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《後日談》 レーナ、絶叫する(後)

 という、夢を見た。


「とかだったら、どんなにいいか……」


 精霊祭の、夜。

 未だ祭の空気が色濃く漂う周囲をよそに、レーナは早々に孤児院に引き上げ、その屋根裏部屋に引き籠っていた。


 机もない、椅子もない。寝台すらないそのスペースで、ただ燭台を片手に、くり抜き窓から夜空を見つめる。

 新しい季節の始まりを告げるその日、空は夜になっても澄み渡り、ところどころに星を瞬かせていた。


 外からは、ワインや踊りで気持ち良くなった人々の、陽気な歌い声が聞こえてくる。

 レーナはぼんやりとそれに耳を傾けながら、この一日のことを思い返していた。


 美貌の皇子に抱きかかえられ、「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」が出没し。

 その美しさとあどけなさにすっかり心掴まれた群衆が、耳を(ろう)さんばかりの歓声を上げ、彼女を讃えた。

 挙句、あの大馬鹿激鈍(ゲキニブ)フラグ量産守銭奴が、意味ありげに両手を組んだりするものだから、すっかり聖女扱いが広まってしまった。


 そうだ、その時、あの馬鹿と自分は、一瞬目が合ったのだった。

 いや、自分が殺気を飛ばしたから、奴は怯えて精霊に祈りだしたのだったか。

 とにかく「いっぺん死にさらせこの大馬鹿野郎」と思ったことは覚えているが、その辺の記憶は曖昧だ。


 その後、どうやって孤児院に帰って来たのかも、実はあまり覚えていない。

 断片的に、子どもたちがやたら興奮していたことだとか、ブルーノが自分と彼らをまとめて連れ帰ったことだとか、なんとなく脳裏にある気もするが、確証はなかった。

 気付けば、この屋根裏部屋に呆然と座らされていたのだ。


 深すぎる絶望と怒りは、人間から時間の感覚を奪うのだということを、レーナは知った。

 別に、知りたくもなければ、知ってなんら嬉しくない発見だった。


 ――コン


 とその時、ドアがノックされて、誰かが入ってきた。


 振り返らずともわかる。

 このおまけのようなノックの仕方、そして足音のない歩き方は、ブルーノだ。


『レーナ。まだ起きていたか』


 彼は、レーナと二人きりで話す時は、母国語であるエランド語を使うことが多い。

 ヴァイツ語と同じくらいその言語に長けているレーナは、もはや無意識に『なによ』とエランド語で返した。


『寝ているわけがないでしょ。まだ宵の口じゃないの』

『……一応、日付は変わる時間だが』


 なんと、酔っ払いたちが騒いでいるせいでわかりにくかったが、すっかり深夜になってしまっていたらしい。

 これは本格的に精神が麻痺していたようだと、レーナは苦々しげに眉を寄せた。


『……いいでしょ、どうでも。なに? なにか用なの?』


 ブルーノが気遣ってくれている可能性もありえたが、それを考慮できないくらいには、彼女はくさくさしていた。

 どうせ、この男の前で、社交性を披露する必要などないのだ。

 レーナはとげとげしい口調で聞き返したが、彼は薄い唇をわずかに持ち上げると、


『手紙だ』


 分厚い紙の束を差し出してきた。


『……手紙?』

『ああ。早馬で来た。孤児院くんだりに、それもこんな深夜にな。差し出し人は、――わかるだろう?』

『――貸して』


 レーナはぱっと立ち上がると、ブルーノから素早く手紙を取り上げた。

 燭台にかざし、差し出し人を検める。


 レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。

 大馬鹿激鈍(ゲキニブ)フラグ量産守銭奴からだ。


 レーナは、再び無言で座り込むと、素早く封を開け、中身に目を通していった。ブルーノが隣に座りこんで覗き込むのも黙認する。


 上質な羊皮紙には、小さな文字でびっしりと文章が書き連ねられていた。


 最初の二枚ほどは、ひたすらレーナへの詫びが綴られている。

 いつも手紙は、こまこました文字、しかも簡潔な文章で、一枚きりにみみっちく収めるあの守銭奴からしたら、破格の謝意の表明であると言えよう。――それを理解できてしまう自分が、ほとほと嫌になるが。


