<< 前へ次へ >>  更新
98/150

《閑話》 レオ、パジャマパーティーに参加する(3)

 ビアンカとレオは咄嗟に顔を見合わせる。


 落ち着いた理知的な声。

 ナターリアだ。


 従姉とはいえ、学年も違うし、更に言えば、つい最近まで反目しあっていたような仲である。

 夜分に自室に訪問されたことなどなかったビアンカは、首を傾げながら扉を開けた。


「ナターリアお姉様? どうなさって?」

「ああ、まだ起きていらっしゃったのね――……っ、ビアンカ様!?」


 ほっとした様子で口を開いたナターリアが、ビアンカの姿を認めた途端言葉を詰まらせる。

 彼女は愕然とした様子で上から下まで視線を走らせると、ついで林檎のように頬を赤く染め、素早く中に入り込んで扉を閉めた。


「いやですわ、お姉様。どうぞ部屋に入ってくださいとは、わたくし言っていなくてよ?」

「なにを仰っているのです! そんな格好で、堂々と扉を開ける人がいますか! 破廉恥な!」

「まあ、夜に都合も聞かずにいらしたのはナターリアお姉様のくせに、こちらの身なりをとやかく言うだなんて、無粋ですこと」


 ナターリアが淑女として当然の内容を叱り飛ばせば、ビアンカもさるもの、まるで動じずに言い返して豪奢な金髪を掻き上げる。

 その瞬間、ふわりとシュミーズの裾が揺れて、ますます下着の扇情的なデザインが強調された。


「ビアンカ様! ……まったく、そんなだからこういうこと(・・・・・・)が起こるのです。だいたい、そんな大胆な下着、いったいどこで……――」


 顔を顰めてぶつぶつ呟いていたナターリアの瞳が、ふとシュミーズの右肩に縫い止められていた小さなレースの薔薇を捉える。

 その瞬間、知的な鳶色の瞳が大きく見開かれた。


「まさか、……それは、ポルダ工房の……!?」

「まあ、ナターリアお姉様、さすがよくご存じですこと。そう。最新作ですわ」


 ナターリアは、服の趣味こそシックだが、けして地味だとかダサいだとかいうわけではない。

 むしろ装いのセンスにかけてはビアンカと張り合うほどに恵まれているのであって――つまり二人は、今この一瞬で、ファッション領域におけるマウンティングを展開してみせたわけだった。


 どうですこの下着素晴らしいでしょう、いえなにをそんな破廉恥な、ふふんけれど目は釘づけになって離れないようですわね、くっ確かに斬新だし乙女心をくすぐるデザインですこと……!


 ほんの僅かな時間に交わした視線だけで、それだけの情報量をやり取りする。

 今回のファッション対決においては、ビアンカに軍配が上がったようだった。


 ナターリアはちょっとだけ悔しそうに唇を噛むと、


「そのシュミーズ……わたくしにも少し、見せてくださる?」


 おずおずと切り出す。

 それに気をよくしたビアンカは、仕方ないなというように一歩身を引いてナターリアを部屋の奥に招き入れかけたが、ふと気付いたように顔を上げた。


「それはよいですけれど――なにかご用件があったのではなくて?」

「そ、そうですわ!」


 ナターリアがはっと我に返って小さく叫ぶ。

 美しい下着を前に、うっかり本音を滲ませてしまった自分を、彼女は恥じているようだった。


 慌てて表情を取りつくろい、いつもの大人びたナターリア・フォン・クリングベイルの顔を取り戻す。

 その時になってようやく、ビアンカの体に隠れるようにして、見知った少女がベッドにちょこんと腰かけているのを見つけて、彼女は驚いたようだったが、しばしの逡巡の後に結局話しだした。


「生徒会役員として、下級学年長に至急の連絡ですわ。どうやら――学院の敷地内に、その……下着泥棒がいるようなのです」

「下着泥棒ですって!?」


 少女を怯えさせぬよう、下着泥棒の辺りは極力小声で伝えたナターリアだったが、その努力はビアンカによって踏みにじられてしまった。


 ナターリアが素早く「ビアンカ様!」と小声で叱ると、ビアンカは慌てて口を押さえる。

 が、ちらりと視線を向けた先の少女は、特に怖がるでもなくきょとんとしていたため、ひとまず胸を撫で下ろした。


「……いったいどうして、そんなことが起こるのです? 学院内は一日中警備がなされているはずでしょう?」

「それが……」


 ナターリアが困惑したように眉を寄せ、語った内容はこうだった。


 学院内では、洗濯は基本的にリネン室が行うことになっている。

 学生たちは洗濯物をリネン室に預け、洗濯と乾燥が済んだそれを受け取ることになっているのだ。


 が、そのサービスを使用しない学生たちもいる。

 あまりに高級な衣服をまとうビアンカたち皇族と――学院の設定する価格すら払えない、市民出身の学生たちである。


 専用の侍女や侍従がきっちりと洗濯を行ってくれるビアンカたちはよい。

 だが、リネン室に洗濯物を預けられず、かといって学院外のサービスを使用することもままならない――なにせ学院からは、安息日にしか外出できない――学生たちは、仕方なく部屋で衣服を手洗いし、夜中にこっそり干しているというのだ。

