<< 前へ次へ >>  更新
99/150

《閑話》 レオ、パジャマパーティーに参加する(4)

 数秒後、ぱさりと、軽やかな音が夜のしじまに響く。

 ネー様二枚分の高級下着、着地の瞬間だった。


「――……あ、ご、ごめんなさい、レオノーラ……わたくしったら……」


 顔色を失った少女を見て、ビアンカが我に返る。

 いくら少女のためだったとはいえ、なにもせっかくのプレゼントを地に落とすつもりはなかったし、そもそもここまで激しく追いかけるつもりなどなかった。

 感情が昂ぶると、すぐ手や足が出てしまうのは、ビアンカの悪い癖だ。


 呆然と窓の外を覗き込んでいる少女に、ビアンカはおずおずと話しかけた。


「ごめんなさい、あの、わたくし、そんなつもりじゃ……」

「――ネー様……」

「え?」


 ぽつりと呟かれた言葉が聞き取れず、咄嗟に聞き返す。

 すると少女は、その零れそうに大きな紫の瞳に、じわりと涙を浮かべ、細い喉を震わせた。


「せっかく……っ、ネー様が……!」


 途切れ途切れに漏らされた言葉にはっとする。

 もしや彼女は、「せっかく姉様がくれた下着だったのに」と言ったのだろうか。


(わたくしのことを、「姉様」と……? それで、本当にこの下着のことを大切に思って……?)


 ビアンカは言い知れぬ罪悪感に胸を押さえた。

 だとしたら、いったい自分はなんということをしてしまったのだろう。

 少女は自分を姉と慕って、だからこそ下着を大切にしようとしてくれていたのに、それを頑固な遠慮だと捉えて踏みにじるような真似をしてしまった。


 だが、もちろんレオとしては、


(うああああああ! 俺のネー様二枚分がああああ! せっかく、せっかくのネー様が、泥にまみれて価値を低減んんんん!)


 損なわれた下着の価値を思って血の涙を流していただけだった。


 ヴァイツの冬は雪が多い。

 最近は晴れ続きだったものの、だからこそ、地面は雪解け水でぬかるんでいるはずだった。


(ネー様が……俺のネー様が……泥に……)


 まったくなんということだ。

 たかだか身体バランスを崩したくらいで、己の尊厳より大切なネー様二枚分の下着を手放すなど。

 守銭奴にあるまじき、恥ずべき、取り返しのつかない大失態だ。


「あ、あの、本当にごめんなさい、レオノーラ。わたくし、取ってくるから……」


 己の掌をネー様二枚分がすり抜けていってしまったことに、呆然としていたレオだったが、ビアンカのその言葉ではっと我に返った。


 なにをやっているのだ。

 ショックを受けている場合ではない。早くネー様を救出申し上げねば。

 早期に救いだして洗濯すれば、あるいはネー様一枚分くらいの価値はキープできるかもしれないではないか――もはや、レオの目には、下着はネー様の塊にしか見えていなかった。


 慌てて窓から身をひるがえし、部屋を出て行こうとする。

 が、その直前、逸らされていくレオの外視野および守銭奴センサーに、ある物が映り込んだ。


 いや、正確には「者」だ。


(んん!?)


 ばっと振り向く。

 再び覗き込んだ窓の向こう、月明かりの下には、確かに人影があった。


 どうも、男性のようである。辺りを窺うようにきょろきょろと頭を動かしている。

 そうして、誰も近付いてこないようだと判断すると――彼は、おもむろに屈み込んだ。


 ちょうど、高級下着が落ちた辺りに。


(下着泥棒おおおおおお!?)


 レオの目がかっと見開かれる。


 なんということだ、先程の噂の御仁が、よりによってこのタイミングで、レオの高級下着を奪いにやって来やがった。

 やはり、高級下着から漂う、えもいわれぬ金の芳香に引き寄せられたのだろう。

 恐るべき嗅覚、そして恐るべき行動の早さだ。


(だが許さんっ!)