 盛大な謝罪の後には、今後レオとレーナが交わす手紙は、一切の検閲を必要としないよう手を打ったという説明が書かれていた。

 なんでも、レーナ――「ハンナ孤児院のレオ」――は、孤児でありながら魔術に造詣の深い頭脳明晰な人物であり、このたびの水の召喚陣は彼の着想にヒントを得たものであるので、陣の機密保持のためにも、今後二人の遣り取りは秘密裏に守られるべし、と従者を説得したというのだ。


 たしかにカイは、レーナのことを「下町にあるまじき頭脳の持ち主」と認めていたようだったので、簡単に騙されてくれたようだが、それにしても無茶苦茶な、とは思う。


 ただ、厄介事がひとつだけ解消されたことは間違いないので、レーナはその辺のツッコミを避けた。

 まあ、あえて言うならば、そういった「配慮する力」を、もっと違う方向に割いてくれよとは思ったが。


 続いて、手紙はこのたびの経緯の説明に移った。


 最後の祖父母孝行と思って、侯爵夫妻がセッティングした茶会に出席したこと。

 その場に、魔力を封じられた皇子が現れたこと。

 皇帝は皇子に継承権剥奪を匂わせ、同時に皇后に、「責任を取っておまえも庶民に堕ちろ」と婚約を勧められたこと。


 そこまでは、まだいい。彼だけの責とは言いにくかろう。


 問題は、レオが「庶民になってしまった方が堂々と失踪できるではないか」だとか、「ついでに皇子を弟分にして、孤児院の労働力にしてしまえ」と思い至った挙句、ばっちり盛大に「庶民に堕とされても私たち一緒にいます!」と宣言し、皇子に「だから心配すんなよ!」と念押ししたことにあった。


『あんの、馬鹿……!』


 手紙に書かれていた内容に、レーナは頭を押さえた。

 しかし、至って真面目な口調で綴られた文章は、更にこう続いていた。




 ちょっと俺も調子に乗っていたのは否めません。

 内心、ほんのちょっぴり、皇子ざまあと思ったり、畑のカカシ扱いしていたこともまた否定できません。

 なにしろ、ずっと俺のことを監禁・処刑したがっていた相手が権力を失うということだったので、その解放感から、俺は相手のことを「アル坊」などと呼ぼうとしたのです。


 でも、それがいけませんでした。

 なぜなら、俺のそのような態度にぶちキレた皇子が、魔力を爆発させ、始祖すら手こずらせたという伝説級の魔封じを解いてしまったからです――マジでちびるかと思いました――。


 怒り心頭の皇子は、俺の腕を拘束し、「二度と離さない」と再度終身刑を宣言するとともに、王様に帝国は自分が乗っ取ると言い放ち、挙句、嫌がる俺を引き立てて、バルコニーへと引きずり出しました。

 この顔を民衆に晒し、脱走を困難にするためです。

 俺は、精いっぱい抗いましたが、敵いませんでした。


 後は、レーナも見ての通りです。

 本当にすみませんでした。

 俺の浅はかな選択が、このような禍を招いてしまったこと、お詫びのしようもなく……――




 以降、しばらく詫びの言葉が続く。

 が、レーナはそこには目もくれず、


『そうじゃないでしょおおおおおお!?』


 と震える手で便箋を握りつぶした。


 アルベルト皇子は、庶民に堕ちてなお一緒にいると言い放った少女(レオノーラ)に、激怒したのではない、歓喜したのだ。

 それで、詳細はわからないが、きっと奴の余計な「念押し」は、ますます皇子を奮起させたのに違いない。


 恐らく、「アル坊と呼ぼうとした」とか言うのも、暴言封印の魔術がえげつなく作用した結果、「アル……っ(うるうる)」みたいな感じにアレンジされて、それにますます勇気を得た皇子が魔力を爆発させたのだろう。


 「二度と離さない」はもちろんプロポーズ、乗っ取り宣言はもちろん即位表明、そしてバルコニーへの連行は、もちろん愛しい女性の紹介だ。


 その場にいなかったレーナですら、こんなにも簡単に想像が付くというのに、どうして本人はまるで頓珍漢な解釈をしているのだ――!


