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《閑話》 レオとブルーノによる読み聞かせ「灰かぶり姫」と「孫子兵法」

「今から。読み聞かせを、始めます」


 その夜、ハンナ孤児院の寝室には、いつにない緊張感が張りつめていた。

 理由は簡単、ランプの傍に胡坐をかいたレオが、ぶっすー! と不機嫌マックスな面持ちでいるからである。


「今日の本は、俺が選びます。よってブルーノはこの場に不要です」

「レ、レオ兄ちゃん……?」


 抑揚のない声、据わった目で、いかにも適当に選んできたらしい「灰かぶり姫」の絵本をぺちぺち叩くレオ。

 直前まできゃっきゃと読み聞かせを楽しみにしていた子どもたちは、彼の尋常ならざる不機嫌オーラに、戸惑ったような声を上げた。


「ど、どうしたの……?」

「おい、レオ。今日の読み聞かせは、俺のお勧めの『兵法』を読むと――」

「今日は、灰かぶり姫を、読みます」


 相変わらずの無表情で、しかしわずかに焦ったように反論するブルーノを、レオは断固とした口調で遮った。


「俺のかわいい弟分たちに、『兵法』なんてわけのわからんものを読み聞かせようなんて、こいつはなにを考えているんでしょうね。馬鹿なんですかね。馬鹿なんでしょうね」

「なんだと? 『兵法』は、異国の地で誕生し、今なお語り継がれる、人生すら凝縮された、名著中の名著――」


 ブルーノがむっとしたように返すと、とうとうやさぐれ敬語すらかなぐり捨てたレオが、くわっと牙を剥いた。


「うっせえ! 今日はおまえのお勧めなんざ読む気分じゃねえんだよ! ってか、おまえの顔すら見たくねえんだよ! とっとと行けよこのばか! あほ! 泥棒! スリ!」

「なんだ、あのことでまだ怒っているのか。おまえも、たいがいしつこい」


 レオとブルーノは息の合う幼馴染だが、別にいつでも仲良しこよしというわけではない。

 特に沸点の低いレオがぷりぷり怒るのはままあることだったので、ブルーノはひょいと肩を竦めただけだったが、そのしぐさが一層レオの怒りに油を注いだ。


「しつこいってなんだよ! 勝手に人のへそくりを盗りやがって! 信じられねえ暴挙だよ、裏切りだよ! 悪逆非道の行いだよこの野郎!」

「武具の修理の支払いに、その日中に必要だったんだから、仕方ないだろう。借りた分は、ちゃんと同額、補填しただろうが」

「そういう問題じゃねえんだよ!」


 呆れたように返されたレオは、素早く立ち上がり、手近にあった古枕をすっぱーん!と床に叩き付けた。


「おまえにあの時の俺の気持ちがわかるのか!? 大切に、大切に、日夜磨いて名前まで付けてた小銅貨たちが突然一斉に姿を消して、一枚きりの銅貨に様変わりしてた時の気持ちが!」

「わからん」

「絶望の一言だよ!」


 レオはたたたたんっと軽やかに地団太を踏んだ――あまり本気で蹴りすぎると、床が抜けるためだ。

 一方でやり取りを聞いていた子どもたちは、


「あー……」


 すっかり事の全貌を理解していた。


 つまりこうだ。


 レオが大切にしていたへそくりを、ブルーノが支払いのために無断で借りてしまった。

 後から同額を返されたものの、十枚の小銅貨が一枚の銅貨に変わってしまい、レオは大層ご立腹であると。


 くだらない。

 もしこれがレオ以外の人間についてだったら、エミーリオたちは鼻を鳴らしてそう切り捨てていただろう。

 しかし、相手は大好きなレオ兄ちゃんだったので、彼らは全面的にその肩を持ち、ブルーノを非難した。


「ひっでーブルーノ兄ちゃん! 最低だな!」

「レオ兄ちゃんの気持ちを考えると、それだけで泣けてくるわよ」

「ないわー!」


 援護射撃を受けたレオはくるっと振り返ると、感極まってエミーリオたちを抱きしめた。


「わかってくれるか!? なあ、おまえらわかってくれるか!? あの小銅貨たちは俺の『家族』だったんだよ! それがある日いきなりみーんな誘拐されて、『おんなじ働きをするからいいだろ』って赤の他人が一人寄越されて、それで怒らない人間はいるかよ! なあ!」

