第86話 おねだり
照れた紗奈の表情は可愛い。そんなものを見せられては、何だってしてやりたい気分になってしまう。
悠はそう思ったが、どんな要求をされるのか分からないのでは、テキトーな返事なんてできなかった。
「どんな? デート? それとも、何か欲しいものでもある?」
「あの、あのね……ん……」
紗奈はもじもじと恥ずかしそうに、悠の胸に顔を埋めると、チラッと潤んだ目で悠の瞳を見つめてくる。
悠は長い前髪をヘアピンで留めているせいで、紗奈とバッチリ目が合ってしまっているのだ。
紗奈の潤んだ瞳を見ていると、悠の顔も段々赤くなっていく。紗奈の表情が、あまりにも扇情的に見えて、悠はまたごくりと息を飲む。
「あのね、が、頑張ったら……その……き、キス……して欲しいの」
「はぁ?」
予想外のおねだりに、悠は思わず素っ頓狂な声が出た。(キスってあのキスか?)と、IQがいくらか下がった事を考えて、固まった。
悠の心臓はドキドキと、今までにないくらいに高鳴って、紗奈の目を見ていると吸い込まれそうになってしまう。それでも、悠は衝撃で目を逸らすことすら出来なかった。
「付き合ってから結構経つのに……そういうこと、まだ一度もしてないんだもん」
しゅんと悠の胸に顔を埋めて、紗奈はまたグリグリとその胸に頭を押し付ける。
それを言うなら悠だって、付き合って今まで一度もそういうことを考えたことが無いわけではなかった。
ただ、紗奈との関係を周囲に隠している今。付き合っていると言えども曖昧で、誠実ではないような気がしている。
だからこそ、悠にとってキスやキス以上の事なんて、軽々しく出来るものではなかった。
今の関係をちゃんとしてから、次の段階に進みたい。と、悠は思っていたのだ。
(だって、まさか、紗奈の方からおねだりされるとか、思わないでしょ……っ!)
「ゆ、悠くん……? な、なんで…何も言ってくれないの……?」
紗奈が悠を不安げに見上げると、悠の顔にぶわっと一気に熱が集中した。意識せざるを得ない。
(ああ…ヤバい。今すぐしたい……!)
悠の視線が紗奈の唇に集中する。紗奈もそれに気がついて、ぽっと頬を染めた。そして恥ずかしそうに俯いてしまうから、悠の羞恥心が限界を迎えそうになる。
「頑張ったら…頑張ったら……な」
悠はそう呟くと、ぎゅうっと紗奈を抱きしめる。
(俺も頑張るから、そしたら…キス、してもいいのかなあ……?)
「うん……」
と、紗奈も恥ずかしそうな小声で返事をした。
。。。
家に帰ったら、紗奈はすぐに部屋に閉じこもって、ベッドに突っ伏した。そして暫く沈黙した後、バタバタと足をばたつかせる。
「きき、キスのおねだり……しちゃったぁ…………」
枕をぎゅっと抱きしめ、暫く悶絶した紗奈は、途端に真剣な顔になって悩みだす。
(キスって、どんな感じだろ……。こう…目は、瞑る? 唇って、尖らせてもいいのかなあ?)
エア練習をしながら、紗奈は悠の顔を思い浮かべる。
(悠くんとキス……。あ、あんな真っ赤な顔で狼狽える悠くん、初めて見たかもー……)
今もまだドキドキしている。あんなにやる気の起きなかった体育祭が楽しみになった。明日からの練習も、憂鬱だったはずなのに。悠のおかげで頑張れる気がする。むしろ頑張ろう。という気持ちになっていた。
「……っ! っえへ。えへへへ……」
紗奈はまた枕を抱きしめ、抑えられないニヤケ顔で、バタバタと足をばたつかせる。
色々な意味で我慢が出来なくなって、紗奈は菖蒲にチャットのメッセージを送った。
『体育祭、頑張ったら悠くんがキスしてくれるって。どうしよー!』
思わずしてしまった報告に、菖蒲から不機嫌なメッセージが返ってきた。
『そんな報告すんな! ばか!』
それでも最後には『頑張れ』とメッセージが届いたので、紗奈も頑張ろう。と気を引き締め、両手の拳を胸の前で握りしめた。