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50.エピローグ

 「金貨王の勝利」、または「金貨王の凱旋」と呼ばれる絵は、長いヴァイツ帝国美術史の中に数え切れないほど存在する。


 モチーフとなった、帝国暦一〇〇八年の精霊祭での出来事は、それほどまでに多くの人々の心を揺さぶり、また画家の目に鮮烈に焼きついたからである。


 晴れやかな笑顔を浮かべ、精霊と見紛う美少女を抱き上げるアルベルト皇子――後に「金貨王」として、市民の台頭めざましいヴァイツ帝国を導き、史上最大の隆盛を極めることとなる彼の姿は、時代によって手法を変えられながら、幾人もの画家によって、飽きることなく伝えられていった。


 精霊めいた美貌の少女と皇子が手を取り合う様子は、そのまま教会と帝国の蜜月を約束する政治的な寓意画としても捉えられ、歴代の教皇や皇帝に、大層好まれたのである。

 「金貨王の勝利」は、時に大聖堂に描かれ、時に宮殿の広間に描かれ、荘厳にして華やかな大絵画の代名詞として語られるようになった。


 がしかし、無数にあるそれら「金貨王」の絵画の中で、ひときわ価値があるとされるものは、人々が驚くほどに小さく、しかも、ひどく治安が悪い地域の教会に、大した警備も無く飾られている。

 それは、絵のモデルとなった無欲の聖女――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグが、強くそれを望んだためだった。


 盗まれて構わない。

 傷を付けられても構わない――できるものなら。


 彼女は周囲にそう言い切ったのだという。

 自己犠牲を厭わぬ無私の精神が、そしてまた、人間の善性を信じる清らかな心根が、そこからも伝わるかのようである。


 ヴァイツ帝国美術史最大の画家・ゲープハルトによって描かれたその小絵画は、他の画家のものと比べると、まるでスケッチのように色数に乏しく、少女も背に手を回されているだけと、少々ドラマ性に欠ける。


 しかし、さすが鬼才の手になる作品というべきか、その絵画には不思議な力があった。


 心卑しき者が、無防備に飾られているその絵を盗んだり、傷つけようとすると、その者はきまってなんらかの失態を犯し、捕らえられるというのである。

 同時に、それを捕まえた者には、褒美のように金運が向くというのが常であった。


 心正しき、無欲の者には、祝福を。

 心卑しき、強欲の者には、(わざわい)を。


 絵画を通してすら、人々に心清くあれと説く少女は、まさに無欲の聖女よと、人々はいつも、その絵を前に深くこうべを垂れるのであった――。

これにて最終話となります。長らく、そして毎日お付き合いいただきありがとうございました。

コメントや感想に、いつも大変励まされておりました。


おまけの後日談(明後日くらいに投稿できるでしょうか)と、その他リクエスト閑話を考えておりますが、次の投稿まで一度完結とさせていただきます。

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