第89話 やる気
体育祭の練習が始まって数日。
あれから、桐斗が練習中に絡んでくることは無くなった。代わりに、授業後の休憩時間や昼休みに声をかけてくることが増え、その度に千恵美達が助けてくれるので、紗奈は彼女らに頭が上がらなかった。
「次は体育祭の練習だし、あいつも大人しいだろ」
「うん。いつもありがとうね! チエちゃん達がいてくれると、すごく心強いの」
紗奈がそう言ってはにかむと、千恵美はいつものようにプルプルと震えだして、紗奈に抱きついてくる。
「ひゃあっ!? き、きき、着替え中はちょっと……恥ずかしいよっ!」
体育着に着替えている途中だったので、紗奈は驚いて悲鳴をあげる。
「もう。チエちゃんったら」
「ごめんごめん。紗奈ちゃんが可愛すぎるから、つい」
「褒めてくれるのは嬉しいけど……。着替え中はやっぱり、恥ずかしいから駄目」
紗奈は頬を赤く染め、困り顔で脱いだばかりのワイシャツを抱きしめた。
そんな反応も可愛らしいので、千恵美はふるふると震えながら、自分の手を押さえつけた。我慢の表情を浮かべている。
「着替えが終わったら、ハグしてもいいよ」
紗奈はそう言うと、ロッカーにしまってあるハンガーに制服をかけて、代わりにロッカーの中から自分の体育着を取り出した。
「紗奈ちゃん。大分ハグに慣れてるよねえ」
「ふふ。チエちゃん、よくギュッてしてくれるから……」
紗奈はそう言って笑う。体育着を着終わったので、ハグの準備はバッチリだった。千恵美にハグをしてもらった紗奈は、くすくすとくすぐったそうに笑う。
「それだけかしら? 彼もハグ、してくれるんでしょう?」
美桜がニマニマとからかい顔でそんなことを言うから、せっかく赤みの引いていた頬が、ぽっと赤くなってしまった。そんな紗奈を見て、千恵美は更に「可愛い」と抱きしめる力を強めてくる。
「う、うん……」
紗奈は照れくさそうに頷くと、急いで自分のロッカーのダイヤルを回し、ロックをかける。そして、更衣室の入口まで駆け足で向かうと、「早く行こ!」と言って、先に更衣室を出ていってしまった。
それぞれのロッカーには、三桁のダイヤルを設定出来る造りになっていて、美桜と千恵美も急いでダイヤルを設定すると、紗奈を追いかけるように更衣室を出る。
紗奈は更衣室を出てすぐの廊下で、熱くなった頬を両手で押えて二人を待っていた。
。。。
体育祭の練習では、千恵美とも美桜とも離れなければならない。千恵美は二百メートルハードル走で、美桜は借り物競走に出場する予定だった。
「じゃ、また後でね」
「うん! 練習、頑張ろうね」
「もちろん!」
紗奈は千恵美と美桜と別れて、今度は悠の近くに収まった。すると、悠は周りから嫉妬されてしまうのだが、視線を送れば紗奈が不機嫌な顔をする。男子生徒達は、嫉妬心を表に出さないように気をつけているらしい。
「いいよなあ。同じ中学なんだっけ」
「うん、まあね……。立花さんや、あっちにいる白鳥くんとも同じ中学だった」
同じ徒競走に出る予定のチームメイト達にも、悠は羨ましがられている。ただ、徒競走に出る生徒達は、悠がこの体育祭の練習でも活躍していることを知っているので、幾分か態度が柔らかい。
「立花さんもかあ……。そっちの中学、可愛い子多かったんだなー」
「羨ましいぜ」
と、羨んではいるが、冗談めかして言っているだけのようで、全員がケラケラと笑っている。
悠はほっと息を吐くと、紗奈を横目に見つめた。紗奈も悠の方を見ていたようで、目が合ってしまった。と言っても、学校での悠は前髪で瞳を隠しているので、紗奈からは目が合っていることは分からないだろう。
「な。可愛いって話してて思ったんだけど、小澤って鼻とか唇の形、意外と整ってね?」
「あ、それ思った。背も高いし、運動も出来るし……垢抜けたらいい感じになりそうだよねー」
「わかるー」
とある男子の言った言葉に女子達も反応して、悠は居心地が悪くなる。隣の紗奈にもう一度チラッと視線を送ってみたら、ヤキモチが顔に出ないように我慢しているようで、ちょこっとだけ変顔のようになっていた。
「あ、先生来るっぽいよ。整列しよ」
寛人がそう言うと、チームメイト達はささっと移動して、一列に整列する。順番は走者順なので、アンカーの悠が一番後ろに並び、そのひとつ前に紗奈がいる。
「まだ五月だが、水分補給はしっかり取るように。怪我に気をつけて練習するんだぞー」
体育の先生が点呼を取り終えると、すぐにそれぞれの練習に入る。準備運動やアップなんかは、チームメイトの団結力を高めるために自分達でやるように。との事だった。
「今日は青組に勝てるように頑張ろうぜ」
チームは色の名前がつけられている。紗奈達一、二組は赤組で、三、四組が青組。五、六組が緑組。七、八組が白組の四色である。
そして、毎週木曜日の六限目にあるロングホームルームの時間を使って、学年全体で体育祭の練習が行われる予定があり、今日はその木曜日なので、学年練習が行われる日なのだ。
今のところ、紗奈赤組の徒競走は最下位だった。せめて、その前の青組くらいは抜かせるようになりたい。
今日こそは。と、全員が張り切っていた。
「が、頑張るね」
紗奈が一番足を引っ張ってしまっているので、毎日一人で走る練習をしている。真人が休みの日には、彼にも手伝ってもらっている。
「少しずつ、タイム伸びてきてるもんね」
紗奈の頑張りを聞いている悠は、そう言ってふわりと笑った。
それだけで紗奈のやる気がグンと上がるので、彼女は両手をギュッと胸の前で握りしめて、気合を入れた。