冷遇された聖女は孤高な魔王の寵愛で甘く溶かされる

作者: ちはやれいめい

 ごきげんよう。サラヴィエと申します。

 私は今、知らない国のどこかの塔のてっぺんに閉じ込められ、手錠で繋がれています。

 囚人のような扱い、ちっともご機嫌よろしくないですわ。


 世界にただ一人だけ、癒やしの魔法を持つ聖女。

 それが私。なんで私は、望みもしないのに聖女なんかに生まれてしまったのかな。


 聖女という響きは聞こえがいいけれど、私にとっては要らないオプション。


 こういう、望みもしないことに巻き込まれてしまうのだから。

 人間の国同士の戦争。

 戦争で負傷した兵士を癒せ?

 そもそも戦争しなければ怪我もしないのに、私を使うのはおかしいわ。


 重い鉄扉が開かれる。

 繋がれた私の前に、金冠をした髭面の男が出てきた。


「聖女サラヴィエ。わしの国の兵たちを癒せ。死に至る傷も、そなたなら治せよう。お前さえいれば、絶対に戦争で敗北しない無敵の兵団の誕生だ。わしの国が人間の頂点、覇権を握るのだ!!!!」


「お断りです。私を無理やり拉致したことを先に謝罪なさい」


「ほっほっほ。これは口が悪い。タダでとは言わん。大人しく言うことを聞いたら息子の妾にしてやろう。もしかしたらそなたの産む子どもも癒やしの魔法を持つやもしれぬからの」


 トウモロコシみたいなあごひげをなでなで、人の皮をかぶった獣が鳴く。


 欲望が隠しきれてなくてヘドが出る。

 舌打ちしなかっただけ褒めてほしいわ。ケッ。こちとら十七年生きてきて、これが百回目の誘拐だ。毒舌家にもなるっての。



結婚それがご褒美だと本気で思っていらっしゃるの? 私、あいにく獣と番になる趣味は持ち合わせておりませんの」


「んな、な、ななななな!? わしの息子が獣だとお!? 小娘が! こっちが優しくしてやっているのにいい気になりおって! 協力する気になるまで、ずっとここにいるがよいわ!」


 手錠かけて監禁しておいて、優しいとはこれいかに。

 前の国は足枷をはめた上で、食事にしびれ薬を混ぜていましたっけね。

 逆らったら毒薬。


 けたたましい音を立てて鉄の扉が閉ざされた。向こう側から錠のかかる金属音が虚しく響き、重くて荒々しい足音が遠のいていく。


 鉄格子のはまった窓から、断崖絶壁が一望できる。

 私の未来は、飢死、もしくは金欲と色欲にまみれた野獣のペット。

 あんなのが一国の王様?

 私の命をゴミみたいに扱う人が、人々の上に立っているの?



 誰も彼も、口を開けば


 聖女様、傷を癒やしてください。

 不治の病の母を助けてください。

 助けて、助けて、助けて。

 誰も私を助けてはくれないのに勝手すぎない?

 さも当然のように治癒魔法を使えと迫る。

 嫌だと言えば「悪魔」「薄情者」「人の心がないのか」とくる。


 私の気持ちを考えてくれないのに、なんでそんなことを言えるのかしら。

 