「いないよ! ブルーノ兄ちゃんはひどいよ!」

「人にして人に非ずだね!」


 ぎゅっと抱きしめられてご満悦の子どもたちは、よせばいいのに、さらにブルーノを攻撃しはじめた。


「こんな人非人(にんぴにん)、そばにいたら僕たちもいやだよ! 早く退場したらいいのに!」

「今日の読み聞かせは、レオ兄ちゃんだけで充分だよ! 退場しちゃえ!」

「というか、これからずっと、ブルーノ兄ちゃんはいらないわよ! 退場退場!」


 矢継ぎ早の連係プレーで責め立てられて、さすがのブルーノもむっと眉を寄せる。


「おまえら……『兵法』には『窮冦(きゅうこう)には迫る()かれ』という名言があってだな――」

「『兵法』なんて、知らないし!」


 ブルーノのうんちくも一刀両断してみせると、子どもたちはしっしとブルーノを追い払う素振りをし、


「レオ兄ちゃん、早く読んでー」

「灰かぶり姫、どんな話ー?」


 一転レオには甘えた声を上げた。


「お、おう……」


 レオはといえば、ちょっと過激すぎる子どもたちの反応で我に返り、「さすがに大人げなかったかな」と反省したが――人間、自分よりひどい酔っ払いを見ると酔いが覚めるというアレである――、かといってこちらからブルーノに詫びるのも癪だったので、なんとなく腰を下ろし、読み聞かせの態勢になった。


「…………」


 ブルーノは、手に持った「兵法」とやらにちらりと視線を落とすと、無言でその場を去って行く。 レオは、なんとなくそれを視線で追ってしまったが、やがてぷるぷると頭を振って意識を切り替えた。


「えーと、昔々、あるところに、とても美しい女の子がいました」


 ありきたりの導入を読み始めると、すかさず子どもたちから、


「美しいって、どんなー?」

「髪の色は?」

「目のいろは?」


 細かな質問が飛んでくる。

 人の容姿に興味が無い――というか、「金払いがよいか悪いか」くらいでしか人を見ていないレオは、大層適当にその辺の情報をでっち上げた。


「えーとそうだな、髪は金貨みたいな金色……はさすがに庶民じゃ少ないだろうから、きっとアンネみたいな栗色だな。で、瞳はマルセルみたいな灰色だ」

「主人公なのに、意外に地味な色彩なんだね」

「うふふ、主人公と私、同じ髪の色なのね」

「目のいろも、ぼくといっしょかあ」


 反応は様々である。

 レオは「うんまあそんな感じで」とラフに流すと、話の続きを読み進めた。


 女の子の母親は早くに亡くなり、父親は再婚相手と、その連れ子である二人の義姉を連れてくる。

 ところがこの義母と義姉は、女の子につらく当たり、こき使う。

 女の子はいつからか暖炉で寝泊りをするようになり、その灰にまみれた姿をもって、「灰かぶり」と呼ばれるようになるのだ。


「なんで、はんげき、しないんだろうねー?」

「私、こんなことされたら、相手を即座にフルボッコだわ」

「何か目的があるのかもしれないね」


 子どもたちが一斉に首を傾げたのを見て、レオもまた「ふむ」と顎に手を当てた。


 確かにレオがこの主人公だったら、無賃労働を強いられた時点で蜂起しているだろう。

 それをせずに、灰にまみれて日々を過ごしているのだから、そこには何かしらの目的があるのに違いなかった。


 日々灰に身を突っ込む理由。


 暖を取りたいなら義姉から布団を奪って来るか、誰かの寝台に侵入すればよいわけだから――少なくとも孤児院連中ならそうする――、そうなると、暖炉にあえて首を突っ込むなど、泥棒くらいしかしない行為だ。