 金目のものの気配を瞬時に察知してみせた能力は、敵ながら天晴れといったところだが、みすみすネー様を奪われるレオではない。

 あれはもうレオのものだ。レオに銀貨をもたらしてくれるための高級下着様なのだ。


 激しい金銭欲と義憤に駆られたレオは、小さく開けられていただけだった窓の枠をむんずと掴むと、それを勢いよく押し開いた。


「レオノーラ――!?」


 ぎょっとしたのはビアンカたちだ。


 一度は部屋を出て行こうとする素振りを見せたのに、急に振り返り、窓の外を凝視したかと思えば、まるで身投げでもせんばかりに窓を開け、その枠によじ登ろうとするのだから。


「レオノーラ、いったいなにを――」

「泥棒……! 許さない……!」


 ビアンカもナターリアも、慌てて手を伸ばしたが、その指先が届くよりも早く、少女はばっと窓の外に飛び出してしまった。


「きゃああああっ!」

「レオノーラ!!」


 二人の絹を裂くような悲鳴が響く。


「レオノーラ! レオノーラ! レオノーラ……!」


 ビアンカなどは、錯乱したかのように、真っ青な顔で窓の枠にしがみつく。

 もはや衝動的に、彼女もそのまま窓の外に身を投げ出そうとしかけたが、寸でのところでナターリアがそれを止めた。


「ビアンカ様、お気をたしかに!」

「だって! レオノーラが……!」

「よくご覧になって。レオノーラは猫のように着地して、立ち上がっているではございませんか。大丈夫です。大丈夫」


 わずかに震えながらナターリアが寄越した言葉の通り、夜目を凝らして見てみれば、少女はすっくと立ち上がり、何事かを叫んでいる。


(「叫ぶ」……? 誰に――?)


 それまで少女のことしか視界に入っていなかったビアンカは、改めて階下を見下ろし――そしてはっとした。


「あれは、誰なの……!?」


 少女に見咎められて、一瞬茂みに身を隠しかけた人影。


 先程の少女の「泥棒」という呟きの意味をようやく理解した二人は、真っ青になって顔を見合わせ、慌てて部屋を飛び出した。




***




 さて、勢いよく窓から身を躍らせて、金への執念だけで華麗な受け身を取って着地してみせたレオといえば、全身に飛び散った泥をものともせず――こういう時のための古着だ――、びしっと人影に向かって指を突き付けた。


「動きません! 手を上げます!」


 本当なら、動くな、手を上げろと言いたい。


 言いたいがしかし、暴言封印の魔術のせいでそういった恫喝言葉が口にできないため、レオはせめて声量で勝負だと思い、顔を真っ赤にして叫んだ。


「泥棒! 許しません! 観念!」


 夜気をびりりと震わせるその声量に圧されたのか、相手はぽかんとした表情で立ち尽くしている。


 レオは泥を跳ね上げながらその人物のもとに歩み寄り、勢いよくその両腕をつかんだ。――もちろんレオとしては拘束したつもりなのだが、残念ながら傍目には、身を震わせ頬を紅潮させた可憐な少女が、きゅっと男の腕に取りすがったようにしか見えなかった。


「え、そ、空を舞って……!? せ、精霊……!? いや、ど、どうしてレオノーラちゃんが、こんなところに……」


 相手はもごもごと呟いている。

 どうやら自分の名前を知っているらしいことから、目の前の男は、この学院の生徒であると推察できた。


 よくよく目を凝らしてみれば、小ざっぱりとした身なりといい、清潔感のある顔立ちといい、なかなかの好青年風である。

 年のころはレオより三つ四つ上くらいか。貴族というには少々素朴な雰囲気ではあるので、おそらくは市民出身の上級学年の生徒だろう。


(いやいや、人様のもんを盗もうって時点で、年上も好青年もあるもんかよ!)


 ただでさえ年上と野郎には厳しいレオであるうえに、相手が自分のお宝に手を掛けんとした輩であるなら、容赦する気などさらさらない。


 レオは鋭く相手を睨みつけると、彼が拾い、握りしめていた下着を問答無用で取り上げようとした。

 が、相手は「え、え」と戸惑うばかりで、そのくせ男の力で無意識にぎゅうぎゅうと下着を握りしめているものだから、奪えない。

 焦れたレオは、


「ええい! 離し、ます!」


 ぐっと力を籠め、一本釣りする漁師よろしく、下着を握りしめた両腕をぶんと振り上げた。


「わあ!」

「わ!」


 しかし不幸なことに、相手がそれでバランスを崩し、ぐらりとこちらに倒れてくるではないか。

 レオは慌てて、解放された下着を抱きしめ身をよじったものの、


 ――ドサッ!