 私は誰かを助ける存在として生まれて、治癒魔法だけを必要とされて。

 やってられないわ。


 鉄格子のはまる窓にもたれかかって、どこまでも広がる空を眺める。


「ここから出たい。どうして聖女に生まれただけで、そんな簡単な願いも叶わないのかしら」

「自由になりたいか?」



 誰もいないはずなのに、私の独り言に、誰かが答えた。



 声は、窓の外から聞こえた。

 ここは崖っぷちの塔の最上階なのに。人の声なんてするはずが。


 空に、漆黒の翼をもつ青年が現れた。

 真黒な髪に反比例する真白の肌。真紅の瞳。こめかみから天に伸びる魔族特有の二本角が、彼が人間ではないことを物語る。

 空を飛ぶ魔族にはどんな種族がいたかしら、なんて思考が飛んでいく。

 魔族が私をたすけるなんて、現実感が薄くて、目の前の光景を信じるのに時間がいった。


「自由になりたいか?」


 青年はもう一度聞いてくる。

 反射的に答えていた。


「ええ。……私は、自由になりたい。ここから出して」

「ならば」


 青年は外壁に手をあて、粉々に吹き飛ばした。

 石造りのはずのそれが、積み木のようにガラガラと崩れ落ちていく。


 もう、私を縛る檻はなくなった。

 青年は私の前に降り立つと、手錠に触れる。

 あんなに固くて冷たかった鎖は、砂になって風に飛ばされていった。


 赤い瞳がまっすぐ私をとらえる。


「我はエルドラ。魔王と、呼ぶ者もいる。そなたに会いに来た」


 聞いたことがある。

 エルドラとは人間の敵、魔族の王の名前だ。

 とてつもなく強い力を持ち、万の軍勢すら一人で落とせるほどの魔力を秘めたバケモノ。

 噂に聞いていたけれど、本人に会うのは初めてだ。

 うわさと違ってバケモノというような恐ろしさは感じない。


「……そう。あなたは魔王なのね。このあと私はどうなるの? 誘拐されて、魔族の皆さんのために治癒魔法を望まれるの?」


 同族の人間ですら、私をこんなふうに扱うのだから……魔族はもっと酷い扱いをするのかしら。

 誘拐されて魔法を使わされるだけの人生は十七年で終了、……もうそれでいいのかもしれない。

 来世こそは、道具扱いされない生を送りたい。


「誘拐ではない。魔法を使えとも言わない」

「じゃあ何かしら。私を閉じ込めていた者たちのように、治癒魔法を使える子を産めと言うの?」


 見返りを求めずに、ただ通りすがりでこんな辺鄙なところまで助けに来るなんて、普通はしない。


「我は、前世の其方と約束したのだ。何度この世界に生まれ来ても、必ず見つけて助けると」

「前世? 前の私が助けてと言ったの?」

「そう。二百年前も、そなたはこうして囚われていた」


 エルドラの指が、そっと私の頬に触れた。指先が、いつの間にか流れていた涙をすくいとる。


「とっくに死んだ人との約束を果たすために、わざわざこんなところに?」


 たとえ頼んだのが前世の私だったとしても、その私はもう死んでいる。

 約束を果たそうが放棄しようが、わからないのに。

 囚われている人間ひとり、助けたってエルドラになんの利益にならないのに。

 こんな心根の人が、本当に人類の敵なの?



「其方が自由を求めたから、壁を壊した。これからどこに行くにも、其方の自由だ」

「私を、閉じ込めたりしないの? このまま逃げていいと言うの?」


 自由にしろと言われたのに不安になってしまう。

 触れただけで壁を粉々にできるような力があるのだから、脅して妻になれと言うことだってできる。

 なのにそれをしない。

 本当に、ただただ私を助けてくれただけ?


 エルドラという男は表情に乏しいようで、口元や眉の動きから気持ちを読み取れない。


 不思議と、エルドラに興味がわいてきた。

 

