第80話 過去を知る者
突然和也が触れてくるから、更に顎を乱暴とも言える角度まで上げられてしまったものだから、紗奈は物凄く驚いた。
「あわ……」
「面白いね。北川さんって」
抵抗しようと全身に力を入れると、紗奈は和也を睨むように見つめる。
すると、和也は面白い玩具を見つけた無邪気な子どものような表情で「くくっ」と笑った。
「あの……」
ブーブーブーブー
教室内から電話の音が鳴り響く。
「あれ? まだかけてないけどな」
廊下を走る音も聞こえてきた。
そして、バンッと言う大きな音とともに、唐突に名前が呼ばれる。
「紗奈っ……!!」
ドアのヘリに手を添えて、紗奈を見下ろした悠は、急いで走ってきたのか、汗だくで息があがっている。
「隣のクラスの……」
煙草を片手に悠を指さすと、悠がその場から紗奈を避難させようと、グイッと腕を引っ張った。痛みを全く感じないのは、悠が体ごと全て支えてくれたからだろう。
「き、君は…確か……?」
悠が息を整えながら、どこかで見た記憶のある和也の事を思い出そうと、思考を巡らせる。
「ラキ?」
悠が彼を思い出す前にそう呟かれてしまい、悠の表情が強ばった。
「な、んで……?」
声が酷く震えたのが、自分でもわかる。悠は強ばった表情のまま、和也を見つめる。
「うちの親、新聞記者なんだ。体育の授業の時にあんたの名前を聞いて、その時からそうだと思ってたよ」
「悠くん。ラキって……?」
紗奈は悠が嫌がる事は聞かないし、調べたりもしない。悠が元俳優の子どもである事は知っているが、元子役である。という事は知らないのだ。
「俺の子役時代の芸名……ラキって言うんだ」
「子役……」
「なんだ。知らなかったの? そんなにくっ付いてるってことは、付き合ってんでしょ?」
悠が紗奈を後ろから抱きしめているので、和也は指をさしながらそう言った。和也は煙草の火を消すと、携帯灰皿に吸殻を入れて教室に入ってくる。
悠はそんな和也を睨むように見つめ、紗奈を抱きしめる手を強める。その手が少し震えていたので、紗奈はそっと悠の手に自分の手を重ねた。
「紗奈は俺に気遣って、過去の事も何も聞いてこないんだ」
「そう。嫌な事を思い出させたみたいだね」
鞄を手に取り、和也はまた近づいてくる。
「ねえ、煙草の事、内緒にしてよ。君達の関係も誰にも言わないからさ」
「……」
「悠くん……?」
怯んで何も喋らない悠。そんな悠の手をギュッと握って、紗奈は心配そうに悠の顔を覗いて見た。
あがっていた息は整っているが、汗は今も新しく滲んできているようだった。
「お願いね」
「ごめんね」と小さく呟いて、和也は教室を出てく。
悠は暫く固まっていたが、落ち着いてくると、その場で「はあっ」と大きなため息をついて、誰かの机に手をついた。
「大丈夫!?」
今度は、紗奈が後ろから悠の事を支える番だ。悠の背中を支えてやると、悠がふとこちらを振り返って、小さな笑みを作った。そして、長い前髪を手で無理やりあげる。汗だくだったせいか、手を離しても髪がうまく落ちてこなかった。
紗奈はとりあえず、持っていたハンカチで汗を拭うと、髪を手で優しく撫で、直してやる。
その工程もあって、少しずつ冷静になっていく。やっと気持ちが落ち着いてきたのだ。