『なんなの!? 馬鹿なの!? アホの子なの!? こいつ、頭のネジが十本くらい抜けてるんじゃないの!?』

『言うな。仕様だ。あいつは、人から向けられる好意や恋情に、ひどく疎いんだ』


 そういったものを信じることを、奴はやめてしまったからな。


 ブルーノがなにげなく付け足した一言に、レーナは一瞬黙り込む。

 孤児院の子どもたちは、皆陽気で、朗らかで、伸び伸びとしているが――こうした瞬間、ごくたまに、影が覗く。


『……それにしたって、この頓珍漢ぶりはないわよ』


 ぼそりと呟いた後、レーナは口を引き結んだ。


 まあ、考えようによっては、レオが孤児院に戻ってきたときにさっさと体を戻してしまわなかった自分にも責任はあるのだ。

 余計な感傷に身を任せてしまった。

 やはり、感情などというのは悪さしかしない。


 せめてきちんと、皇子に恋情を向けられているのだということを説明しておけば、あるいは――。


(……いえ、待って?)


 レーナはふと思った。


 この、勘違いの精霊に愛されたようなレオのことだ。

 やはりそれはそれで、どんな事態に発展したものか、わかったものではない。


 例えば、シミュレーションしてみよう。

 もし、レオが、皇子に敵意ではなく、好意を向けられているのだと知ったら――?


(まず、驚くでしょう。で、あいつは馬鹿だから、馬鹿正直に、皇子に直接「あんたが俺のことを好きだなんて嘘だよな」だとか聞くんだわ。いえ、きっと例のたどたどしい口調になるのね。「皇子、私のこと、好きだなんて……嘘、なのですよね?」とかそんな感じで)


 レーナはぞっと背筋を凍らせた。

 いったいなんという勘違い製造機だ。


 自分で言うのもなんだが、あの庇護欲をくすぐる外見で、上目遣いでそんなことを尋ねられたら、なにか嫌がらせにでも遭って、皇子の心を疑い出したとしか捉えられまい。


(それで、「なぜそんなことを……!」ってなって、「だって、信じられません」とか「私、皇子に愛されるはずなんて、絶対にないのです」とかってなって、「どうしたら信じてくれるんだレオノーラ……! いっそ……!」みたいな……感じに……)


 以下、自主規制。

 自分はけしてロマンス小説愛好家ではないが、脳みそまで性欲に沸き立っているに違いない男の性質と、気障ったらしい貴族の性質を掛けあわせると、必然そういった方向の想像も湧く。


(じゅ、十二歳だもの、さすがにそんなディープな展開は……ってダメだわ、古い貴族の風習なら充分「結婚」できる年齢じゃないの! いや、でも、相手はレオだしさすがにそんなことには……ってダメよ、だからこそ、どんな想定外の事態が引き起こされるかわからないんじゃないの!)


 楽観的な思考が浮き上がっては、即座に恐ろしい可能性がそれを打ち消す。


 ああ、せめて暴言封印の魔術だけでも解いておけば……いや、それだってどんな結果に繋がるか読めたものではない。話せる幅が広がる分、引き起こされる勘違いの規模も拡大されるのかもしれない。というか、されるだろう。

 あらゆるインプットを、恐ろしい勘違いにアウトプットする、それがレオクオリティだ。


(どうすれば……)


 考えがまとまらないまま、なんとなく視線を便箋に戻す。

 そこには、相変わらず生真面目な口調で、今度は今後の打開策についてが書かれていた。




 やはり、今回の一番の反省点、つまり皇子の怒りの源泉は、俺が皇子の婚約者なんかに収まってしまったことだと思うのです。

 そこで事態を少しでもましな方向に持っていくには、何よりまず、この婚約を解消し、皇子の怒りを鎮めるべきだと考えました。


 一番手っ取り早いのは、直接皇子に「婚約を解消してくれ」と頼みに行くことですが――





『やめてやめて絶対やめて! まんま、さっきのパターンじゃないの!』


 レーナは絶叫した。

 なんの非もないはずの少女が婚約解消を申し出たら、それこそ「愛されている自信が無い」だとか「脅迫されている」だとか、そちら方向に取られるのが関の山だろう。


 今、少女の「愛」を得てやる気満々であるらしい皇子が、それこそキレてどんな行動を取るか、想像することすら恐ろしかった。


 だが、さすがにレオもその方法には躊躇いがあるらしい。

 手紙はこう続いていた。




 ですが、正直なところ、今の俺に皇子に直接、婚約について触れにいく勇気はありません。

 再度怒りを蘇らせた皇子が、その場で俺の首を刎ねてしまうかもしれないからです。

 チキンで大変申し訳ない。

 できれば、間接的な方法を取りたいと思います。





『間接的……?』

 