「……まあ、灰の中から金目のものを探し出す訓練でもしてたんじゃねえ? この女の子は、スリ予備軍だってわけだ」


 どうやらレオの意識は、知らぬ間に相当「泥棒」だとか「スリ」だとかの方向に引っ張られているようだった。


「なるほど……。そういえば、スリ師のおじちゃんが、指先の感覚をきたえるために、まいにち、ごまの粒をひろいあつめてるって言ってた……それとおなじことか」

「日常にあるものを使って訓練するとは……。発想がいいだけに、彼女の選択が悔やまれるわね」

「スリじゃなくて、けんじつに稼ぐ未来も、ありえたのにね」


 みんなで引っ付いて寝るために、「燃え残りの灰で暖を取る」などという発想にはとんと縁がなく、逆にスリは毎日のように目撃しているエミーリオたちは、神妙な表情で頷いた。

 どうやら「灰かぶり姫」は、プリンセスものではなく、犯罪ものの童話であったらしい。


 次のページでは、ちょうど母親の墓の前で灰かぶりが、


「灰の中からでも、小さな幸せを見つけることができたなら、きっとあなたは立派な……になれるわ」


と精霊に諭されているシーンだったので、レオはもちろん、その擦り切れた部分を「女スリ師」という言葉で補完した。

 孤児院の古本は、何度も読み返したのであろう大切な部分に限って、擦り切れているのが常なのである。


 レオは特に展開になんの疑問を覚えることもなく、なめらかに物語を読み進めた。


「さて、そんな灰かぶりにも、やがて運がめぐってきました。なんと、皇子が主催する舞踏会の招待状が届いたのです。帝国中のすべての女性を招く、盛大な舞踏会。灰かぶりは胸をときめかせ、参加を願いました」

「まあ、帝国中の金目のものが集まるわけだものね」

「だれでもねらうよね」


 納得の子どもたち。

 しかし義姉は、灰かぶりの犯罪を食い止めるためなのかなんなのか、暖炉に豆をぶちまけて、「これを灰の中からすべて拾い終えるまでは、舞踏会に来てはいけないよ」と言いつける。


「おお! 豆拾い、ここでつながるんだ!」

「伏線だったのね!」


 目を輝かせた子どもたちに頷きかけ、レオは厳かに続けた。


「灰かぶりは見事に豆を拾いおおせると――日頃の努力が報われたわけだな――、舞踏会に向かう準備を始めました。しかし、灰かぶりには美しいドレスも、舞踏会にふさわしい靴もありません。彼女は母親の墓に向かい、しくしくと悲しみの涙を流しました」