「自由に生きよというのなら、私、あなたとともに行ってみたいわ。連れていって、エルドラ」

「それがそなたの望みなら」


 エルドラに抱えられ、空に舞い上がる。


 物音に気づいた男が鉄格子を開けて駆け込んできた。


「な、な、な、な!! ま、魔族!? 魔族が聖女を奪いに来たというのか!? ええい、衛兵、衛兵! 早く来い、あいつを倒せ、聖女を捕まえろ!! 弓兵をつれて来い!」


 慌てて剣を抜き、怒鳴り散らしているけれど、ここは空の上。


 人間の手は届かない。石を投げたくらいじゃ届かない。

 翼を持たない人間では、エルドラを捉えることなんて不可能。

 なんて楽しいのかしら。


 エルドラが空高く舞い上がっていく。

 景色がどんどん流れていって、わくわくした。


 もう誰も私を捕まえられない。

 泣きたくなるくらい嬉しい。


「ありがとう、エルドラ。本当に助けてくれるヒトなんて初めてよ!」

「約束、だからな」


 こともなげにいう。

 エルドラというヒトは魔族の敵であるはずの聖女との約束すら守るような、律儀なヒトらしい。



 エルドラが魔王城の一室を与えてくれて、そこに住むようになった。


 手錠はないし、自由に外に出られる。

 しかも魔法を使えと言われない。

 使用人のみんなも優しくて、高待遇すぎて気が引ける。

 こんな、争いのない穏やかな時間をおくったのは、たぶん幼い頃以来。十数年ぶり。


 お世話されるだけの日々は、私には合わないみたい。


「ねえ、私に何かできることはある? 手伝えることがあるなら言ってほしいわ」


 朝、食事を運んできてくれたうさぎ獣人の侍女に聞いてみる。

 侍女はふさふさの耳を揺らして答える。


「貴女の望むまま、お好きなように過ごしていただいて良いのですよ、サラヴィエ様」

「その、好きなことが何かわからないの。自由になれたのは初めてで」


 人の傷を癒やし病を癒やす、それしか求められて来なかった。

 私は自分に何ができるか知らない。


 だから、学びたかった。

 これまでの、しかたなくやらされてきたものでなく、自分の意志でやりたいと思えることを探したい。


「わたしでは決められないので、陛下に直接お伺いを立ててはいかがでしょう?」

「そうするわ。ありがとう」


 確かに、侍女では勝手に仕事を割り振れない。提案されるまま、エルドラの部屋を訪ねた。


 エルドラは、部屋にこもりきりで書類仕事をしていた。


 カーテンをしめきっていて、空気がこもってカビ臭い。ジメジメして、室内なのに苔とキノコが生えそう。


 魔族は暗くて冷たくて湿り気のあるところが好きなのかというと、そういうわけではない。

 この城の、エルドラの部屋以外はきれいだから。


 みんなに聞くと「エルドラ様のお部屋には近づけないのです」と。

 


 


「なに。仕事をしたい?」

「ええ。何かさせて」

「仕事をしたいというが、何ができるのだ?」

「わからないから、とにかく何でもやってみたいの」


 手をすり合わせて懇願すると、エルドラは迷い、視線を部屋の中に移す。


 私の部屋はメイドが掃除してくれているからきれい。

 この部屋は掃除されていない。ホコリだらけだ。



「ねえエルドラ。誰もここを掃除しないの? 王の部屋なのに?」


「波長の問題だ。強すぎる魔力は毒になる。……我の魔力は、同族の魔族にとっても毒になる。みな当てられて、長くここに居られない」


「? 私は平気よ」


「其方が聖女だからこそ、だ。聖なる力は魔の耐性を持つ。前の其方もそうだった」


 力の弱い魔族はそばによるだけで具合が悪くなるらしい。

 他の者のためにも、極力ここを動かない。

 寄せ付けないのではなく、誰も寄り付けない。

 エルドラは、望んだわけでもないのに誰もそばにいられなくて、一人になる。


 だからこそ魔族ですら倒せない、孤高な王なのだ。



 それってなんだか寂しい。

 私は自分が一人なのは寂しいと思わないけれど、この人が独りぼっちなのは寂しい。


 出会ってから一度も、この人の笑顔を見ていない。

 楽しいと思うこと、笑うことあるのかしら。

 私自身、楽しいと思って生きたことがないわ。

 人はどんなときに楽しい、嬉しいって思うのかしら。

 エルドラはどうすれば笑顔になれるのかしら。



 私、どうかしている。

 一人で生きたいとすら思っていたのに、よりにもよって、魔王の世話をしようなんて考えてる。

 