 多少ほっとしながら、レーナは眉を寄せる。

 要は、婚約者に相応しくない振舞いをして、向こうから婚約を破棄してもらおうという魂胆であるらしい。


 少しはわかっているじゃないか、と思いながら、レーナは続きを読み込んだ。





 犯罪に手を染めるのは気が進みませんが、やはりこの場合、人としてやってはいけないことをする、というのが一番なのではないかと思うのです。


 なんといっても、人として犯してはならない罪といえば、強盗に横領。これに尽きます。


 そこで、気は進みませんが、例えば皇子の部屋に侵入し、なにか宝飾物を盗むというのがよいかと思っています。

 よく身に付けているものを狙えば、発見も早く、婚約解消もより早期になるかと思います。


 あるいは横領ということで、婚約支度金として今後支給されるらしいお金を、使い込むというのもアリかもしれません。

 ちなみに、そのお金はこっそり孤児院に回してしまえば、孤児院の皆も潤ってハッピーです。

 レーナも慰謝料として、ちょっと持っていってください(これって、俺にとって最大級のお詫びです)。





 レーナは途中まで「ふんふん」と真剣にその案を検討していたが、そこに潜む恐ろしい落とし穴に思い至り、


『だあかあらああああ……!』


 と再度頭を抱えた。


『どうした? レオの案の中では、割とまともに思えるが』

『まともなわけないじゃない!』


 横から手紙を覗き込んでいたブルーノを、レーナはくわっと一喝した。


『まず前者。婚約者なんだから、皇子の部屋なんてフリーパスよ。「侵入」っていうのがそもそも成り立たないわ。挙句、「よく身に付けている宝飾品を手に取る」だなんて、ますます「愛しの相手を思うよすがを欲しがっている」みたいな、かわいいおねだりにしか取られないわよ!』

『そうか……?』

『そうよ! 私にはわかる……! それがあいつの持った、恐ろしい勘違い体質なのよ!』


 ぎっと便箋を睨みつけて、レーナは続けた。


『それに後者。こっちなんて、「自分のために用意された支度金すら、孤児院の寄付に回してしまう、心優しき少女」だとか解釈されるに違いないわ。奴だってこっそり寄付しようとするでしょう。でもね、なぜか(・・・)破綻して、むしろ(・・・)隠れて寄付しようとしたことが美徳に思われるような、そんな展開が待ち受けているのよ。絶対そうよ!』


 ブルーノは「穿ちすぎでは……?」と首を傾げていたが、レーナは譲らなかった。

 だって、そういった周囲の思考癖や巡り合わせがなければ、今のこんな酷い「聖女像」だって出来上がるはずもなかったのだから。


 ――そして、誰も知らないことだったが、その読みは恐ろしく正確だった。


 感情を昂ぶらせたレーナは「うわあっ!」と叫んで便箋を床に叩きつけると、それをげしげしと踏みつぶした。


『だいたい、思い付く最大の犯罪が強盗とか横領って時点で、みみっちいのよ! 普通、犯罪っていったら、皇子の暗殺を企んでいたとか、隣国と通じて国家転覆を図ろうとしたとか、そっちを考えるでしょおおおお!?』

『……普通の定義が問われる瞬間だな』


 冷静にツッコミを入れるブルーノの胸倉を、レーナはがっと掴み上げた。


『だいたいね、ブルーノ! あなたももうちょっと真剣に考えたらどうなのよ! あなたの! 親友が! 男の! 嫁にされそうになってるのよ!? 前はあなただってあんなに取り乱してたのに、どうしてそう平然としてるのよ!』

