海戦、開戦*2
ポルタナの海は今日も変わりない。
青い空に溶けゆくような青い海。白く砕ける波。やや強い海風。そして魔物。
「ああああああ出たああああああ」
「ミオ様!頑張って!頑張ってください!」
舟に向かってくる魔物を仕留めるため、澪は銛でざくざくやっていた。それはもう、ざくざくと。『近海に来る魔物許すまじ!』という恨みを込めて。
「……反応の割に覚悟は決まってんだな……」
「ええ。それはもう、ミオ様ですから」
「あああああああまた出たあああああ」
……銛の使い方は、前回のレクチャーで概ね学んだ。だから澪も、ひとまず海の魔物を仕留めることができる。
だが、それはそれとして、不慣れではあった。
「そんなに慌てる必要もねえだろ」
「いや、なんかこう、海からザブッて急に出てくると、めっちゃビビる……ドラゴンよりこっちのがビビる……」
「……そうかよ」
余談だが、澪はビックリ系ホラーが苦手である。スプラッターも然程得意ではないが、ビックリじゃないホラーはそうでもない。そんな具合である。
「えー……なんか今日はめっちゃ来るじゃん?」
そうして澪は、海の魔物を5体ほど仕留めて、少々疲れた。前回よりも魔物に襲われるペースが速い。ちょっと進んだだけでこれなのだから。
「他の舟には魔除けを施してありますから」
「あー、成程。それで追い込まれた魔物がこっちに来ちゃうのか。まあ、それで掃除ができるなら願ったり叶ったりかー」
魔物と戦える人間は、そう多くない。漁師達であれば、一応覚悟は決めてきているが、それでも戦うのが上手いかどうかは別である。その点、この舟には普段から近海の魔物相手に戦っているシベッドと、勇者である澪が乗っている。この舟だけに魔物を誘導して、この舟だけで魔物を処理するのは、理に適っていた。
「そういうわけで、この舟だけ先行して進んでる」
「うんうん、いいねいいねー。よーしこの調子で私達が他の舟の安全を確保しまた出た!ああああああああ!」
また一体、魔物を処理しながら澪は銛をざくざく動かす。雑に銛を振るっているように見えて、しっかりと力を乗せた一撃一撃が魔物を刺し貫いていた。シベッドがそんな澪を見て少々複雑そうな顔をするが、本日この場限り、澪はそこまで気にする余裕がない。急に出てこられるとビックリするのである!
「聖銀の網を張ったら、その後に網の内側でもう一回、魔物を探した方が良いですね」
「そうだねー。囲い込んだ内側に魔物が居たら、囲い込む意味が無いもんねえ」
どのみち、このビックリ作業は今後やらねばならない仕事だ。澪は覚悟を決めて……しかしビックリしてしまうのはどうしようもないが、まあ、ひとまず気合は入れて、銛を握りなおす。
……その時だった。
「……何か聞こえる?」
澪はふと、耳を澄ます。何か、低く唸るような音が聞こえた気がして。
「声……?いえ、海鳴り……?」
ナビスも、そしてシベッドも戸惑いつつ、それぞれに武器を構えてそっと前方を警戒する。湾の外は、もう近い。そうなればより強い海の魔物なども、居るだろうと思われる。今回も、その類なのかもしれない、と。
だが。
「え」
警戒していても、そんな澪達が反応するより先。ふっ、と舟の下、海の底から何かが凄まじい速度で伸び上がってきたかと思うと……澪達の乗っていた舟を持ち上げるようにして、一気に、水が動く。
「嘘だろっ!?」
シベッドの焦ったような声に続いて、舟がぐわりと持ち上がった。
ぞっとするような浮遊感。舟は高波によって持ち上げられ、そして、今、落下していく。
……海上に跳ねる、巨大な鯨。
大きく傾いた舟から放り出された澪が見たのは、そんな光景だった。
+
ナビスは小さい頃から、この海で泳いできた。こうした時にどうすればいいかは、よく知っている。
まずは、浮くこと。波に揉まれて、上下が分からなくなっていても、浮く時にはちゃんと浮く。下手に泳がない。まずは、体勢を整える。
