地方巡業*5
澪は躊躇うことなく聖水の瓶を投擲した。もしかしたら、と思って栓を抜いた瓶を投擲したのだが、その『もしかしたら』は的中していたらしい。
「やっぱあいつ、透けるんだ」
なんと、陶器の瓶は影のようなその魔物をすり抜けて落ちていってしまった。だが、栓を抜いておいたことが功を奏して、多少は聖水が飛び散ってくれる。瓶は影をすり抜けて向こうの方まで飛んでいってしまったが、聖水は多少、降りかかってくれた。
聖水を浴びた途端、大鎌を持った影はナビスとの鍔迫り合いを放棄して、大きく距離を取る。やはり、聖水が効くらしい。
「ミオ様!更に聖水を!」
「分かった!」
そこへ澪は、更に聖水を投擲していく。栓を抜いては投げ、抜いては投げ、といった動作であるので、然程速くはないが……それでも、多少はコツを掴んだ澪は、手首のスナップを利かせつつ瓶を投げることによって、より聖水を撒き散らしながら瓶を投げ飛ばすことに成功していく。
ある程度聖水を投げたら、次はラッパだ。唇の形を整える間もなくラッパに息を吹き込んで、音を出す。できるだけ派手に大きな音を、と思って吹き鳴らせば、その音に影は怯んでくれる。やはり、魔除けの類が効くようだ。
「皆!今の内にこの人達を安全な場所へ運んで!」
「どうかお願いします!守りながらでは、戦えません!」
そして澪は必死にラッパを吹きながら、その合間に戦士達へ声をかける。ナビスも揃って声を掛ければ、戦士達は恐怖に身を強張らせながらも、皆で生き残るために動いてくれる。
倒れた3人の人達は、屈強な戦士達によってすぐさま運び出されていく。
意識の無い人間は重いらしい、と聞いたことがあるのだが、それでも2人1組になった戦士達の手にかかれば、すいすいと運べてしまうようだ。
他の戦士達は邪魔になりそうな岩を退けたり、周囲を警戒したり、と皆が協力してくれて、彼らはどんどん撤退していった。
「聖女様、勇者様!どうか、ご武運を!」
最後まで残っていた男性がそう叫びながら、撤退していく。
「勿論!任せといて!」
悔やみながら撤退していく様子の彼を安心させるべく明るい声を返して、澪は戦士達の撤退を見送った。
……そして目の前には、相変わらず揺らぐ影が立ちはだかっている。
「ミオ様……恐らくこやつは、ホロウゴースト。ゴーストの上位の魔物です」
ナビスは改めて聖銀の剣を構えながら、そう言って揺れる影……ホロウゴーストというらしいそれを、じっと見据える。
「大抵の魔除けでは、退治しきれないようです」
「みたいだね。さーて、どうしよっかな」
このまま澪とナビスも洞窟の外まで逃げ切る、というのも策の一つではある。どうやらゴーストというものの類は、太陽の下に出られないらしいので。
だが、それもリスクは伴う。洞窟を出てすぐのところにはきっと、戦士達が待機している。できるだけ離れていてくれ、といった指示は出さなかった。ここから意思の疎通を図るのは難しい。何せ、意識の無い3人も一緒に居るのだ。誰か1人でも動き遅れたら、誰かが犠牲になるかもしれない。
「可能性が最も高いのは、やはり聖銀の武器かと」
「つまりナビスの剣、ってことね」
「ええ」
よって2人は、ここでホロウゴーストと戦うことになる。
「お任せください。拙いながらも、剣術は多少、磨いてまいりましたので」
ナビスが剣を構える勇ましい姿を横目に、澪は聖水の瓶を取り出す。
「分かった。じゃ、私はサポート……補佐、ってかんじかな?」
「よろしくお願いします」
ナビスはそう言い置いて、構えた剣ごと金色の光を纏い始める。神の力を使って身体能力を上げたらしいナビスは、人間のものとは思えない速度で地を蹴り、一気にホロウゴーストへと迫っていった。
ナビスが剣を振るう間も、ホロウゴーストは大鎌で応戦する。
大鎌というものは厄介だ。振り抜かれる時、柄の部分はナビスへ平行な線となって近づいていくが、刃の部分は垂直になってナビスへ向かう。剣で払ったり止めたりしやすいのは柄の部分だが、柄の部分を止めても刃に回り込まれる。