『それはだって』


 がくがくと揺さぶられながらも、ブルーノは表情を微動だにさせず答えた。


『処刑されたら人は死ぬが、結婚しても人は死なん。それに、前回のレオは巻き込まれただけだったが、今回はあいつにも非がある』

『…………』


 俺はあいつの保護者というわけではないからな、と冷静に付け加えられ、レーナは思わずシャツを握りしめていた手の力を緩めた。

 男同士の友情だからなのか、彼らの付き合いというのは、暑苦しいのかドライなのか、よくわからない。


 ブルーノは、解放された身頃を整えながら、ふと窓の外を見やった。

 夜風を味わうようにすっと顔を上げ、『それに』と呟く。


『今は時ではない気がする』

『時ではない……?』


 なんとなく、その口調に逆らいがたいものを感じて、レーナは無意識に言葉を反芻した。


 褐色の肌に、黒曜石のような瞳。

 ヴァイツ帝国では珍しい色彩を持った彼が真剣な表情を浮かべると、奇妙な迫力がある。


 そう、戦士に向き合った時というよりは――霊験あらたかな導師を前にした時のような、威圧感が。


 ブルーノは、窓の外に広がる星に視線を投げかけながら、淡々と言葉を紡いだ。


『自然の流れは揺るぎなく、壮大だ。宿命(さだめ)の掌は巨大で、誰ひとりそれから逃れることなどかなわない。流れに逆らって泳ごうとする者は、不要な傷を負い、溺れる』

『……なんですって……?』


 なんとなく、不穏な胸騒ぎを感じて、レーナがそう呟くと、ブルーノはふと表情を元に戻して――といっても、やはり無表情であることは変わりないのだが――、続けた。


『いや、だから。どうせ今頑張っても、再度召喚されてしまえば同じことだろう? 今年中、というか、奴が十二歳のうちは、なにをやっても無駄あがきだ。そして、俺は無駄は嫌いだ。奴が十三になってから誘拐してしまえば、一発で済む』

『――なによ、そういうこと?』


 要は面倒臭いということだ。

 大仰な言い方をするから、つい構えてしまったではないか。


 レーナはほっとしたような、むっとしたような、奇妙な感覚を抱きながら、感情のままにぶちまけてしまった便箋を拾い集めた。

 柄にもなく緊張してしまった自分を、誤魔化すためでもあった。


『私だってそう思うけど、相手はたった二週間でここまで事態を悪化させた大馬鹿守銭奴よ? せめて、これ以上ひどいことにならないよう、手を打たなきゃ』


 ぶつぶつと愚痴りながら、レーナは少しだけ、心が軽くなりつつあるのを感じていた。


 そうとも、今すぐどうにかしなければと思い詰めていたが、あと十カ月くらいのうちは、どう脱走しようと、自分は学院に再召喚されてしまう。

 だが逆に言えばそれは、その期間の猶予があるということだ。

 今すぐ全ての事態を打開しようなどと目論むのではなく、ひとまず、これ以上事態を悪化させない方法を考えられれば、それでよい。


 ほんの少し生まれた余裕は、レーナにいつもの冷静な思考と、そして気力を取り戻させてくれた。


 つい先程まで呆然と夜空を眺めていた目には、今やいつもの勝気な表情が浮かび、その奥の脳ではくるくると思考の渦が巻きはじめる。


『まずは……奴の周りの警備レベルがこれ以上高まらないように働きかけて……待って、それよりなにより、奴に余計な動きは一切させないように手を打たないと。作戦は全部こっちで考えて、奴にはただ黙って呼吸してろ、くらいのことを……』


 唇に手を当てて真剣に考え込むレーナを、ブルーノは興味深げに見つめる。


『――レーナ』

『なによ。ちょっと今忙しいから、後にしてくれる?』

『いや』


 彼は、ほんの少し口の端を持ち上げたようだった。


『レオの失態なのに、おまえも尻拭いに協力するのか? ――優しいことだ』

『な……っ』


 レーナは思考を中断し、素早く相手を睨みつけた。


『そういう暑苦しい解釈、やめてくれる!? 私は別に、優しさとかそういうのじゃなくて、単純に、あの馬鹿に任せてたら、一層事態が悪化するのが目に見えてるから、仕方なく、しぶしぶ……!』

