2人のはじまり
ざざん。ざざん。みゃう、みゃう。
洞窟の岩壁に、波の音と海鳥の声が反響する。水面に反射した陽光が天井に揺れて、ゆらゆらと明るい。
……ナビス・ラーフィカ・エクレシアは今日も、海辺の洞窟で祭壇に向かい、祈りを捧げていた。
夏の強い日差しが洞窟の入口から差し込んで、洞窟の中を薄く満たす海水も、ナビスの白銀の長い髪も、きらきらと煌めいて眩しいほどだ。
「……神よ」
ナビスはただ、祈る。彼女1人の祈りなど、あまりにちっぽけだと分かっていながら。
彼女にはこれしかできず、そして、これが彼女の役目であるので。
「どうか、この地にも、救いを!私に、あなたの力をお貸しください!」
ナビスの右手が、傍らに置かれていた聖なる銀の剣を握る。華奢な腕にはあまりに不釣り合いな代物であったが、それでもナビスはこうしなければならない。
「……明日、満月の夜に、ダンジョンへ行って参ります。どうか、ご加護を……」
白銀の刃を見つめるナビスの勿忘草色の瞳には、悲壮な決意が湛えられていた。
聖女ナビスが洞窟から見上げる空は、今日も只々、青い。
*
夏休みの始まりはいつも、微かな高揚感と気怠い暑さと共にある。
高校2年生の帆波澪は、吹奏楽部が大会に向けて練習する音に背を向けて、学校の校門を出た。
校門を出てすぐ、自転車通学のクラスメイトが「ミオ、またねー!」と声を掛けて通り過ぎていく。「またね」と返事をして、笑顔で手を振って、それから澪はまた、熱く熱せられたアスファルトの上を、ローファーを履いた長い脚で歩き始めた。
本日の最高気温は37度。午前中いっぱいで終業式を終えた澪の帰路は、うだるように暑い。ショートボブの髪を揺らす風すら熱風だ。そんな真夏のコンクリートジャングルを、それでも澪は、颯爽と歩く。女子にしては、澪はすらりと身長が高い。うきうきとした足取りと相まって、澪の歩く速度は中々のものだった。
そう。澪は今、少々不安ながらも、未知への期待と高揚感とを胸に抱いている。
だって、夏休みだ。それも、時間がたっぷりある夏休み。小学生の頃以来の、『何も無い』夏休みなのだから。
……澪は、中学生の頃からずっと打ち込んできた部活を、今日付けで正式に辞めた。
それ故に澪は、この夏休みをのんびりと、暇を持て余しながら過ごすことになる。こんなことは、澪にとって初めての経験なのだ。
「まあ、折角だから楽しむぞー」
思うところが無いわけではないが、それでも澪は前向きである。とにかく前向きなのが、澪のいいところだと澪自身、思っている。
なので今日も澪は、あくまでも前向きに、スクールバッグを肩に、トランペットのケースを背中に背負い、元気に下校しており……。
『あなたの力をお貸しください!』
「え?」
そこで何か聞こえた気がして、澪は立ち止まる。
誰かが助けを求めているというのなら、大変だ。この暑さだ、熱中症で倒れた人でも居たのかもしれない。
澪はきょろきょろ、と辺りを見回して声の出所を探る。
……すると。
先程の女性の声らしいものが、わんわんと反響しながら、側溝の金網の奥から響いてくるのが聞こえる。
「えっ、もしかして、中に人が落ちてる?え?ここに?まさかぁ……」
まさか、とは思うが、側溝の中からは、ざざん、ざざん、と波のような音が聞こえてくる。中は水が流れているのだろうか。だとしたら、案外この中は広いのかもしれない。
「えーと、あー、今、助けますから!」
これで何かの間違いなら、それはそれでいい。澪は夏の日差しに熱せられた金網に手を掛け、力を籠める。
かぽり、と案外簡単に外れた金網を傍に置いて、澪は側溝の中を覗き込んだ。
「え?」
その途端、ぐるり、と世界が反転する。
天は地に。地は天に。
そして、今まで空気であったものが、水に。
何が起こったのかも分からず、只々混乱したまま、澪は波に呑まれた。
後に残されたものは、外されて側に置かれた側溝の金網だけである。
*
澪は波に呑まれ、流され、なんとか浮上しようと藻掻く。
だが、どちらが上でどちらが下なのかも分からない状態だ。澪は只々、水流に翻弄され続ける。
そのまま、数秒、或いは数十秒……澪の息が限界を迎え、そして、丁度その時。
ざばっ、と音がして、澪は水の外に投げ出されていた。
幸いにして、肺に水が入るようなことはなかったらしい。息苦しさは混乱によるものだけであったので、比較的すぐ、落ち着いた。
ひとまず体が無事であったことを喜びつつ、澪はなんとか体を起こす。……先ほどまで水の中に居たのだろうに、何故か、体は濡れていない。荷物も、乾いたまま。それどころか、先程までのコンクリートの熱を確かに残して、ぬくもってさえいる。
不思議に思いつつ、澪は辺りを見回した。
……そしてそこで、澪を見て絶句している美少女を見つける。
抜けるように白い肌、白銀の長い髪、そして驚愕に見開かれた勿忘草色の瞳。
現実離れした美しさを持つ美少女を見て、澪は……ひとまず、愛想笑いを浮かべた。
「……どうも」
挨拶してみるも、絶句した美少女はわなわなと震えるばかりである。
これどうしようかなあ、夢かなあ、と思うも、石の床の冷たさも、反響して聞こえる波の音も、潮の香も、全てがあまりにリアルすぎる。
夢だといいなあ、と思いながらも、その望みは叶わないであろうことをもまた悟って、澪は暫し、美少女と見つめ合い、そして……。
「神よ!ああ、ああ……感謝致します!」
美少女は、感涙を流しながら、澪の前に跪いた。
「え……神?うん、あの、え?えっ……?」
澪は只々困惑する。何故か、美少女に崇められているが、当然ながら身に覚えは全く無い。
「神よ!私のこの身、この魂……私の全てはあなたと共に在ります!ああ、よくぞ顕現してくださいました!神よ!神よ!」
「いや、神!?神なの!?えっ、私、神……!?神だった!?私、神だった!?」
混乱している。澪は間違いなく混乱しており、そして、美少女もまた、感情のオーバーフローによって混乱している。
ざざん。ざざん。みゃう、みゃう。
波の音と海鳥の声が反響する、海辺の洞窟の中。祭壇の上。
2人の少女は只々、混乱していたのであった。
……これが、後に『救世の女勇者』と称えられるミオ・ホナミと、『最後の聖女』と称えられるナビス・ラーフィカ・エクレシアとの出会いであった。
または、プロデューサーとアイドルの出会いであった、と言っても、概ね間違いではない。
更に或いは……これから親友となる少女2人のはじまりであった、とも、言える。