更に、ホロウゴーストはその半透明な見た目に反して、非常に力が強いらしい。鍔迫り合いとなっても、ナビスの腕力がそうは持たないのだ。先ほど澪が駆けつけた時も、中々危なかったのかもしれない。
……だが、澪が居る。先ほどのように、ナビス1人に戦わせるようなことはしない。
「ほーら!そっちのカワイコちゃんにばっか意識取られてると、モロに聖水浴びるからね!」
澪は容赦なく、聖水をばしゃりと浴びせかけてやるのだ。瓶を投げるなんてことはしない。ナビスと同じくらいに接近して、直接、瓶の中身をぶっ掛けてやるのだ。
ナビスが言っていた通り、ゴーストの類には聖水がしっかりダメージとして通るようだ。ホロウゴーストに聖水を浴びせてやれば、そこが、じゅっ、と音を立てて煙を上げる。ホロウゴーストはそれに苛立った様子だったが……澪は更に、動く。
「ナビス!いっくよー!」
「へっ!?」
ナビスは困惑していたが、いい。澪はすぐさま、つっこんでいく。
澪は真っ直ぐ動いて……ホロウゴーストの背後から、『中へ』と突っ込んでいった。
ナビスも困惑したが、それ以上に、ホロウゴースト自身が困惑したことだろう。おそらくホロウゴーストは自分の『中に』突っ込んでくる人間など、見たことが無かっただろうから。
ホロウゴーストの中へ突っ込んでいった澪は、案の定、すかっとすり抜けて本当にホロウゴーストの『中』に入ることになった。
途端、ひやり、とした冷たさと背筋が凍るような寒気を感じ、同時に何か、体力が奪われて行くような感覚を覚える。もしかすると『生命力』とやらが奪われているのかもしれない。
……だがそれだけだ。予め取ると決めておいた行動をとるのに、一切の躊躇は無い。
「ナビス!首を狙って!」
澪はホロウゴーストの中を走り抜けながら手を前に伸ばし、ホロウゴーストの大鎌の柄を、ホロウゴーストの内側から掴みにかかっていた。そしてそのまま走って、ホロウゴーストの外側へと大鎌を押していく。
「はい、ミオ様!」
そして澪が目を瞑り、頭を下げて身を低くしたその上を、ナビスの剣が鋭く通り過ぎていく。
聖銀の輝きはホロウゴーストの首へ真っ直ぐ吸い込まれて行き……そして、ホロウゴーストの首から上が、じゅわり、と消えていったのである。
ホロウゴーストの断末魔は、風の吹き荒ぶ音のようだった。
それを聞きながら、澪はその場にへたり込む。
『ゴーストって聖水と聖銀以外でダメージ入らないんでしょ?なら他のものは全部、投げた瓶みたくすり抜けるってこと?ならいけるんじゃない?』と考えての行動だったが、成功するかは今一つ、分かっていなかった。もしホロウゴーストがすり抜けなかったらそのまま組み付いてやるところだったのだが、まあ、出たとこ勝負に勝ったのだから、文句は無い。
「ああ、ミオ様!すぐに治療を!」
「へ?」
……だが、思いのほか、無茶だったらしい。澪は駆け寄ってくるナビスに『大げさだなあ』と思いながらも、自分の体が動かなくなっていることに気付く。
「……あれ?あれ?なんか体、動かないんだけど」
「当然です!あのようにゴーストに触れられたのですから!生命力を大幅に奪われてしまっています!」
澪は『そっかー、やっぱこれ、生命力かー』とどこか遠く思いつつ、ナビスの治療を受けることになった。
……ナビスに握られた手が、温かい。じんわり、じわじわ、とても気持ちがいい。冬、暖房が碌に効いていない朝の教室で、窓辺の陽だまりの中で温まろうとしたことを思い出す。ナビスの癒しの術は、冬場にも温かい陽だまりのようだった。
「うわー、きもちいー。えへへへ……」
「もう、ミオ様!もう少し長い時間ゴーストと接しておられたら、もっと大変なことになっていたのですよ!分からないものに対してあのように突撃していかれるのは、いかがなものかと!」
「うん、うん、ナビスはかわいいなあ……えへへへへ……」