 


「私が毎日掃除する」

「……正気か?」

「正気。私に幻影系の魔法は効かないわ。自由に生きていいと言ったのは貴方でしょう。だから、今やりたいこと、ここを掃除することよ」


 言っている自分でも異常なことを申し出た自覚はある。

 ここは本来なら敵地の、総大将の部屋。

 その総大将は、私を助けた恩人。

 しかも魔法を使わせないし、組み敷いて子を産めと迫ることもない。

 とても、変な人だ。


「其方は変わっているな。いや、変わらないのか」


 そう言って、エルドラは初めて口元に笑みを浮かべた。



 掃除すると決めたものの、生まれてこの方掃除なんてしたことがない。

 物心ついた頃には囚われの生活だったから、親の顔もあまり覚えていない。

 たぶん幼少の、治癒魔法の力が発覚する前は普通の庶民だったと思う。


 メイドに掃除のなんたるかを聞いて実践する。


「いいですか、サラヴィエ様。窓を拭くときにはしっかりと布巾の水を切らねばなりません。水跡がついてしまいます」

「こ、こう?」

「こうです!」


 雑巾の絞り方も下手くそ。

 ちゃんと庶民の、人間らしい暮らしをしていたらこんなこと聞かなくてもわかるのに。

 初歩の初歩から教えてくれるメイドが

優しすぎる。

 優しいから、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「ホウキを勢いよく動かしてはなりません。ホコリが舞って空気が汚れます」