 すると、なんとしたことでしょう。

 レオは自らも少々驚きながら、ドラマティックな展開を語りはじめた。


「ふいに母親の墓が光ると、ローブをまとった導師が現れたではありませんか。その導師は、灰かぶりの日頃の懸命さと健気さを讃えると、彼女にドレスと靴を授けました」

「えええ!? スリ的な方向の努力でも報われちゃうの!?」


 子どもたちもびっくりだ。

 努力は報われる、というのが童話の鉄則だが、まさか「無欲と慈愛」を掲げる教会導師がスリを幇助(ほうじょ)してしまうとは思いもしなかった。


「ど、どういうことなんだ……」

「まったく先が読めないわ……」

「ああ、俺もこんな童話は初めてだよ」


 レオも重々しく頷く。


 ブルーノはあれで、突っ込みの役割を適切にこなしていたらしい。

 彼を欠いた読み聞かせは、今や先の読めない展開を描きながら、作者の思惑とは大きくかけ離れた方向に進みつつあった。


 レオは怪訝な顔をしながら、ぺらりとページをめくった。


「さて、ドレスをまとった灰かぶりは、かぼちゃの馬車に乗り、導師に見送られて舞踏会へと出かけました」


 この導師というのが実にファンキーな人物で、怪しげな術を用いてかぼちゃを馬車に、ネズミを御者に仕立てあげ、灰かぶりに託すのである。

 ところどころ擦り切れて読めなかったが、


「いいかい、必ず、術が切れて正体がばれないように、無事に帰るんだよ」


 という導師の言葉に、


「はい」


 と灰かぶりは頷いていたので、おそらくは、導師はこのイカサマ錬金術でひと儲けする術を彼女に授けたに違いない、とレオたちは踏んでいた。


 スリに詐欺。

 ますます主人公の罪状は重なるばかりである。


 アンネたちは、先の読めない展開に困惑しながらも、どきどきと胸を高鳴らせながら耳を澄ませた。

 こんなにもダークで犯罪者な主人公は初めてだったが、美しく努力家の犯罪者というのにも、なかなかの魅力が感じられたからである。


「お城に到着した灰かぶりの、その美しさに、その場にいた全員がうっとりとため息を漏らしました。皆が灰かぶりに近づきますが、しかし、彼女はすぐにその輪をするりと抜けてしまいます。会場を舞う蝶のような姿に、誰もが心を奪われました」

「心っていうか、それ以外のものも、うばわれてるんだけどね……!」

「蝶のように……灰かぶりったら、鮮やかな仕事っぷりね……」


 犯罪者とはいえ華麗な活躍を見せる灰かぶりに、エミーリオたちは応援したものやら非難したものやら、複雑な心境だ。

 悪者は捕まった方がよいような気もするし、一方で、彼女に無事逃げ切ってもらいたい気持ちもあった。


 が、一応この話では、皇子が刑事役として配置されているらしい。


 舞踏会の一日目からずっと灰かぶりのことが気になっていた皇子は、なんとか彼女と話したいと考える。

 そうしてしばらく彼女(ホシ)を泳がせた後、三日目の舞踏会の日、こっそりと中座しようとしていた灰かぶりを呼び止めて、とうとうその手に捕らえようとするのだ。


「『お待ちください、姫』と、皇子は言いました。灰かぶりはびっくりして、咄嗟に逃げ出そうとしてしまいます。すると皇子は、そっと灰かぶりの顎を取り、その美しい顔に優しく話しかけました。『やっと捕まえた。さあ、その顔を僕によく見せておくれ』」


 作者の趣味なのか何なのか、ここら辺の描写だけ、やけに恋愛小説的だ。

 すっかりぼろぼろになったのを、なんとか貼り合わせたらしい挿絵の中でも、灰かぶりは皇子の腕に囲われて顎を取られており、まるで灰かぶりが「壁ドン・顎クイ」でもされているかのように見えた。


「――……というか、もしかして、これ、本当に壁ドンされているんじゃ……?」


 ふと、実は「灰かぶり」は恋愛系童話なのでは、という可能性に気付いたアンネが、恐る恐る口をはさむ。

 しかし、レオは「まっさかあ!」と一笑すると、早熟なアンネをがしがしと撫でた。


「これは単に、『やっと捕まえたぜ観念しろ、その(ツラ)とくと見せてもらおうじゃねえか』って意味だろ。残念だけどな、アンネ。おまえが前に言ってた恋愛系『壁ドン』なんてのは、現実にはそうそうねえもんだぜ?」