 結果、二人して盛大に地に倒れ伏すこととなった。


「ご、ごめん! 大丈夫かい!?」


 はからずも少女を押し倒すような格好になってしまった青年は、ばっと半身を起こしてあたふたと尋ねた。

 下着泥棒などという薄汚い真似をする輩にしては、なかなかの紳士ぶりである。


 だが、レオには、彼の気遣いであるとか、いまだ下半身は男にのしかかられている状況であるとか、そんなものに頓着している余裕は全くなかった。


 その視線は、ただただ、あるものに注がれていた。


 転んだ拍子に地面を抉るようにして叩き付けられ、もはや修復不可能なほどに泥を吸った、下着に。


「――……あ……」


 唇が震える。大きな紫の瞳にじわりと涙が浮かぶ。


「ひ、どい……」


 ネー様二枚分が。

 泥に。

 しかも肩紐に飾ってあった布の薔薇は、地面に擦りつけられたせいで、無残にも千切れかけていた。


「ああ……!」


 細い首から絶望の呻き声が漏れる。


「無礼者! なにをしているのです!」


 そんな時、背後から凛とした声が掛かった。

 ビアンカと、そしてナターリアである。


 ビアンカは大胆極まりないシミューズ姿を隠そうともせずに、ぎっと青年を睨み付け、そして彼に押し倒されている格好の妹分の姿を見つけ出すと、夜目にもわかるほどに全身を怒りで染め上げた。