「こ、これくらいの強さなら? っ……ケホ、ケホ!! い、今、身を持って知ったわ。」

「サラヴィエ様、勢いが良すぎです。ていねいに」

「て、ていねいに……」 


 窓を開けて空気を入れかえ、調度品を濡れ布巾で拭いて、床のホコリが舞わないよう注意しながらホウキを動かす。


 危なっかしい、ヒヤヒヤするとメイドたちに心配されながらも、日々少しずつ掃除の技術を磨く。


「どうかしら、エルドラ。部屋がきれいだと気持ちいいでしょう」

「そうだな」


 椅子に腰掛けていたエルドラに手招きされる。そばにいくと尖った爪の手をそっと伸ばし、私の頭をなでる。

 幼い子をあやすような、なれない手つきで。


「なに?」

「ああ、やはり其方なら壊れない」

「……そうね」


 エルドラには、同族の魔族すら迂闊に近寄れないのだった。

 私も人間の国では酷い扱いばかりされたいたから、ひと肌の温かさ、知らないわ。


 エルドラの頬に触れてみる。

 姿形は人に近いけれど、人のような熱はない。体温が低いものなのかしら。


「其方は温かいな」

「貴方の体温が低すぎるのよ」


 エルドラの手が、私の手に重なる。冷たくてゴツゴツした手のひら。

 両手で頬を包むようにして、額を合わせる。


 エルドラは助けてくれた日、私達は前世で出会っていると言っていた。

 前世の私が助けてとお願いしたことも、本当なのかもしれないと思う。

 魂がエルドラを覚えている。

 エルドラの側は、こんなにも落ち着く。


「ねえ、貴方は何年生きているの? 私の前世を知るということは、少なくとも数百年?」


 エルドラは天を仰ぎ、少しだけ考えて、ゆっくりと答える。


「明確に数えたわけではないが、およそ五百年は生きている。この体には竜族の血が入っているから、何事もなければ千年は生きる」

「なら、私がおばあちゃんになって天寿を全うしたら、次の私も貴方に会うかもしれないのね」


 人間の命は長生きでも百年。

 私の死後、この人はまた途方もない時間を一人で過ごすのかしら。

 そう思うと胸の奥が痛む。


 エルドラの、冷たい腕のなかに閉じ込められる。

 心音が大きくなる。

 懇願するように、エルドラは強い声で言う。


「年寄りになるまで長く生きたいなら、魔法を使ってくれるな」

「なぜ? 人間はみんな、治癒魔法を使わせたがるのに」



 胸に耳を当てると、エルドラの心音がする。人間のものより鼓動が遅い。竜族、だからなのかな。

 種族が違うから、心拍数は人間のそれと違って当たり前。


「歴代聖女は、みな二十歳にもならず死んでいった。治癒魔法の代償は、己の命だからだ」


 思いもよらない言葉に、背筋が寒くなる。

 奇跡の力は無制限に使えるわけではない。万能の力ではない。



「傷を治せば治すほど、其方たち聖女は寿命を縮める」

「本当なの?」

「だから、おばあさんになりたいと思うのなら、もう魔法を使わないと約束してくれ」


 魔法を使うな、と言うのはエルドラが私を案じるがゆえだった。


 何も知らないこれまでの十七年で、何度も囚われ、治癒魔法を使わされてきた。


 名前も知らぬ、私を粗末に扱う誰かのために、命を削ってきたというの?

 知っていたなら、絶対、あんな人たちのために使ったりしなかったのに。



 私の命は、あと何年残されているの?

 もしかしてもう何も残されていない?

 かすり傷一つでも治したら、そのまま死んでしまうのかもしれない。



 こんな不幸な人生早く終われと思っていたのに、エルドラの言葉を聞いて終わりが来るのが怖くなった。


 次の私なんて、来なくていい。

 まだ死にたくない。生きていたい。

 一日でも長くこの人のそばにいたい。


 

「約束するわ。エルドラ。もう魔法は使わない。だから、いつかおばあさんになった私を看取って」

「……約束しよう」


 エルドラの背に手を伸ばす。エルドラの体温はこんなにも心地良い。エルドラの腕が、私の背を撫でる。

 魔王と聖女。

 本来なら敵対するはずの存在。

 聖女失格と言われると思うけれど、私は、人間よりもこの人を守りたい。


 私は、エルドラを愛している。


 エルドラのそばで暮らすようになって半年が経ち、城内が慌ただしくなった。

 人間の連合軍が、千を超える軍を作り魔族の国に攻め込んできた。

 

 聖女を拐かした悪しき魔王から、聖女を取り戻すのだと言って。

 勇者だと祭り上げられた青年が陣頭に立つ。

 バカにも程がある。

 自分たちは私を道具として奪い合い、互いの国に攻め込みあっていたのに。魔族のもとにいるとわかった途端にこれ。


 きっとどこかの国が私を保護したら、私を保護した国と、そうでない国が刃を交える。


 奇跡の力で自分たちに恩恵を。

 死に至る傷すら治せる聖女を自分の軍に。

 欲望が見え見えだ。



 魔族の軍が出撃して、人間の軍を打ち倒していく。

 魔族も人間も戦いで疲弊していく。


 私を助けるためなんていうのは表向きだけで、人間はきっと、魔族の領土が欲しいだけ。


 魔族の地は、人の地よりも緑豊かでずっと肥沃だから。

 

