第17話 夫婦の晩酌
紗奈の父親である北川真人が帰ってくると、紗奈は父を出迎えるため、玄関に急いだ。パタパタとスリッパの音が鳴っている。
「おかえりなさい!」
「ただいま。今日は紗奈も料理をしたの?」
紗奈はエプロンをつけているので、彼女が家事を手伝ったことにはすぐに気がついた。
「うん。今日はカレーだよ」
「そうだね。いい匂いがする」
玄関先にも匂いが漂っているので、聞かなくても今日のメニューがカレーであることはすぐに分かった。真人はにこっと笑う。
「楽しみだ」
「お父さん、カレー好きだもんね」
「ああ。俺が初めて食べた母さんの手料理だからね」
紗奈は父の優しい笑顔が大好きだ。両親の仲の良さを再認識して、紗奈はぽっと頬を赤らめる。
「私もお料理、勉強するんだ」
「誰か食べさせたい人でもいるの?」
「…うん」
紗奈は一層赤みの増した顔で、小さくはにかんだ。
「……そっか。紗奈も大きくなったんだな」
真人は一瞬、寂しそうな顔をしてしまったが、娘が異性に興味を持つくらい大人になったのだ。と成長を嬉しくも感じる。
紗奈の頭をぽんぽんと撫でると、スーツを着替えるために両親の寝室へと向かった。
「ただいまー」
由美や義人にも聞こえるように、リビングを通り過ぎる際に声をかけながらだ。
「はーい。おかえりなさーい!」
「ぱーぱ! おかえんなさーい」
「ただいま。義人」
義人がリビングから出てきて真人の足に引っ付いたので、真人は一緒に手を洗いに行こう。と誘って、着替えるより先に義人を抱え、洗面所に向かった。
。。。
その日の夜。紗奈と義人が眠る頃に、真人と由美は夫婦で晩酌を交わしていた。
「紗奈は恋でもしてるの?」
「そうみたい。王子様みたいな人だって」
「へえ……。そんな人が現実にいるんだ」
真人は由美の作った豚ロースとチーズのつまみを、手でひょいっと口に入れて、そう言った。その表情はやはり、少しだけ寂しそうだ。
「あなただって、私から見たら王子様みたいなものよ?」
「そんなに立派じゃないだろ?」
「立派よ。あなたはいつも私を助けてくれたじゃない? まるで王子様だったわ」
「由美にだけだよ。そんな王子様みたいな奴になれるのは」
「あら。そうじゃなきゃ、妬いちゃうわよ」
真人が優しいのは、基本的に身内に対してだけだ。大学では単位の危ういものに厳しいことも言うし、結婚指輪をつけているにも関わらずアプローチをかけてくる女性には冷たい態度をとっている。
「そしたら由美も、俺だけのお姫様でいてね」
「ええ、勿論」
くすくすと笑って、二人はコップに缶から二人で分けて注いだビールを、口にする。
「由美は知ってるの? 紗奈の想い人」
「ううん。名前も聞かなかったよ。土曜日にデートするみたいだけど」
「デート……? そんなに進んでるのか!?」
「大きな声出したら起きちゃうよ」
驚いてしまった真人が、少しだけ大きな声を出したので、由美は「しっ」と人差し指を立てた。
こくりと頷いて、真人は大人しくなる。
「聞いた話だと、本を貸してもらうだけだって言ってたけど」
「本…か。え? 家に行くの?」
流石に、可愛い娘が男の家に行くだなんて、まだ真人は許したくない。
いざとなったら彼に調べてもらうか……。なんて、腹黒いことを考えている。
「図書館だって言ってたわ。心配しすぎ」
「心配にもなるよ。男は狼なんだぞ?」
「そう? あなたは、なかなか私に対して狼になってくれなかったけど?」
由美は、ぷくっと小さな子どものように頬を膨らませ、ジト目で真人を見やる。
「それは、由美があまりにも純粋だったから……」
中学、高校と女子校育ちだった由美は、真人が初めての交際相手だった。
手を繋ぐのも、抱きしめたり、キスをするのも、当然その先も。全部真人に教えてもらったのだ。
恋人同士になるまでは、子どもがどうやって生まれてくるのかすら間違った知識で覚えていたくらいなのだから、当時は由美に配慮して、中々先になんて進めなかった。
居心地が悪くなった真人の視線は右往左往していて、狼狽えるその様子に満足した由美がくすくすと笑いだす。
「ちょっと。笑わないでよ」
「ごめんなさい。だって、あなたってば結婚するまで浜野さん。なんて苗字で呼ぶしさ」
「そっちだって、ずっと北川くん呼びだっただろ」
「懐かしいね」と二人は笑い合う。
「それで、明日紗奈と一緒に服を買いに行こう。って」
「明日? それなら義人は俺が見てるよ。明日は俺の講義、休みだから」
「ふふ。ありがとう」