4 神さまへの啖呵
『アーシュ』と呼ばれた少年は、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね、姉が。怪我はない?」
「はい。大丈夫ですが…………まさか、第三王子殿下でいらっしゃいます?」
「うん」
ほんのりと微笑む目許は金色の睫毛に縁取られた、深い海のような紺碧の瞳。ビスクドールみたいなミルク色の肌。少し削がれ始めたらしい柔らかみの残る輪郭には、少年期特有のストイックさがある。
細められたまなざしに、視界の端でサリィがぼぅっとするのが見えた。
あぁ。今生も、彼の人たらしは健在……
それでも。
す、と瞳を伏せたヨルナは淑やかに公爵家令嬢にふさわしい礼をとった。染まる頬を見られぬよう、声が震えぬように、つとめて平静を保つ。
「どうやら、知らぬ間に姉姫様のご不興を買ってしまったように存じます。仲裁に入っていただけましたこと、誠に幸いでした。
――お招きいただけた茶会よりも先だってのご拝謁、光栄にございます。アストラッド殿下」
「……っ! も、申し訳ありません殿下。失礼を」
サリィも慌てて上体を傾げ、低く頭を垂れる。アストラッドは「いいよ」と、鷹揚に頷いた。
どきん、どきんと胸がうるさい。顔を上げられない。
薔薇色の絨毯に落とした視界に、ふいに手袋をはめた手が差し出された。動揺を隠して右手を重ねる。すると。
「!」
見た目の印象よりもしっかりとした両手で、手指全体を包まれていた。
驚いて、跳ねるように見上げると、ごく近い位置から尊顔を仰いでしまう。
かぁぁ……っと血が昇る。まちがいない。赤面してしまった。
本日、御年十五を迎える王子はヨルナの手の甲に唇で触れた。
それから悪戯そうに片目を瞑り、人差し指を口許に当ててみせる。
「姉上と私が決まりごとを破ってここに来たことは、どうか秘密にしてね。ヨルナ嬢」
「……はい」
もうだめ。麗しすぎて何も喋れない。
忙しく瞬き、こくこくと頷く小柄な少女にもう一度あでやかに微笑むと、王子も先ほどのロザリンド同様、数歩下がって存在ごとかき消えた。
しん、と室内が静まる。
サリィが呆然と口をひらいた。
「ヨルナ様、あれ」
「……そうねサリィ。正真正銘“王家の魔法”だった。空間魔法。凄いよね……」
いたって冷静に返しつつ、二重の意味で意識を奪われた。
――ゼローナ直系王族のみに伝わる空間魔法。その、危険なほどの鮮やかさに。
世界中どこを見ても、彼らしか持ち得ない奇跡の技は珍重され、ときに他国からも狙われた。幾度も戦争を仕掛けられ、そのたびはね退け続けたのもまた、かの魔法によるところが大きい。
ゼローナが得た大きな国土は、打って出た成果ではない。守り、返り討ちにした結果なのだ。
大きすぎる権力を与えられた公爵家や、他の貴族が謀反を起こさないのも理由がある。実質的な意味で、誰も王家の人間を害することなどできないとわかっているから。
そして、あと一つ。
(なんで)
ヨルナは俯き、顔をしかめた。
膨らみ始めた胸元を、ゆるく握った拳で押さえる。つらい。どうして。
――齢十二。恋を知るのはまだあとでも良かった気がした。考えるよりも先に惹かれてしまった事実に打ちのめされる。
今生も、絶対に高望みなんてしない。
きっと、あのとき添い遂げられなかった姫君を探し出して、お幸せに。
きつく眉根を寄せるヨルナは、ちらり、と脳裏を掠めた記憶――やれやれと首を横に振る、やたらと人間くさい翁姿の主神に対し、啖呵を切った。