 人との戦いが始まってひと月、エルドラが鎧を身にまとった。

 力の差を考えればエルドラが勝つのは必然に思える。けれど、絶対はない。



「我が出るのが一番手っ取り早い」

「それは危険じゃないの?」


 同族の人間より、エルドラの心配をしている。滑稽かしら。


「其方はなにも心配するな。我がいつ戻ってもいいよう、部屋をきれいにしておいてくれ。其方が言うように、掃除された部屋は過ごしやすくていい」


 冗談をいう余裕があるなら、安心していいのかしら。

 エルドラは空を舞い、竜族の部下たちと出撃していった。


 不安だけど、エルドラが気持ちよく帰ってこれるように掃除をしよう。

 きちんとしようと思うのに、気がそぞろでいつもならしない失敗をしてしまう。

 バケツを倒してしまい、水が散る。


 メイドたちが私の心配をする。


「大丈夫ですよ、サラヴィエ様。陛下はこの数百年、人間との戦いで負けたことがないのです」

「そ、そうよね。ありがとう」


 料理人の手伝いをして、出撃したみんなのための料理を作る。

 魔法を使わず、エルドラのためにできることがこれくらいしかない。


 治癒魔法という力を使わない私は、なんの役に立たない小娘に過ぎないのだと実感する。


 二日後の、夕日が地平線に沈む頃、魔族のみんなが城に帰還した。



 満身創痍という言葉がぴったり。

 エルドラと部下が奮戦し、連合軍は壊滅。魔族の完全勝利で終わった。


 兵のみんなが「さすが魔王様だ」と言っていた。

 エルドラは、さすがに大群を前に無傷とはいかなかったようで、全身傷だらけだった。


「エルドラ!」


 エルドラが開け放っていたバルコニーに真っ黒で巨大なドラゴンが降り立つ。

 人の形をしていなくても、私にはそれがエルドラだとわかった。


 鱗はところどころ刺され、血が滲んでいる。

 おびただしい出血が痛々しい。


 魔法を使わないと約束していたけれど、この傷は放っておくと致命傷になりかねない。直感する。



「これくらい、治癒魔法を使えば……」

「やめろ、サラヴィエ」


 ドラゴンの姿だから、エルドラの声はいつもより低くくぐもっている。


「我の治療は、人間を治すより、いっそう命を消耗する。下手をすれば、其方の命は今日尽きる。おばあさんに、なりたいのだろう」

「私だけが永らえても、貴方がそこにいなくては、なんの意味もないわ」


 自分の命が消えることよりずっと、エルドラの命が尽きることのほうが怖かった。


 これまで人間の国で魔法を使わされたとき、傷つく兵たちを見てもなんとも思わなかった。

 何で私がこの人たちのために囚われて魔法を使わなければならないのかと、恨んでいた。


 初めて、心から誰かを癒やしたいと思った。


「魔法は使うな。其方には長く生きてほしい」

「エルドラ……。自分が死ぬかもしれないのに、どうして傷を癒やしてくれと言わないの」

「其方が死ぬのを、見たくない」


 エルドラだけは失えない。エルドラがいなくなったら私の命に意味はなくなる。

 布を押し当てても、一瞬で真っ赤になってしまう。

 私の力なら、完治させることだってできるのに。


「これくらいすぐ治る。だから、大丈夫だ。魔法を使わないでくれ」


 エルドラは普段の、人に似た姿に戻って膝をついた。翼はボロボロ、見るも無残。

 私はエルドラを抱きしめて、部屋にかつぎ込んだ。


 医務官に手当の方法を聞いて止血し、キズ薬を塗り、薬湯を作る。

 エルドラが自然治癒をしたいというなら、治るまでそばにいる。


 毎日包帯を替え、薬湯を作り、蒸しタオルで体を拭く。


 エルドラがベッドから起き上がれるようになるまでに、まる六ヵ月かかった。

 普通なら死んでいてもおかしくないような深傷だった。


 松葉杖をついてバルコニーに出る。

 季節はすっかりうつろっていた。

 灰色の空から雪が降ってくる。

 肩を寄せ合うと、少しは温かい。


「誰かと雪を見るのは初めてかもしれないわ」


 私がつぶやくとエルドラは意外そうに言う。


「十七年、人の中で生きていたのに?」

「同じ種族だからといってわかりあえるわけではないと、あなたも知っているでしょう? 私がどこで助けられたと思っているの」