次に、海上へ顔を出すことができたなら、息継ぎをして、すぐさま泳ぐ。
……ナビスの目にも、先ほどの鯨の姿は見えていた。あれはきっと、本来ならば遠洋に居るはずの、魔物。それがどうして湾の中に入り込んでいるのかは分からないが、今はとにかく、あれから逃げる必要がある。
「ミオ様!シベッド!無事ですか!」
海上に顔を出せた隙に叫べば、ばしゃばしゃ、と派手に水飛沫を上げてシベッドが泳ぎ寄ってくる。彼もまた、ポルタナの海と共に大きくなった者だ。泳ぎはお手の物なのである。
……だが。
「……ミオ様!?」
ミオの姿が、見当たらない。海上へは顔を出せていないようだが、果たして。
「ミオ様……ミオ様!ああ、まさか、海底へ!?」
ナビスの脳裏に過ぎるのは、ミオの体調のこと。
……普段は何でもないように振る舞い、何でもないように動き回っているミオだが、その実、病み上がりの体であることは、ナビスも既に知っている。
ミオは、肺に穴が開いたことがあると言っていた。そのために胸を切って開いて、穴を縫って閉じたのだ、とも。
だから……だから、そんなミオがもし、水流に呑まれて海底の方へと引きずり込まれているのだとしたら、危ないのだ。海の底、水の重さが圧し掛かるそこでは、きっと、肺を病んだことのあるミオの傷が、酷くなる。
「俺が潜ってくる!ナビス様は舟へ!」
「いいえ!ならば私も共に参ります!」
シベッドの申し出を断って、ナビスは海の上をぐるりと見渡す。
「……ミオ様は私の!私の勇者様なのです!私が助けずして、何が聖女ですか!」
……そして、微かに澪が持つ神の力を感じ取れる方に向って、ナビスは勢いよく潜っていった。
自分がミオを助けるのだ、という強い意思を持って。
海の中は、存外明るい。ナビスはこの水中の光景が好きだった。
どこまでも青く深く透き通った水。水面の模様を透かして降り注ぐ光。ふわり、こぽり、と立ち上る泡が光に煌めいて……ポルタナの海の中は、今日も只々、美しい。
だが、この美しい世界にミオを囚われたままにしてはおけない。ナビスは即座に水を掻いて、ミオの気配のする方へと進んでいく。
……そして、ミオの姿はそこにあった。
水を通した青い光の中、肌の血色もよく分からない水底の世界で、水の中を漂うミオは、意識を失っているのか動かない。……まるで、死んでいるかのように。
作りものめいて見えるほどに肌は青白く見えて、ゆらり、と揺らめく黒髪も、服の裾も、全てが海中で現実味がない。いつも明るくナビスを導くミオがこうなっているなど、本当に、現実味が無いのだ。
ぞっとする光景だ。だが、美しい光景でもあった。ナビスは一瞬、その光景に頭が追い付かないまま海中を漂う。
……だが、すぐに意識を戻したナビスは、ミオに向かって、勢いよく、がむしゃらに、水を掻いて進んでいく。
泳ぐ時は、魚のように。無駄なく、滑らかに。……逸る心を抑え、かつて母から教えられた泳ぎ方を忠実に守りながら、ナビスは海中を進んでいき……そして、澪の腕を、捕まえる。
酷く冷たかった。
海の水のような温度のそれに、指先どころか心までもをひやりとさせられながら、ナビスはミオを連れて海上を目指す。
すると、丁度そこでシベッドが追い付いてきた。シベッドはナビスと、ナビスが担いで泳ごうとしているミオの姿を見てすぐ、ミオを運ぶ手伝いをしてくれた。
シベッドと2人で泳いでいけば、意識の無いミオを連れていくのもそう難しくはなかった。3人はすぐ、揃って海上へ顔を出すことになる。
「こっちだ!舟が寄せてくれてる!」
シベッドの案内に従って、ナビスはまた、懸命に水を掻いてミオを運んでいく。そうして、舟に居た漁師やシベッドの助けを借りて、なんとかミオを舟の上に上げて、ナビスとシベッドも舟の上に上がり……ようやく、深く、息をすることができた。