 アンネは「えーっ」と口を尖らせた。


「そんなことないわよ、『壁ドン』はきっとあるもん! 男の人が、好きな女の人を腕に閉じ込めるために、するんだもん!」

「あはは、ないない。男が相手を壁際に追い詰める時は、金を取り立てるためか恫喝するためって相場が決まってんだよ」


 現に俺の全人生で、そういう「取り立て壁ドン」しか見たことねえぜ? とあっさり言い切るレオに、アンネは「ええー」と眉を下げ、不満を露わにする。


「いつかレオ兄ちゃんが男の人に『ときめき壁ドン』されて、意味を勘違いしても、私、知らないんだから!」

「ん? わり、アンネ、今なんて?」


 小さな呟きは残念ながらレオに届かなかったらしい。

 聞き返されたが、冷静に考えてレオが男から恋愛的な意味で壁ドンされるはずもなかったので、アンネは馬鹿らしい主張を取り下げた。


「……なんでもない」

「んー? まあとにかく、おまえは壁ドンなんつーイタい行動をとる男を選ぶなよ、ってこった」


 これでレオは、アンネに悪い虫が付かないかを割と気にしている方だ。

 壁ドンの現実(リアル)を教え込むと同時に、それとなく釘を刺すと、「ねえねえ続きはー?」とせがむエミーリオたちに向き直った。


「ええと、わりわり。……灰かぶりはその腕を振り払い、慌ててその場から去ろうとしました。導師の言いつけどおり、帰らなくてはならないからです。彼女は皇子の腕を振りほどくと、ドレスの裾を掴み、さっとその場から走りだしました」

「なるほど、まさに『馬脚をあらわした』わけか」


 難しい言葉を使いたがるお年頃のエミーリオが、正体を見破られ捕まりかけている灰かぶりのことを、そんな風に評す。

 すると目を見開いたマルセルが、


「灰かぶりは、うまだったの!?」


 などと尋ねてきたので、興に乗ったレオは、


「おおっと、馬脚を現したハイカブリフェーブルが、ここで大きく引き離しました! 独走か!? 独走だ! ぐんぐんぐんぐん、圧倒的な速さで周囲を置いていくー!」


 灰かぶりバーサス皇子の逃走劇を、競馬風に実況してやることにした。

 どうせこの辺りのページは読み込まれすぎていて、文章がほとんど残っていないのだ。


「うわあ、競馬だ!」

「童話が、競馬になったぞ!」


 目新しいことが大好きな子どもたちは、きゃっきゃと笑ってそれに聞き入った。

 競馬は上級市民の娯楽であって、彼らは場内のドリンク販売のバイトくらいしかご縁が無い。しかしその分、競馬というのは下町の子どもの、憧れのエンターテインメントなのである。


「しかーし内からオウジテイオーが伸びてきた! 内からオウジテイオーが伸びてきた! 来るか!? 来るのか!? フェーブルを激しくテイオーが追い詰めるー!」


 もはや皇子なのか帝王なのかわからない。


「会場の真ん中を通ってフェーブル! 栗色の髪が、栗色の髪が風になびきます! 栗毛の女王フェーブル! 追いかけるテイオー! しかし追いつかない! ゴールまではあとわずかです!」


 子どもたちはごくりと喉を鳴らす。

 彼らの脳内には、今やありありと、爆走する栗毛の灰かぶりと、白馬の皇子の図が浮かんでいた。


「さあ差は開くか! 差は開くか! おおっとフェーブルが身をかがめた! ぐんと身をかがめた! ぐんぐんぐんぐん、差が開いていく! ぐんぐんぐんぐん、開いていくー!」

「フェーブル逃げ切れえええ!」

「テイオーも負けるなあああ!」


 子どもたちは今や、手に汗すら握りしめていた。

 しかしそこで、


「だが、ああああ!」


 レオの悲痛な声が響く。


「転倒! 転倒です! ハイカブリフェーブルが、足を取られて転倒おおお!」

「ええええ!?」


 まさかの展開に、エミーリオたちは一斉に頭を抱えた。

 なんと、オウジテイオー、もとい皇子は、灰かぶりを捕まえたいばかりに城の外階段にタールを塗っており、灰かぶりはそれに馬蹄、もといガラスの靴を取られてしまったというのだ。