 治癒魔法を使う駒として、兵たちを癒やすためだけに生きろと手枷をはめられて閉じ込められていた。


 私にとって人間は、同じ種族というだけで仲間ではなかった。


 人間もまた、私を道具としか思っていない。

 人の形をしているだけの、回復アイテム。


 心を持った一人の人として扱ってくれたのは、皮肉にも異種族である魔族のみんなだった。


「これからは皆がいる。ここで好きなだけ雪を見るといい」

「そうね。一人で見るより、誰かと見るのが良いと、教えられたわ。ありがとう、エルドラ」


 エルドラは照れるでもなく、淡々と答える。


「我は教えようとしたわけではない。知る機会に恵まれなかっただけだろう」


 人がせっかく、せっかく素直にお礼を言っているというのに。ロマンのかけらもありゃしない。

 でも、そんなエルドラだから惹かれるのだ。


「私が一生そばにいてほしいと言ったら、エルドラは叶えてくれる?」

「そなたが年老いるのを見届けて、看取ると約束しただろう」


「そうではなくて、ええと、うーん、夫婦として!!!! 結婚してってことよ!!! 大声で言わせないでよこんなこと!」


 私が告白すると思っていなかったのか、エルドラは目を瞬かせている。


「……ああ、すまない。結婚、か。そんなことを言われたことがないから、驚いた」

「それで? 答えは? 驚く以外に言うことはない?」



 エルドラは苦笑して、そっと私の手を取る。


「ああ。我もそなたの伴侶として生きることを望む。ずっと、そばで見届けよう」



 抱きしめられて、エルドラの背に手を伸ばす。

 人ではない、体温がすごく低い体。鱗のゴツゴツもある。

 人類を導くはずの聖女が、人類の敵、魔王との結婚を望むなんて愚か。


 端から人間は私の味方ではなかった。仲間でないのなら、裏切るも何もない。


 私の家族は、仲間は、私の身を案じて手を差し伸べてくれる、魔族のみんなだ。


 それからさらに三月。

 自分で宣言したとおり、エルドラは一人歩けるくらいに回復した。

 けれど、右の翼は折れ曲がったままで、もう飛べない。


 私の魔法を使えば飛べるようになるのに、それを望まない。

 なんて優しくて愚かな人だろう。

 

 人の国に戻らないと決めた私も、とても愚か。






 エルドラと出会ってからニ年。


 人間の国はどうか知らないけれど、魔族の国は平和そのものだ。

 庭に行きたいと言うと、専属の侍女が焦りだす。


「奥方様、ご無理はなさらないでくださいませ。体に障ります」

「大丈夫よ。今日は気分がいいの」


 城の庭園は手入れが行き届いていて、きれいな花が咲いている。

 花束を作ってもらい、抱えてエルドラの部屋に向かう。


「エルドラ、見て。今日もきれいに咲いたのよ。飾りましょう」

「サラヴィエ、あまり出歩くなと言ったのに」

「自由に生きていいと言ったのは貴方でしょう」


 エルドラが最初の頃の発言と矛盾したことを言い出す。


「其方一人の体でないのだから、案じるのは当然だろう」

「心配性なパパねぇ」


 長い歴史の中で、子を宿した聖女はいなかったと聞く。

 命を削りすぎて親になれる年齢まで生きていられなかったからだと思う。

 聖女が己の意志で魔王の花嫁になるなんて、異例も異例。

 人間の国の人たちが聞いたら卒倒しそうだ。



「エルドラ。私、もう一つ夢ができたわ」

「なんだ?」

「この子が立派な大人になるまで見届けたい。それで、貴方とこの子と孫に囲まれて看取られたい」


 きっとエルドラと私に似た子が生まれる。竜の血が濃くなるのか、聖女の血のほうが強く出るのか、未知数。

 魔王と聖女が結婚したなんて、わたし達が初めてだから。


 エルドラは珍しく、困った顔になる。


「できれば死ぬときのことでなく、それまでのことを夢に見てくれ。時間はこれからたくさんあるのだから」

「そうね。なら、一緒に考えて。楽しいことたくさん」


 私が笑うと、エルドラも微笑む。

 とても優しい顔で。



 End


 




2024/06/27 

3000文字加筆しました。