 そして、その夜中にこっそり干されている女子生徒の下着が、ここ数日で何着も、盗まれてしまったのだという。


「下着というものの性質的に、被害は上級学年に偏っていたから、不必要にビアンカ様たちに伝えて怖がらせるのもどうかと思っていたのですけれど……。盗まれる下着の数や範囲も増えて、最近犯人はどんどん大胆になってきているようなのです。見境なく、下級学年の生徒たちのものにも手を出すようなことがあってはいけないと思って、慌てて伝えに来たのですわ。明日、下級学年組織の朝礼で伝えてくださらないかしら」

「それは、もちろんですけれど……」


 夜分に、それも兄ではなくナターリアがやってきた理由には納得したビアンカだったが、その美しい顔は難しそうに顰められていた。


「ビアンカ様?」

「――この問題を真に解決しようとするならば、わたくしたちは、市民学生に過剰な出費を強いる、リネン室のサービスそのものを見直さなくてはならないのではないかしら」

「まあ……」


 その鋭い指摘に、ナターリアは一瞬目を瞠り、すぐにほんのりと笑みを浮かべる。

 問題の表層的な部分だけでなく、その真因を探ろうとする在り方は、最近になってビアンカが身に付けはじめたものだった。


 恐らくだが、下町出身の少女を友に得たことで、皇女としてだけではない、複合的な視点を手に入れつつあるのだろう。

 そんな場合ではないとはわかっていても、ナターリアは、従妹の成長が喜ばしくてならなかった。


「その通りですわね、ビアンカ様。わたくしもそう思ったので、リネン室の値下げを生徒会で審議に掛けましたの。外部の、市民が運営するサービスに委託するか、はたまた値下げを敢行して他で補填するか。ちょうどマイニッツ社という民間のクリーニング業者が名乗りを上げてきたので、アルベルト様の方で、今その採算を見ているところですわ。あと、市民生徒の寮に警備が手薄なことへの、指摘と勧告もね」

「採算に、警備の見直し……」


 さすがは上級学年の二人だ。

 そこまでは即座に考えが及ばなかったビアンカは、ちょっとだけ唇を噛んだ。

 やはり、まだ兄や従姉には敵わない。


 悔しそうにしているビアンカを見て、ナターリアはそっと笑みを浮かべた。


「焦らないで、ビアンカ様。あなた様がそんなに急いで成長してしまったら、わたくしたちの立場がありません。今はこうして、知ろう、考えようとしてくれているだけで、充分ですわ」

「……ナターリアお姉様」


 すっかり黙り込んでしまった従妹に苦笑すると、ナターリアは空気を変えるようにやれやれと大袈裟に溜息をつく。


「だいたい、この手の事件に、やたら手慣れた対応ができてしまう学院なんて、嫌ではありませんか。下着泥棒など、そう頻繁に起こってよいものではないのですから。まったく、下着なんて盗む輩の気が知れませんわ」


 加勢を求めたのか、「ねえ?」とナターリアが問い掛けてきたので、レオは素直に頷いた。


「そうですね」

「ほら、レオノーラもそう思うでしょう?」

「はい。下着なんて、盗んで、何をするのでしょうね?」

「――……え?」


 呆然とするナターリアたちをよそに、レオはことんと首を傾げた。


 別に、かまととぶっているわけではない。

 レオは、下着泥棒などというものの動機が、本当にわかっていなかったのである。


(パン泥棒やカネ泥棒の話ならしょっちゅう聞くけど、下着を盗むなんて、聞いたことねえしなあ)


 皮肉な事実ではあるが、下着が流通していない下町では、強盗や空き巣は多発しても、下着泥棒など起こりようがない。

 下着を盗むなどという発想は、レオにとって未知との遭遇であった。


(なんで金じゃなくて、布なんて盗むんだろ。あ、裸を覆ってる布だから、エッチな目的で? ……って、それはねえか。んなの、布なんかより、裸実物の方が百倍いいだろうし)