「なんてひきょうな!」

「見損なったわ!」

「スポーツマンシップはどこにいった!」


 元からそのようなものは、童話には存在しない。

 しかしながら、子どもたちは、憤懣やるかたないというような心持ちであった。


 ところがこの灰かぶり、やはり女スリ師を志すぐらいには強いガッツの持ち主であるらしく、ガラスの靴を片方置き去りにして、軽やかにその場から立ち去ってしまう。

 尻尾を切り落として難を逃れるトカゲのような、凄まじさすら感じさせる割り切りぶりに、一同は感服の声を漏らした。


「最後にはひづめをすてて、完走するとは……」

「スリながら、あっぱれだわ……」


 レオも、「まったく、大した女だよ」と頷きながら次のページをめくった。


「さて、その場に残された靴を見て、皇子は一層、灰かぶりを見つけ出すのだという思いを強くします。そこで皇子は、帝国中の女性にこの靴を履かせ、ぴったり合った者を連れてくるようにというお触れを出しました」

「スリにあったくらいで、しめいてはいをかけるなんて、肝っ玉のちいさい男だね!」

「こんな皇子がいたら、世も末だわ!」


 すっかり灰かぶりに肩入れしつつある子どもたちは、皇子の横暴にぷりぷりと怒りを募らせた。

 レオは「まあまあ」と宥めたが、まさか自分自身が近い将来、灰かぶりとほぼ同様の運命を辿ろうとは、この時の彼は予想だにしなかったのである。


「当然、灰かぶりの家にも、靴を持った使者がやってきます。灰かぶりは名乗り出て靴を履こうとしました」

「あ、自首しようとしたんだ」

「ますます殊勝じゃないの」


 しかしここで予想外の展開が彼女を待ち受ける。

 なんと、潔く靴を履いて名乗り出ようとする灰かぶりを義姉が止めるのだ。


「お義姉さんたちは言いました。『おやめ、灰かぶり。この靴はあたしたちのどちらかが履くわ。あんたに合うわけなど、ないじゃないの』」

「…………!」


 まさか、とエミーリオたちが絶句する。

 レオは子どもたちの視線を受け止めると、神妙な面持ちで頷いてみせた。


「――……ああ。このお義姉さんたちは、灰かぶりのことをかばおうとしたんだな。身代わりになって、出頭しようってわけだ」


 まったく違う。


 だが、そういえば舞踏会の時には灰かぶりの犯罪を妨害しようとしていたことなども手伝って、レオたちは「義姉=家族愛の人」説をまるで疑わなかった。


「『それはいけません。すべての女性が履くようにとのお触れです』と使者は言いましたが、お義姉たちは、『まあ、どうして? この子はずっと豆拾いをしていたのよ。舞踏会に参加していただなんてこと、あるものですか!』と断ります」

「アリバイまで……!」

「更には、自分の足に靴が合わないとわかると、その指先をそぎ落とし、無理やり靴に収めようとしました」

「…………!」


 義妹のケジメを付けるために、自らの指を落とすとは、血の盟約をも上回る家族愛だ。

 女たちのその激しい愛情に、エミーリオたちは愕然とした。


「こ、これが、家族……!」

「なんていう……!」


 その強すぎる絆、深すぎる無償の愛に、子どもたちだけでなくレオも、しばし言葉を忘れ黙り込んだ。


 夜の寝室に、しんと沈黙が横たわる。

 誰もなにも言えないでいると、やがてレオが「なあ、おまえら」とおもむろに口を開いた。


「『灰かぶり姫』の物語は、残念ながら落丁のせいで、ここで終わってる。でも、俺は……きっと灰かぶりは改心して、指を失ったお義姉さんの足となりながら、償いの日々を過ごしたんじゃねえかと思うんだ」