『しぶしぶ、全部自分で背負いこんで、尻拭いするんだよな』

『違う!』


 珍しく愉快そうな様子を隠しもしないブルーノに、レーナは口をへの字にした。


 違う。

 断固として違う。


 自分はけして、レオのために奔走しようとしているわけではなく、あくまで自分が原因となって引き起こした諸々の事態を、片付けようとしているだけだ。


 レオが悪化させた分まで回収してやろうというのは、――そう、部下の失態を上司が被るのと同じ理屈で。

 それが責任だし、部下にはその能力がないから、そうするのだ。


 この、友情とかいうくだらない価値観に染まった無表情野郎を、どう論破してやろうかと言葉を選んでいたら、それよりも早くブルーノが呼び掛けてきた。


『なあ、レーナ』

『――……なによ』

『なんで、エミーリオたちが、おまえのことを「兄ちゃん」と呼ばないか、わかるか』


 なぜ今、そんな質問を寄越すのか。

 相変わらず文脈の読めない野郎め、と思いつつ、レーナは仏頂面で返した。


『そりゃ、私のことを「兄ちゃん」だなんて思えないからでしょ。嫌いな赤の他人だから』

『半分正解で、半分外れだな』


 ブルーノは、愉快そうに肩を揺らすと、床に置きっぱなしだった燭台を拾い上げ、扉に向かった。

 そうして出口の前で振り返り、


『あいつらな。おまえを「兄ちゃん」と呼ぶべきか、「姉ちゃん」と呼ぶべきか、わからないんだそうだ』


 そう、告げた。


「…………!」


 レーナは絶句してしまう。

 部屋唯一の灯りを取り上げられようとしているのに、なにも言えないでいる彼女を見やり、ブルーノは続けた。


『まあ、どちらが正確かはさておき、責任をやたら背負いこんで焦っている今のおまえは、立派な「兄ちゃん」だよ。孤児院風に言えばな』


 そうして、ふっと蝋燭の火を吹き消す。

 火が勿体ないと告げて。


 星明かりしか射さぬ、暗い部屋を出て行きながら、


『さっさと寝室に戻れ。エミーリオたちが、寝たふりしながら気にしてるぞ』


 ブルーノは、そう付け足した。


 そうして、外からの喧騒だけが流れ込む、暗い部屋の中。


「なに、それ……」


 耳の端まで赤くしたレーナは、ぽつりと呟いた。


 自分が、「兄ちゃん」?

 孤児院の兄貴分であるレオの人生を奪い、挙句、状況をコントロールできずにいる、自分が?


(馬っ鹿じゃないの。そこは、「おまえを兄ちゃんだなんて思えるもんか」ってなるところじゃない)


 ――レオ。全部レオのせいだ。

 レーナは眉を下げて、この場にいないレオを詰った。


 あいつが能天気で、お人よしで、ほいほい人を信じてしまうような馬鹿な人間だから、弟分たちもその影響を受けて馬鹿なのだ。

 友情だとか、仲間意識などというのは、ろくなものではないというのに。

 暑苦しくて、べたべたしていて、人の思考能力を腐食する恐ろしい感情だというのに、これでは。


『私の頭まで、腐っちゃうわよ……』


 漏れ出た声は、自分でも驚くほどに、情けなかった。


 レーナはその場にぺたりとしゃがみ込むと、顔を膝にうずめたまま、がりがりと木の床を引っ掻いた。

 なにを掻き消そうとしているのかは、彼女自身よくわかっていなかった。


 ハンナ孤児院。

 ここは恐ろしいところだ。

 なにか重要なことを教えてくれるのと引き換えに、理性を腐らせ、人の精神を恐ろしい方向に作り替えてゆく。


(早く、もとに戻らなきゃ……)


 でなければ、自分の価値観が取り返しのつかないレベルにまで汚染されてしまう。


 挙句――二度と、この座を明け渡したくないと、思ってしまう。


 やがてレーナは顔を上げると、窓越しに瞬く星を睨み付けた。


『助けてあげるから、助けなさいよ。……馬鹿レオ』


 壮大で揺るぎなくいらっしゃるところのお星様は、冴え冴えとした光を返してきただけだった。

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