62 女将軍イゾルデ
夕闇に沈みつつあるアクアジェイルの都はうつくしかった。
傾斜の緩い平野部に沿って蛇行する街道の終着点。
王城のように丘に建っているわけではない。それでも『あれ』が公邸なのだと一目でわかる。
カラカラカラ……と、鳴る車輪の音にも邪魔をされない、澄んだ中性的な声でルピナスは言った。
「今でこそ一貴族とはいえ、我がジェイド家は、元は自治権を有していました。――“アクアジェイル公国”という小さな国です。ずっとずっと昔、最後の女大公がゼローナの王に嫁いで。生まれた子の一人が臣下にくだり、公爵位を与えられました。以来、魔族領との国境を預かる者として、将軍位も継ぐのが慣わしとなっています」
「あぁ……。だからお城みたいなんですね。公邸、とは呼びづらいです。王都とも。ゼローナのどの建築様式とも異なります」
「どうも」
車窓の枠につかまり、顔を出しかねないヨルナの称賛に、ルピナスがくすぐったそうに微笑む。
黒々とした森を背景に、あかあかと燃える夕日が沈んでゆく。
長く伸びる赤金の光を受け、四角く街を囲む壁と中心にそそり立つ尖塔群の石材が、曰く言いがたい輝きを放っていた。
ゆらぐ、青。
深い深い湖の青が白砂に打ち寄せて引くときのような煌めき。影が青。光はどこまでも澄んでいて色を感じさせない。なのに、夕陽の当たらない場所は乳白色のようだった。
それで、今は街が茜色の水辺そのものに見える。不思議な光景だった。
「きれいです……」
「俺も、日没と夜明けのこの城を見るのは特別に好きだな。エリック!」
「はっ」
「先駆けを。そろそろ俺たちが到着する旨を伝えてきてくれ。門で合流しよう」
「畏まりました」
馬車のすぐ横を走っていた黒い詰め襟の騎士が頷き、鞭を打つ。
栗毛の体表にうっすらと汗をかく馬は石畳を鳴らし、すみやかに外壁の大門に向けて駆けていった。
* * *
「これはこれは、王太子殿下……! アストラッド王子もお久しゅう。このたびは、わざわざ娘のアイリスを送ってくださり、感謝申し上げます」
「いえ、イゾルデ殿。大切なお嬢様に遠路はるばるお越しいただいたのです。私自身がお付き添いできて幸いでした。弟は後学のために、と。こちらが陛下より預かりました。親書です」
「承ります」
――もはや城。
公邸の応接室というよりは、異国の謁見の間というほうが相応しかった。
濃度の違うアクア輝石を組み合わせ、ステンドグラスのようなグラデーションを描く青い壁と天井。玻璃の雫石を連ねた飾りが繊細なシャンデリアがそこかしこに垂れ、ダイヤモンドのような屈折率で広間中を照らしている。
全体的に縦に長い設計。それで聖堂じみてもいる。
床は大理石のような質感で、緋色の絨毯が敷かれていた。
将軍職を兼ねる女公爵イゾルデは、一段高くなった椅子には最初から座っていなかった。
朗らかに笑い、はきはきと話す。
動作に無駄もない。
無駄な追従も一切しない好人物と感じられた。
藍色の髪を両頬の横でいったんたわめ、紅玉の粒をあしらった白いヘッドドレスでまとめて再び結っている。
襟飾りは白のレース。こちらにも紅玉があしらわれ、ドレスは黒に近い濃紺。
面差しはさすがにルピナスに似ていた。
女性なのだが、ルピナスよりも雄々しい印象を受ける。さすがは国境を守護する女将軍――といった貫禄か。
ヨルナは、サジェスとアストラッド、それにアイリスに扮して大人しく佇むルピナスの後ろに、ミュゼルとともに立っている。
「そちらは」
(!)
視線を流され、示し合わせたように、ミュゼルと同じタイミングで礼をとった。
「お初にお目にかかります、イゾルデ・ジェイド公爵様。カリスト公爵が息女ヨルナにございます」
「わたくしはエスト公爵が四女。ミュゼルと申します。お会いできて光栄に存じます」
「私がお招きしました、母上。お友達になれましたので。お近づきの徴にと」
「そう」
我が子とちらり、と目配せし合ったイゾルデは、泰然と微笑んだ。
「――歓迎します。愛らしいかたがた。ようこそアクアジェイルへ。私には息子もいるの。ルピナスというのだけど、そちらとも宜しくね」
「はい、公爵様」
「喜んで」
「イゾルデ、でいいわ。殿下がたも。今日はお疲れでしょう。部屋を用意してあります。皆様、今宵はゆっくりとお休みくださいませ」