 ついでに言えば、下町では、好きな女がいたら、「口説いて倒してやっちまえ」というのが流儀だ。

 ムラッときた相手がいた時、たかだか裸を覆っていた布だけ(・・・)拝借するような、謙虚な方法など取らないのである。


 ――下町育ちのレオの男女観は、それ相応に(さば)けていた。


(まあでも、盗みを働く目的っつったら、やっぱ究極的には金か。はは、俺ったらそんな当たり前のことを疑問に思うなんて、まだまだだな)


 結局、動機が腑に落ちなかったレオは、考える努力を放棄して安直な結論に落ち着いた。

 まあ、銀貨二枚もする下着が事実世の中にはあるわけだし、きっと合理的な行動なのだろうと、そう雑に片付けて。


「レ……レオノーラ……!」


 適当に思考を切り上げてすっきりしてしまったレオとは裏腹に、言葉を失ったのはビアンカたちである。

 彼女たちは、先程の発言から、少女が「男の欲望をかけらも想像できない」のだと理解したのだ。


 二人はばっと後ろを向き、頬がくっつき合いそうなほど顔を寄せると、ひそひそと小声で叫び合った。


「ちょ、ちょ……っ、ど、どうしますの!? どうしたらいいんですの、この初心(うぶ)! この純真さ! わたくし、この子に女性らしい自覚と警戒心を植え付けようと思っていたのに、こんな穢れのない子に、男どものゲスな欲望についてなんて話せないわ!」

「ビアンカ様、口が悪くなっていますわ! というかもう、教えなくてよいのではありませんか!? レオノーラはもう、このまま、ずっとこのまま穢れなき乙女で……!」

「ダメですわ! そんなことではこの子、結婚したら初夜のその日に泣いて逃げ出すにちがいないもの! ここはやはり、心を鬼にして、先延ばしになどせず……!」


 二人は、少女が「下着なんか盗むより、押し倒しちまった方が早いじゃん」などと、ワイルドすぎる価値観を持っているものとはつゆ知らず、ただただ、その無垢さに青褪めた。


 まあ、仮に初夜なんぞを迎えて、今の自分は「口説かれて押し倒される側」なのだということを自覚したら、レオはきっと叫んで逃げ出すに違いないので、ビアンカの発言もあながち全てが間違いとは言えない。


 二人は、従姉妹同士ならではの高度なコミュニケーションスキルを駆使して、僅かな身振りと視線だけで意志を疎通しあった。


 ――でもだからといって、こんなにも幼く、悲惨な過去を持ったレオノーラに、殿方の欲のなんたるかを突きつけるというのですか? アルベルト様だって、その辺りを配慮しているからこそ、ハグひとつしないというのに!

 ――そんな呑気なことだからいけないのですわ! 本来貴族令嬢、それも正妃候補ならば、十歳ごろから艶事の手ほどきを受けていてもおかしくなくってよ?

   ただでさえ、お兄様の龍の血は人一倍濃いというのに、これでは……!

 ――それは、そうですが……。仕方ありません、ならば、公爵家秘伝の閨房術指南書(ロマンス小説)を、いくつかお貸しするところから……。

 ――落ち着いて、お姉様。アレはフィクション通り越してファンタジーですわ。


 ばっさりと切り捨てる。

 ビアンカは、ことこの手の指導に関して従姉はあてにならないと見切りを付け、ぱっと少女に向き直った。


 こほんと誤魔化すように咳払いをし、おもむろに少女に近付く。


「――ねえ、レオノーラ?」

「はい」

「さっきは話の途中だったわね。ほら、この下着のセット、あなたにプレゼントするわ」


 ぱっと顔を輝かせた少女に、しかしビアンカはにっこり笑って告げた。


「だから、今すぐ、着なさい」

「…………は?」


 もともと大きな少女の瞳が、零れそうなほど見開かれる。

 だがビアンカは譲らず繰り返した。


「この女性らしさに溢れた下着を、今すぐ、この場で、着用なさいと言っていてよ」

「え……っ、えええ? そんな、ダメです!」


 もったいない、絶対だめ、といった内容を叫ぶ妹分に、ビアンカは若干据わった目で笑いかけた。


「なにが、ダメなどということがあって? 大切に取っておきたいという気持ちは嬉しいけれど、これはあなたが着るためにプレゼントしたのよ。だから、今すぐこの場で着るの。なんの不思議もないでしょう?」

「そんな! 不思議、いっぱいです! だめ、絶対!」


 レオとしては、高級下着をくれた精霊のように優しいビアンカが、突然態度を豹変させたことに戸惑いを隠せないでいた。

 なぜ自分が女性物の、しかもこんなぴらぴらした下着なんぞを身に付けなければならないのか――というのはまあ、相手がこちらを女の子だと思い込んでいるから仕方ないにしても、一回でも着用してしまったら、下着の価値が激減してしまうではないか。

