67 ゆめの境目
熱にあえぐ。夢に落ちる。
記憶の海のただなかは『過去』がひどく濃厚で『今』が薄い。ずっと昔に嗅いだ雨上がりの丘の匂いも、くせのある紅茶色の髪を櫛けずる手触りも、何もかも。
そのときに抱いた感情すらも生々しくて、ヨルナははじめ、それを夢だと気づけなかった。
まるで、生を終えたあとの一瞬。
魂だけで神様のおじいさんのところへ引き寄せられる、あの慣れた道程のように。
時の法則を無視して、己のなかに蓄積した出来事をゆっくりと辿る。
たゆたうのだ。
* * *
あの日。
夏になるたびに村を訪れる、ほっそりとした銀髪のひとがお姫様なのだと大人たちの噂話で知った。
体の丈夫なかたではなかった。今思えば避暑と療養を兼ねていたのだろう。
あのかたが恋に落ちていらっしゃるのは、誰に聞かずとも明白だった。
笑顔がすっかり翳ってしまわれた理由も。
――人間として過ごした事実を、周囲から記憶ごと消して、猫になって。ひととしての心も残していた、あのわずかな間。
あのかたの瞳に、お姫様を見つめるときの甘さと切なさを見つけて胸がしくしくと痛んだ。
それが一度めの、最後の記憶。
*
(二度めは――そう、商家のご子息だった。私は小さな織物工房の娘で)
父と納品に行くと、ときどき彼に対応してもらえた。
織りの出来が良いと、とても褒めてもらえるのが嬉しくて精一杯がんばった。
そんなとき、彼が近くの神殿に納められた巫女様を一途に慕っておいでだと、お屋敷の同じ年頃のメイドさんに教えてもらった。
(そのかたが還俗して、あっさり他所にお嫁にゆかれたのよね。なんてお声をかけたらいいかわからなかったから。あの時は、お慰めしたい一心で目の前で猫になっちゃったけど……)
暗転。
場面が変わる。
三度めは、お互いの家に行き来のある、地方貴族の幼なじみだった。
思いきって『好きなひとはいる?』と聞いたら、動物好きな従姉妹のお姉さんだと言ったから。猫になって、仲を取り持ってあげたくて……。
結果がどうなったかは、わからずじまい。
*
四度めの私は、身よりをなくした孤児だった。さいわい村の神官様が引き取ってくださり、息子だったあのかたは跡取りの神官見習い。
十数年、同じ家で暮らせた。実の妹のように優しくされて、天にも昇りそうだった。
村長の娘さんとの婚約が、生まれる前から整っていたというのに。――なぜか、一方的に破棄されてしまって。
先方からは『あの子さえいなければ』と彼女が漏らしていたと聞いて、打ちのめされた。
邪魔だった?
血の繋がらない孤児が本当の妹のように、と。
目障りだったんだろうか。親戚として付き合いたくない、とか。
『ごめん。理由は言えない』
そう言って塞ぎ込むあのかたを見ていられなくて。
小さな動物だったら、前のように微笑んでくれるかしら、と、身を切られるように能力を使った。
それが、前世。
それらがすべて。
「わたし……今回はどうしたらいいのかしら」
「姫様っ? あぁよかった! お目覚めになりましたか」
急くような、聞き慣れた声に、意識が瞬時に戻る。
口のなかがカラカラ。
ぼうっとする視界のなか、自分を心配そうに見つめるサリィを見つけた。
「サリィ……? ここは」
「ジェイド公爵様のお城ですわ、ヨルナ様。お見覚えはありませんか?」
「ある、わ。そっか、私、倒れ…………っ……!?」
「? どうかなさいました? お辛いところが?」
――――思い出した。
アクアジェイル。
猫を抱いたアイリス。
……ルピナスに、求婚された。
たちまち力が抜ける。なかば起き上がろうとしていた上半身を、再び寝台に沈めた。
「大変。やはり熱は……まだありますね。とにかく、お医者様を呼んで参ります。お水は飲めますか?」
「いただきます。サリィ大好き」
「あら。ふふふっ。ご冗談を言えるのでしたら、大丈夫ですね」
ころころと笑い、サイドテーブルにあった玻璃の水差しから清水をグラスに注いでくれる。
ヨルナは背に手を当てられながら体を起こし、こくこくと飲み干した。ふう、と人心地つく。
「あ、待って。私、どれくらい寝てたのかしら。運んでくれたのは騎士様?」
医師の手配のために退出しようとしていたサリィの背に、あわてて問いかけた。カーテンが閉まっているが、おそらくは夜。
迷惑をかけたひとには、とにかく謝罪をしなければならない。旧エキドナに関する会談も、どうなったのか。
つ、と立ち止まったサリィは肩にショールを掛けながら振り返った。
「倒れられたのが今朝ですから……丸々半日ねむっておられた計算になります。姫様を運んでくださったのはルピナス様ですよ」
「ル」
はくはく、と口を開閉して「……え?」と聞き返すヨルナに、サリィはうっとりと頬を手に当てて答えた。
「びっくりしました。素敵でしたよ、ルピナス様。お顔はアイリス様にそっくりでいらっしゃるのに、しっかりと姫様を両手に抱えて懸命なご様子で……。今夜は遅うございますから、明日、お加減が良くなればお礼に参りましょうね」
「は、はい」
パタン、と扉が閉められ、隣を伺うときちんとベッドメイクされた寝台は空っぽ。
ひょっとしたら、晩餐などが催されたのだろうか。ミュゼルの不在にようやく気づく。
(ううう。ほんと、どうしたらいいの? こっちが夢だったら良かったのに)
頭を抱え込んでしばらく。
ヨルナはこっそり、ひたすらもだえ転がった。