「あ、あの、ミオ様?お言葉は嬉しいのですが、その……大丈夫ですか?」
ナビスに心配されつつも、澪はなんだか心地よくて、そして金色の光を纏いながら治療に当たってくれるナビスがあまりにも綺麗で……ずっとにこにこしていたのだった。
澪の治療は5分程度で終了した。……恐らく、ナビスが余程念入りに治療したのだろうと思われるが、体の調子はすっかり良い。疲労も綺麗さっぱり消えて、まるで、9時間以上たっぷり眠って起きた朝のようだった。
そんな調子のよさなものだから、洞窟を出る時にも足取りは軽かった。一応、『戦利品』としてホロウゴーストの大鎌を持ち帰ることにしたのだが、重い大鎌を担ぎながらも足取りが軽いのだから、やはりナビスの治療はすごいのである。
「皆ー!ただいまー!」
そんな澪が洞窟を出て笑顔で手を振れば、そこに待機していた戦士達が皆揃って歓声を上げた。
「ホロウゴースト、やっつけてきたよー!ほら!」
そして澪が大鎌を掲げて見せてやれば、戦士達の歓声はより興奮を帯びた雄叫びのようなものへと変わっていく。『ホロウゴーストを!?嘘だろ!?』『あの大鎌、本物だ!初めて見た!』『やっぱり聖女様と勇者様ってのはすげえや!』と賛美の声が次々に上がるのを聞いて、澪は少々、誇らしい気分になった。
「あの、救助された方の容体は、いかがですか?」
「ああ、聖女様!俺の仲間なら……ほら!」
ナビスが3人の安否を心配してきょろきょろと辺りを見回すと、すかさず3人の仲間の男性がやってきて……そこで上体を起こして座っている3人の方を示して見せてくれた。
「皆無事です。太陽の光の下に帰ってきたら、体力も戻ってきたみたいです!」
「ああ、よかった……」
これで本当に、一安心だ。ナビスと澪は顔を見合わせて、笑った。
……中々に緊急事態続きの日になってしまったが、いい結果になって本当によかった。皆が無事で、助からなかったかもしれない人達が、助かった。これならば、働いた甲斐があるというものだ。
そうして一行は、メルカッタの町へ帰ることになる。
戦士達は勇ましく、かつ陽気に豪快に、勝利の歌を歌って歩いている。なので澪はその旋律を覚えて一緒に歌えるようになった。少し練習すれば、トランペットで演奏できるようになるだろう。戦士の1人に聞いてみたところ、戦士達の間ではポピュラーな歌らしいので、きっとウケがいいだろうと思われる。
「あの、ミオ様……」
だが、歩きながら、そっとナビスが耳打ちしてくる。
「その……大変申し上げにくいのですが、信仰心を全て、使い切ってしまいました」
……そう。
どうやら、貯めようとしていた信仰心が、すっかり使い果たされてしまったらしい。
「あっ、ごめん、私がホロウゴーストに突っ込んだせいか!うわー、そうだ、信仰心のことすっかり忘れてた!」
澪が治療を必要とすれば、ナビスは信仰心を消費することになる。つまり、澪が怪我をしないことは、澪の為以上に、ナビスと、ナビスが救うポルタナの為になるのである。そのことをすっかり失念していた。
澪が慌てていると、その横でナビスがより一層慌て始めた。
「い、いえ!違います!ミオ様のせいではありません!多くの神の力を消費せねば戦えない私のせいでして……!」
「あっ、でもナビス!心配は要らないと思うよ!」
ナビスがわたわたとフォローしようと頑張っているのを『本当にかわいいなあ』と思いつつ、澪は、にやりと笑って言った。
「……折角上手くいったんだしさー、彼らに信仰してもらお?」
……ナビスはまだ、気づいていないようだったが。
澪達の後ろでは、『こんなに気さくな勇者様も居るんだなあ』『それに、なんて美しく清らかな聖女様なんだろう!しかもそのお心まで美しいとは!』『たかが戦士数人を救うために命懸けで戦ってくださるなんて……』といった囁きが聞こえてきている。
これならば、信仰の下地はバッチリだ。地方巡業の成果はあった、と言えるだろう。
間違いなく、消費した以上の信仰心を得られる!