 これから試食販売しようというのに、その対象の料理に唾を吹きかける売り子などいない。ビアンカが求めているのは、つまりそういうことだった。


「ほら、なにを固まっているの。反論は許さなくってよ。早くお着替えなさい」

「そんな……! 殺生な……! いやです! 絶対いや、です!」

「んもう! そんなだから、いつまで経っても女性らしさが身に付かないのよ!」


 ビアンカとしては、家宝のようにひしっと下着を抱きしめているにもかかわらず、それを一向に着ようとしない少女が不思議でならなかった。


「あなたも、その下着を気に入ったのでしょう?」

「気に入りました! けど、いえ、だからこそ、絶対、着られません! もったいない!」

「なにを言っているの! だいたいあなたは、時々遠慮が過ぎて妙に頑固なのよ……!」


 業を煮やしたビアンカが口調を荒げると、少女は怯えたようにじりっと後ずさる。

 肉食系の反射で、ついビアンカはその分の距離を詰め、その流れで少女の細い腕を掴みにかかった。


「んもう、こうなったら、その地味極まりないシュミーズを脱がせてしまうわよ!」

「ちょ……っ!」


 なんということだ。気高き第一皇女が、生娘に襲いかかる悪代官に変貌してしまった。


「まあ、ちょっと、ビアンカ様……!」


 いくら少女の将来のためとはいえ、過激な行動に打って出た従妹をナターリアは制止しようとしたが、ビアンカは聞かない。

 彼女は彼女なりの正義感に燃え、少女を寝台に引き倒そうとしていた。


 が、


(させるかよ……!)


 もちろんレオとて、黙ってはいなかった。


 誰がこんなぴらぴらした下着を着るものか。

 それに、アルベルトやオスカーには簡単に壁ドンさせてしまった過去を持つレオだが、さすがに女相手にそれをされるのは悔しすぎる。


 いや、ことはそんな低次元の話ではない。

 この戦いには、レオの男としての尊厳だけではない、下着の価値――ネードラースヘルム銀貨二枚分が懸かっているのだ。


(俺は戦う……! ネー様二枚分のために!)


 おまえの尊厳は銀貨二枚分にも劣るのかよ、というツッコミをしてくれる者は、残念ながらこの場にはいなかった。


 金のための戦士と化したレオは強い。

 なにかとチートなアルベルトには後れを取った彼だが、膂力やリーチであまり差のないビアンカ相手ならば、充分に相手取ることができるのだ。


 ビアンカが腕を取れば、すかさずそれを振り払ってベッドの後ろへ。

 そこをぐるりと回りこまれれば、ぴょんとベッドを駆け抜けて窓際へ。

 おろおろとするナターリアをよそに、ビアンカとレオは激しい攻防を続けた。


「お、待ち、なさい……っ、レオノーラ!」

「いや! 絶対、お断り、です!」


 息を荒げながら、部屋中を走り回る。

 だが、駆けっこに夢中になるあまり、レオは長いシュミーズの裾を踏んで、思い切りつんのめってしまった。


(ふぉっぶ!)


 声にならない悲鳴が漏れる。そこを見逃すビアンカではなかった。


「つかまえた……!」


 咄嗟に窓ガラスに手を付いたレオに、皇女の魔手が伸びる。


 狙っているのは、レオが握り締めている高級下着。

 一度それを奪って、無理矢理着せるつもりなのだろう。


(させるか!)


 とにかく、この銀香る高級下着を守らねばならない。


 レオは脊髄反射と防衛本能だけで、下着を握りしめていた両手をぐんと天に突き出した。

 目測を外したビアンカの腕が、軌道を修正しきれずそのままレオの胸元に伸びる。


「――きゃっ……!」

「わ」


 結果、ビアンカは相手を盛大に突き飛ばしてしまうこととなり、背伸びまでして両手を突き出していたレオは、見事にバランスを崩してよろめいた。


 華奢な体が激しく窓ガラスに叩きつけられる……!

 ――のは、レオにとってはこの際どうでもよい。


 問題なのは、


 ――ふわっ


「――……あ……っ」


 暖炉を焚いた部屋の換気のために、巨大な窓の上の部分だけを開けていた、その隙間から。


「――あ、あああ……っ!」


 よろめいた瞬間に手を緩めてしまったレオの手から。


「あああああああああ……っ! ……っ!」


 無情にも下着がひらりと夜の闇に吸い込まれてしまったことにあった。

<< 前へ次へ >>目次  更新