「うん……」

「ぼくも、そう思う……」


 子どもたちの小さな拳が、きゅっと握りしめられる。

 レオはぱたんと絵本を閉じると、ひとりひとりの頭を撫でてやった。


「なあ、エミーリオ、アンネ、マルセル。俺たちは本物の『家族』じゃねえけどさ、でも、もしおまえらが灰かぶりみたいに罪を犯すことがあったら、やっぱり俺はこのお義姉さんみたいに、おまえらのことを見捨てられねえと思う」

「レオ兄ちゃん……!」


 あどけない瞳がじわっと潤む。その視線をしっかりと受け止めながら、レオは「それってつまりさ」と言葉を続けた。


「つまり、おまえらの罪は、おまえらだけの罪じゃねえってことだ。おまえらが泥棒したり、人を傷つけたりしたら、それは俺やブルーノやハンナ院長、孤児院みんなの罪になる。みんなが悲しむ。だから、絶対、灰かぶりみたいなことをしちゃ、だめだぞ」

「うん……!」

「うん、しないよ……!」

「スリも、詐欺も、ぜったいしない!」


 子どもたちはぎゅうっとレオに抱き着きながら、誓いの言葉を口にした。

 本来の「灰かぶり姫」のストーリーとしてはかけ離れているが、まあ、これはこれで、道徳的に機能しているようである。


 しかし、こういった場面になると、必ず横槍を入れてくる人物が、この孤児院にはいるのだった。


「――おい、レオ」


 ブルーノである。


 彼はなぜか古びた紙の束を脇に持ち、つかつかとこちらに歩み寄ってくると、レオがなにかを言う前に、ぬっとそれを突き付けた。


「詫びだ。やる」

「詫び?」


 レオは訝しげな表情を隠しもしなかったが、なんとなく受け取ってしまう。

 そして、その紙の束の正体を理解して、はっと目を見開いた。


「おまえ……、これ……!」

「ああ。ウフボルン商会の、十年前の帳簿だ」


 なんとそれは、現在五大商家のひとつに数えられる、ウフボルン商会の帳簿だったのである。

 通常商会の帳簿は、それぞれの企業が厳重に管理するものであるが、五年に一度、役所が監査のためにそれを押収し、十年保管した後に廃棄することになっていた。


「たまたまこの前、役所の清掃のバイトをしていたら、保管期限切れ帳簿の、焼却処分を頼まれてな。おまえが好きそうだと思って、取っておいた」


 俺には、数字の羅列にしか見えんが、おまえには違うんだろう?


 そう問われたレオは、ぜんまい仕掛けの人形のように、かくかくかくと素早く頷いた。

 いや、人形なんかではない、その鳶色の目は潤み、そばかすの散った頬も興奮に赤らんでいる。


「ウフボルン商会の……! 十年前……! まさに不況を脱して大商家への足掛かりを作っていったといわれるゴールデンエイジじゃねえか……!」


 レオは震える手で帳簿をめくっていった。会計係によって記帳されたと思しきページには、びっしりと数字が並んでいる。


 子どもたちは、家族愛の灰かぶりから取り残されてぽかんとしていたが、レオはそれにも構わず――というか純粋に視界に入っておらず――溜息を洩らしながら帳簿を見つめた。


「見ろよ、この収支バランスの美しさ……この、売上単価が徐々に上がっていく高揚感……! あっ! この月からゼロの桁が変わってる。銅貨換算から、小銀貨換算になったんだ! ちっくしょう、見ろよ、数字が誇らしげに笑ってやがる……!」


