく姿を見せ続けている訳にもいかない。

「……まあ、うん。私も落ち込むようなことはあるんだよ」

 澪はトランペットケースを抱えて立ち上がると、開き直ってそう答えることにした。澪にも落ち込むことがあるのは事実であるし、それを隠すつもりも、あまり無い。いや、多少は隠したいが。だが少なくとも今宵は、それを隠さないことをテーマに演奏会をやっていたので……。

「……そうかよ」

 シベッドは何やら渋い顔をすると、がり、と首の後ろを掻く。そしてため息交じりに視線をうろつかせてから、ようやく、口を開く。

「まだ、落ち込んでんのか」

「いや、まあ、うん……」

 なんだか意外だなあ、と思いながら、澪は曖昧に答え、それから、いや、曖昧なのもどうかなあ、と思い直した。

「うん。落ち込んでる。今はね。色々、思い出しちゃったし」

 澪が答えると、シベッドが何やら、傷ついたような、痛ましげな顔をする。……だから澪は、笑って答えるのだ。

「でも、その分、気持ちが音に乗っていい演奏だったっしょ?」

「……は?」

「それに、明日には元気になってるよ。……うん。元気に、なれるよ。いい演奏できたから、よく眠れそうだし。よく眠って、起きたら、多分、元気になれるよ」

 疲れた時には休む。そして元気が出てきたら、また頑張ればいいのだ。

 取り返しのつかないことも多くある。頑張っても芽吹かない枝もある。それでも、接ぎ木のように自分を伸ばしていくような、そんなイメージで澪は頑張るのだ。

「元気になりたいんだ。それで、また頑張りたい。やりたいこと、たくさんあるから」

 ……澪は、頑張ることが好きな性分では、あるのだ。多分。疲れてしまうこともあるけれど。それでも。

 それでも澪は、トランペットが好きだし、音楽が好き。盛り上げ役をやることだって、誰かの役に立つことだって、好きなのだ。


「……ならさっさと寝ろ」

「うん。ナビスに会ってからね!それで明日は朝イチでナビスの礼拝式、参加するんだ!ってことで、お休み、シベちん!シベちんもいい夢見られるといいね!」

 澪は、『既に幾分元気出てきたなあ』と思いつつ、トランペットケースを抱えて、ナビスのエリアの方へ向かうことにする。今晩の宿は既に取ってある。ナビスと合流したら宿に戻って、さっさと寝てしまおう。

 ……或いは、修学旅行か何かのように、少し夜更かししてナビスとお話ししてみるのも、いいかもしれない。更に或いは、ナビスのベッドにもぐりこんでみるのはどうだろうか。女子同士ということで、偶にはむぎゅむぎゅやりながら寝るのだって、いいんじゃないだろうか。

 澪は、『ナビスが居てよかったなあ』と思いつつ、多少うきうきと足を速めていく。

 ……なんだかんだ、寄り添ってくれる友達の存在は、とても大きいのである。




 ……ちなみに。

 澪が立ち去った後、澪の演奏を聞いていた観客達は澪の様子を見ていた。

 そして、多少落ち込んでいても、努めて明るさを取り戻そうとしている澪の様子を見て幾分勇気づけられたり、はたまた、『聖女ナビスの礼拝式か……行ってみるか……』と気力を得たりしていたのだが、それはまた、別の話である。

 別の話であるが……ひとまず、澪の演奏会は、概ね澪の思惑通りに成功した、と言えるだろう。

 何せ、観客達はその日、静かに穏やかな気分で眠り、翌朝、久方ぶりの爽やかな目覚めを体験することができたのだから。


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