 彼女の目には、もちろん、押し倒されて涙を浮かべている、可憐な少女の姿しか見えなかったのである。


「なにを……しているの……!?」


 呼吸を忘れるほどの怒りに硬直していると、ナターリアがさっと駆け寄って、青年を突き飛ばすようにして少女を救出する。

 いまだ呆然としている少女に、自身の上着をそっとかけてやりながら、ナターリアは掠れた声で尋ねた。


「レオノーラ……! いったいなにをされたの!?」


 だが、真摯な質問も、儲けをふいにしてしまった今のレオには届かない。

 レオは震える手で残骸と化した下着を引き寄せ、それをぎゅっと握りしめながら、


「こ、こんな、汚され……」


 涙を目にいっぱいに溜めて呟いた。


「穢されたですって!?」

「ネー様……!」


 ぎょっとして聞き返すナターリアにも反応できず、レオはただただ、ふいにしてしまった儲けを悼んでいた。


 最低だ。最悪だ。

 なぜあの時自分は、ちょっと転びそうになってしまったくらいで、大切な下着を手放してしまったのか。

 たかだか一回の転倒と引き換えに、大事な大事な商品に泥を吸わせてしまうなど、守銭奴道に(もと)る最低の行いだ。


 せっかくネー様二枚、いや、せめて一枚分くらいの価値は維持できると思ったのに。

 どんなに洗濯したところで、こんなに泥を吸ってしまっていては、


「もう……『嫁入り』、できません……!」


 聞いた人間の胸が張り裂けてしまいそうな、悲痛な声で、少女は叫んだ。


 それでいよいよ怒りを深めたのはビアンカである。


 男が怖いという妹分。

 にも関わらず、雪と泥にまみれた地面に押し倒され、いったいどれほど恐ろしかったことだろうか。

 まるでお守りにするかのように、自分のあげた下着をぎゅっと握りしめて、「姉様」と縋る様子がその証拠だ。


 さすがにこの短時間で、決定的ななにかがされたとも考えにくいが、それでも「もうお嫁にいけない」というくらいのショッキングな思いをしたのだろう。


 びり、と全身に雷が走る。

 強い怒りは、時に魔力の奔流となって暴れ出すのだということを、このとき彼女は初めて知った。


「この、下郎……!」

「ひっ」


 あたふたと状況を見回していた青年が、ビアンカの怒気に圧されて喉を引き攣らせる。

 すっかり蛇に睨まれた蛙のように、尻餅をついて硬直してしまった青年に向かって、ビアンカはゆっくりと近づいて行った。


「今一度聞くわ。あなた、レオノーラに、なにをして?」

「お、俺……! いえ、わ、私は、なにも……! 本当に、ちょっと転んだだけで……!」

「嘘をおっしゃい! だいたい、なにが目的でこの場にいたのです!」


 青年は明らかに上級学年の生徒。

 こんな夜に、下級学年の、それも女子寮の前にいる理由など、そもそもないはずなのである。


「あなた、少し前からこの場にいたでしょう。――率直に言うわ、このところ女子寮を騒がせている下着泥棒というのは、あなたなのではなくて?」

「え、その……!」


 青年が言葉を詰まらせながら視線を彷徨わせる。だが、即座に否定しなかった時点で、罪を認めたも同然であった。


「その……そう、じ、女性に興味があって……。ほ、ほんの、出来心で……」

「この、変態……!」


 やがて、困ったように呟いた青年に向かって、ビアンカが悪態をつく。


 一方のナターリアは、てきぱきと少女に上着を着せ、髪に付いた泥を払ってやっていた。

 少女はよほど衝撃を受けたのか、「女性に興味……?」とぽつんと反芻したきり、黙り込んでいる。

 話しかけても聞こえないのか、ぐっと思いつめたような顔で考え込む少女に、ナターリアは表情を曇らせた。


 しかし、いつまでそうしていても埒が明かない。

 ナターリアは一転して青年に険しい表情を向けると、つっとその理知的な目を細めた。


「よくもまあ、そんな恥知らずなことを。――あなたの顔は見たことがあります。確か上級学年の、……ご友人からはドミニク、と呼ばれていましたね?」


 記憶力に優れたナターリアが、学年も異なる、接点の少ない市民生徒の名前を確実に紡ぎだす。


「そう、確かドミニクでしたわ。上級学年二年生。苗字は――」

「も、申し訳ございません!」


 しかしナターリアが本格的に記憶を探りはじめた途端、ドミニクはばっと地面に土下座し、積極的に謝罪をしはじめた。


「申し訳ございません! 本当に申し訳ございません!」

「まあ」


 その叫び声にビアンカが柳眉を跳ね上げる。


「少なくとも、自分が薄汚い真似をしたという自覚はあるわけね?」

「はい! 申し訳ございません!」


 ただ、とドミニクは、地面に額をこすり付けたまま続けた。


「先ほどお話しした理由は嘘です。実はこれには、事情があるのです……!」

「事情ですって?」


 ビアンカとナターリアは顔を見合わせる。


 下着泥棒をし、あまつ大切な妹分を押し倒すなど、最低の所業だ。

 しかし、地面に額づいて謝罪する様子には潔さがあったし、彼の顔立ちを見るに――偏見かもしれないが――確かに、そう女性に困ったような感じでもない。


 しばし視線を交し合ったのち、ビアンカが「どういうことですの?」と尋ねると、ドミニクは一瞬言いよどみ、その後ぽつぽつと語り出した。


 彼の話を要約するとこうだった。


 ドミニクには来年入学することになる妹がいる。

 市民出ながら微量の魔力を持ち、学にも優れた自慢の妹だ。


 しかし学院は、名目上は「平等な学徒」を掲げつつも、実際には差別が横行する社会。

 貴族生徒は市民生徒をこき使い、寮の部屋だって設備の使用権だって大幅に異なる。


「特に、洗濯は悩ましい問題です。リネンが気軽に使える貴族たちとは違って、私たちは雪の夜に服を手洗いし、生乾きに悩まされながら干すしかない……。見落とされがちですが、服の問題だって、衣食住の一部。積み重なれば、不満にもなります。私は、妹にはそんな思いを、させたくなかったのです……」


 生徒会に訴えようにも、貴族の取り巻き連中に邪魔されて叶わない。

 ならばいっそ下着泥棒のような事件が起これば、彼らも重い腰を上げ、リネンのサービスを市民生徒にも開放してくれるのではないか。そう考えたと彼は言うのだ。


「今までの『盗難』は、実はすべて、馴染みの女子生徒と打ち合わせたものです。堂々と生徒会に上申するのがだめでも、心優しいナターリア様やビアンカ様が、事態を重く見て動いてくださったら、と……!」

「そんな……」


 懇願するように告げられ、ビアンカたちは戸惑ったように眉を寄せた。


 ドミニクの行動は極端に過ぎる。

 しかし、それが妹のためで、しかも、学院の権力者たる自分たちの無能さが原因なのだとしたら――一概には彼を糾弾できない。


 気勢をそがれ、ビアンカたちが黙り込んでしまったところに、


「――うそつき!」


 凛とした声が響いた。

<< 前へ次へ >>目次  更新