 絵本なんて放り出し、大興奮で帳簿をめくるレオを見て、マルセルたちはレオにしがみついたまま、ぎっとブルーノを睨み付けた。


「ちょっと、ブルーノ兄ちゃん! なんてもの持ってくんだよ!」

「今レオ兄ちゃんは、私たちに読み聞かせしてるのよ! 邪魔しないでよ!」


 だがエミーリオだけは、なにかを察したように「まずい……」と青褪めだした。

 ばっと身を翻し、レオにまとわりつく他の二人を制止しようとする。


 がしかし間に合わず、


「ねえねえレオ兄ちゃん! そんなことより、私たちにもっとお話――」


 アンネが唇を尖らせておねだりを口にした、その瞬間。


 ――がしっ。


 なぜかものすごくいい笑顔を浮かべたレオに、マルセルとアンネは、しっかりと抱きしめられた(・・・・・・・)


「そうか! おまえらも、一緒に帳簿を見てえか!」

「え……?」

「レ、レオ兄ちゃん……?」


 大好きなレオ兄ちゃんからの抱擁だ。嬉しくないはずがない。

 しかしなぜだろう、マルセルとアンネは、今理由のわからない冷や汗をにじませていた。


 いったいどうしてなのか――蛇ににらまれ、尻尾でその身を絡め取られた、蛙のような心持ちがする。


 体を硬直させた二人に、レオは嬉しくてたまらないというような、満面の笑みを浮かべて言った。


「そおーか、そうか! 俺は嬉しいぞ! おまえらが帳簿に興味を持ってくれるなんて!」

「え、いや……」

「あの……」

「原価から、単価から、一つ一つ見ていこうな。なあに、粗利益なんて簡単なことだ、おまえらならすぐ理解できるよ――なっ、エミーリオ!」


 そろりとその場から脱出しようとしていたエミーリオのことも、カメレオンのような素早さで捕獲する。

 包囲網に絡め取られたエミーリオは、つい「ひい!」と上ずった声を漏らした。


 レオのことは好きだ。読み聞かせは特に大好きだ。


 だが、――レオによる、こと算数と会計学の授業は、金への愛が迸りすぎるだけに、いつも長丁場で、しかもスパルタなのである。


「エミーリオ、おまえこの前、九九の七の段で詰まってたよな。四則演算ができねえと、帳簿を読むのはちっと厳しいぞ。二けた掛け算くらいまでは頑張ろうな。今夜中に」

「え……っ」

「アンネ、マルセル、おまえらは根気に欠けるところがあるからなあ。でも、この帳簿の縦計――五十項目くらいあるから、その足し算を一年分くらいすれば、根性もつくよな! 今夜は頑張ろうな!」

「ええ……っ!」


 いやだ。

 おしゃべりで夜更かしするならともかく、勉強での徹夜なんて絶対いやだ。


「ブ、ブルーノ兄ちゃん! 助け……!」


 上機嫌のレオに捕獲された子どもたちは、涙を浮かべながらブルーノに手を伸ばす。


 が。


「おや」


 ブルーノは、ゆっくりとその黒い眉を引き上げただけだった。


「今日どころか、これからずっと、おまえらはレオと過ごすんだろう?」


 夢が叶ってよかったな。


 そう言って、踵を返してしまうではないか。

 子どもたちはさあっと血の気を引かせた。


「や、やだあああ! ブルーノ兄ちゃん! 行かないでえええええ!」

「レオ兄ちゃんを止めてえええええ!」

「謝る! 謝るからあああああ!」


 絶叫する三人をよそに、


「ははっ、おまえら元気だなあ。じゃ早速、行ってみよっか。一ページ!」


 レオはにこにこと、先ほどの読み聞かせなんて目じゃないほどの集中力で帳簿をめくりだした。





 ――窮冦(きゅうこう)には迫る勿かれ。

 ――追い詰められて切羽詰った相手を、さらに追い詰めてはならない。いつか手ひどいしっぺ返しを食らうから。




 「灰かぶり姫」を読み聞かせてもらったはずなのに、なぜか兵法の教えを胸に刻みながら、子どもたちはげっそりと帳簿に向き合うこととなるのであった。

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