だが、これで安心などできない。ナビスは即座に神の力を行使する。ミオへと癒しの術を注いでいき、どうか目を覚まして、と祈る。
……すると、いつも通り、ナビスの体を金色の光が包み、その光はミオへと伝播していき……。
「……ん」
ミオが、薄く目を開いたのであった。
だが、ミオは目覚めてすぐ、苦し気に口を開いて、はくはく、と息をしようとして……そして、勢いよく咳き込み始めた。
「ああ、ミオ様!どうか、落ち着いて!もう大丈夫です。さあ、ゆっくり、安心して咳き込んでください!」
舟の上で上体を起こしたミオの背を支えるようにしながら、ナビスはとんとんとミオの背を叩いて、水を吐き出す手伝いをする。
ごほ、と咳き込む度に、ミオの肺に入っていたと思しき海水が吐き出されていく。やがてミオは自力で動けるようになって、舟の縁から身を乗り出すようにしながらまた盛大に咳き込んで……そうしてようやく落ち着いてきたらしいところで、体を上げて、とて、と舟の上に倒れた。
「ミオ様……!お加減は、お加減はいかがですか?」
「あー……うん、まあ、なんとか……ありがと、助かった……」
ころ、と転がって横向きになったミオの顔を覗き込めば、へら、と力の無い笑みが返ってきた。ひとまず、体調はなんとか動けるまでに戻ったのだろうが……ナビスは全く、油断しない。
「水入っただけなら大した問題じゃねえだろ。吐き出して少し休めば……」
「いいえ、いいえシベッド。ミオ様は……ミオ様は肺に穴が開いたことがあるお方なのです……」
「は?」
シベッドが『何をそんなに焦っているのか』というような顔をしていたところ、ナビスは険しい表情でミオの様子を見続けている。
……まだ、多少無理をしているように見えた。咳き込んだためかミオの目は潤み、それでいてあまり、顔色が良くない。海に落ちて体が冷えたこともあるのだろうが……やはり、肺のことが、心配だった。
「肺に?穴?……どういうことだ」
「えーと、まあ、ポルタナに来るちょっと前に、トランペット吹いてたら力入れすぎちゃって、肺に穴が開いちゃったんだよね……」
シベッドが眉を顰めてミオに半ば問い詰めるような声の調子で尋ねれば、ミオはへらりと笑ってあっさりと答える。
「そ、それどうしたんだよ」
「え?ああ、もう治ってはいるんだよ。大丈夫大丈夫。えーと、切って開いて縫ったかんじ……?」
ミオは心配を掛けまいとしているのか、ごく軽く、あっさりと喋る。『大したことじゃないんだよ』とは、ナビスにも言っていたが……だが、それがミオの優しさと配慮故なのだろうということも、ナビスにはなんとなく分かっているのだ。
「……言っておけよ。そういうのがあるんだったら」
「あ、うん、ごめん……」
「シベッド。どうかミオ様を責めないでください」
「……別に、責めちゃいねえよ。あんなのが出てくるなんざ、誰も思っちゃいなかった」
シベッドも、ミオの怪我の話を聞いて気まずい思いをしているらしい。元々、彼はぶっきらぼうで愛想が無いながらに優しく真っ直ぐな人だから。
「えーと……さっき出てきたやつ、何だろ。シベちん、知ってる?」
ミオも、ずっとこの話題を続けているよりは、と思ったらしい。先ほど、舟を襲ってきた魔物についてシベッドに尋ねる。
「遠洋の魔物だ」
シベッドは渋い顔でそう答えると、海の向こう……湾の入り口のさらにその先を睨む。
「月鯨。……数年前からずっと、このあたりを荒らして回ってる」
……ミオの体調も心配だが、これから先のこともまた、心配だ。
果たして、ポルタナの海を守ることはできるのだろうか。ナビスはそう不安になり……だが、そんな不安を振り払う。
ミオの体調が優れないようなら、その分、ナビスが力を出せばよいだけのこと。
ずっとずっとミオに導かれてきたナビスなのだ。今回くらいは、ナビスがミオを導く立場になりたい。