15 吐息もかかるほどに
澄んだ清水が湛えられた池のなか。
微風のさざ波の向こう側で、ロザリンドは詰め寄る侍女たちの非難をつん、と聞き流している。
一見して舟に戻るべきではないな、と判断したヨルナは、すみやかに反対側の岸を目指した。騒ぎを聞きつけた衛兵が数名駆けつけ、「誰か! 女官長どのに知らせを!」などと叫んでいる。
「……っく、う……」
一番近くにいた兵に助けられ、なんとか岸へ。水を吸ったドレスはずっしりと重く、容赦なく肌に張りついた。
軽く息を切らしていると、濡れて冷えはじめた全身にふわりと大きな布を掛けられる。
上品な光沢。刺繍のない白い一枚布――マントだ。
(誰?)
見上げると、逆光で顔は見えなかったが、ずば抜けて高貴な雰囲気が漂っていた。まさか。
「――失礼」と、透明感あふれる、温かみのある声が降ってくる。ヨルナは順当にマントにくるまれ、そのまま軽々と抱き上げられた。
すごく。
ものすごく、大切そうに抱えられている。
(?? 重くない? うそ。重いですよね……!?)
赤くなったり青くなったりしつつ、ヨルナは抗議とも取れない主張を精一杯にしてみた。
「でっ……、殿下!? いけません、濡れてしまいますっ。どこも怪我はありませんし、歩けます!」
泡を食って慌てふためくヨルナに、『殿下』ことアストラッドはまったく動じない。貴公子さながらの眉をひそめ、紳士そのものの口調で謝罪する。
「本当に……、たびたびすみませんヨルナ嬢。窓から一部始終見えていました。本当に、あの姉ときたら。お願いだから運ばせて。お部屋は? 客棟の二階ですか?」
「は、はい」
見つめられ、早鐘を打つ胸に握った両手を押し当てたヨルナは、かろうじて頷いた。
途中、心配そうに見守っていた兵が恭しく交代を申し出るも、アストラッドは歩みを止めない。極めつけにさらりと一瞥。
「いいよ、僕が行く」
まるで取り合わず、ずんずんと城に向かった。
* * *
芝生を越え、見事なモザイク模様を描く石畳の広場を越えてアーチ型の門をくぐり、何度か通路を曲がると、たちまち見覚えのある区画に入った。
王子がさっき言っていた。客棟だ。
すると、ふっくらとした頬の女官長が進行方向の曲がり角から、まろぶように現れた。
青ざめている。
気の毒に、兵からの詳しい知らせが届いたらしい。
「何と……! おいたわしい。大丈夫ですか、ヨルナ姫? ありがとうございます、アストラッド殿下。よろしければこのまま」
「うん。湯殿かな、整ってる?」
「えぇ。万事。いたみいります」
「構わないよ」
「……」
近い。吐息も感じられるほど夢のような状況に、ひたすらぼうっとする。無条件に見とれていた。
それに気づいてか、青玉の視線がヨルナの面にぴたり、と落とされる。
歩調は変わらず優しい。とてもきびきびと素早いのに。
王子は、ふと口をひらいた。
「ごめんね。僕なんかで」
「! 『なんか』だなんて……。とんでもないことでございます、アストラッド様」
「“アーシュ”でいいよ。ヨルナ嬢」
「え」
予想外の事態に、ヨルナはいっそう固まった。あやうげなく自分を抱き止める手が。指が急に生々しく思えて、じわっと頬が熱くなる。
およそ十数分間のお姫様抱っこにかかわらず、ぶれない体幹。さりげなく筋肉のついた腕。迷いのない足運び。
それら、すべてに気づいてしまったヨルナは口許をもにょもにょさせ、忙しなく瞳を揺らして瞬いた。
アストラッドは、それまで眉間に刻んでいた険を和らげ、みるみるうちに瞳を和ませる。
おそらく、どんな無骨な頑固者だって、一瞬でほだされる笑みだった。
「家族や親しいひとは、みんなそう呼ぶんだ。姉の無体を許してほしいとか、『お詫び』とかじゃなくて。…………一目あなたを見たときから、なぜかな。ずっと気になってた」
「アス……、アーシュ様?」
戸惑う姫君に、アストラッドはどこまでも染み入る声で、やさしく笑う。
「どうか、僕と仲良くしていただけませんか。ヨルナ嬢」