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49.レオ、やばいことを思い知る(後)

「――……し、白……っ!?」


 なんと、「染み」を取り除かれたドレスは、せっかく染めた紅茶の色さえ失って、もとの光沢のある白色と化していたのである。


(って、俺の渾身の紅茶染めは、ワインの染みと同じ扱いかよおおおおお!)


 五日も掛けたのに。

 皇后にまだ売り込んでいないのに――!


 レオは今度こそ泣けると思った。

 しかしそれよりも早く、エミーリアがきゃあっと明るい声で呟いた内容に、ざっと顔色を失った。


「純白のドレスね!」


(え…………?)


 白いドレス。

 その単語が、レオの脳裏にある光景を呼び起こした。


「すまない。反動で魔力が籠りすぎたようだ。だが、白いドレスを身にまとった君も素敵だよ」


 眩しそうに目を細める皇子に、レオはひょいと担がれる。


(た、しか……死装束みたいな、白い服……)


 愕然としている内に、連行され、下ろされたのは、高い位置にあるバルコニー。


(白いサーコートを着た、皇子がいて……)


 眩い金髪を陽光にきらめかせ、破顔した皇子がそっとレオの背中に手を回す。

 空いているもう片方の手を高らかに掲げ、――その先にいるのは、陽気に肩を組む群衆。


(どよめく、群衆、が……)


 その瞬間、うおおおお、とも、わああああ、ともつかない、地鳴りのような歓声が上がった。


 ――金貨王、万歳!

 ――アルベルト皇子殿下、万歳!


 レオの喉がひくりと鳴った。

 これは。

 この光景は。


(ゲープハルトの、呪われた絵じゃねえかああああああ!)


 「金貨王の勝利」、または「金貨王の凱旋」と題される予定の、あの小絵画の光景に相違なかった。


(ひ……ひいいいい! ひいいいい!)


 もはやレオは、脳内ですら言葉を紡ぐ余裕などなかった。


 やはりあれは不吉だった。

 呪われた禍々しい絵画だった。

 学院付き導師のお祓いなんかでは生温い、どこぞの辺鄙な教会に押し付けるか、それともビリビリに破いてしまうべきものだったのだ。

 まさか、こんなにも的確に将来を予言するだなんて。


 実際には処刑の現場ではない点が、解釈とは異なるが――いやいや同じだ、こうやって、大衆に向かって面を割らせているわけなのだから。

 人相書きなんて目じゃないレベルでこの顔を晒され、もはや、レオの脱走計画と社会的生命は終わったも同然だった。


 と、魂の抜ける心地でぼんやりと視線を彷徨わせていた先に、禍々しいオーラの発生源を発見する。

 思わず目を凝らしてみれば、


「…………!」


 群衆に紛れ、視線で射殺すようにこちらを見ていたのは、レーナであった。


(ひいいいいいいい!)


 レオが彼女に向かってざっと青褪めたことに、向こうは気付いたようである。

 レーナはその平凡な少年の顔に、とびきりのドスと殺気を滲ませると、立てた親指をゆっくりと持ち上げ――


 豪快に振り下ろした。


(ぎゃああああああ!)


 レーナの怒りはもっともだ。

 精霊祭までには元に戻すと豪語していたのに、うかうかとこちらの用事を優先し、あまつ、のっぴきならないレベルまでにこの顔を世間に晒しているのだから。


(やべえよ! やべえよ! どうすりゃいいんだよ!)


 結局皇子への評価は、「いい人」と「やっぱ怖い人」の間を激しく行き来して、今は後者に思い切り振りきれている。

 しかも成り行きで、婚約を承認してしまった。

 これが一体どれだけ皇子の怒りを掻きたてているものか、想像することすら恐ろしい。


(お、俺、戻れるのか……!?)


 ひどく不吉な懸念が脳裏をよぎる。


「さあ、レオノーラ。君も挨拶を」


 横で皇子が何か言ってきたが、レオはもはやそれどころではなかった。


(かかかカー様! 金の精霊様! 光の精霊! 湖の貴婦人! もうなんでもいい! なんでもいいから、とにかく俺を助けてください!)


 その時レオは、初めて金の精霊以外の精霊に真剣に祈った。


(助けてくださいいい!)


 簡素ながら、皇子と対になるような純白のドレスをまとった、光の精霊のような少女。

 彼女がすっとその細い両腕を持ち上げ、胸の前で強く手を握り合わせたその光景は、一幅の絵画のようであった。


「せ……精霊様だ!」


 誰かが叫ぶ。

 しかしそれが広がるよりも早く、低く魅力的な声が辺りに響いた。


「いや、無欲の聖女だ!」


 え、と目を瞬かせる民に、まるで心に染み入るような女性の声が言葉を重ねる。


「私たちに、水の恵みをもたらしてくれた、あれが無欲の聖女、レオノーラよ」


 無欲の聖女。

 なるほど、純白のドレスに身を包み、敬虔なる祈りのポーズを取った彼女は、そう呼ぶのが相応しいように思われる。


「無欲の聖女……」

「無欲の聖女、レオノーラ……!」


 呟きは、確信に。

 確信は、叫びに。


 その言葉は、人の波に輪を広げるようにして染みわたり、うねりとなって立ち上がった。


 ――無欲の聖女、万歳!

 ――レオノーラ、万歳!


 皇子に捧げられたのと同じか、もしかしたらそれ以上に大きいかもしれない歓声が、広場を揺らす。

 やがてワインと、祭の空気と、麗しい青年と少女の光景に酔った人々は、手にしたり胸に差していたトルペの花をむしり、その花弁を一斉に空に撒きはじめた。


 ――金貨王、万歳!

 ――無欲の聖女、万歳!


 赤、白、黄色。

 色とりどりのトルペの花弁が、春を告げる澄みきった青空に高く舞い上がる。

 例年になく大きな花弁を付けたトルペの花は、まるでこの若き皇子と、その横に佇む少女のことを祝福しているかのようだった。


 ――金貨王、万歳!

 ――無欲の聖女、万歳!


「ふ……。僕から捧げる前に、民からトルペを捧げられてしまったね」


 精霊祭で、トルペの花は、異性に愛を告げるのに使われる。

 民に先を越されてしまった格好になった皇子は、ほんのりと苦笑し――しかし次の瞬間には、民の歓声に応えるように、傍らの少女を高く抱き上げた。


 ――わあああああ!


 歯を見せて笑う、麗しの皇子。

 そして、彼に軽々と抱きかかえ上げられ、びっくりと表情を固まらせているあどけない美貌の少女に、群衆は大いに沸き立った。


 ――金貨王、万歳!

 ――無欲の聖女、万歳!


 二人を讃える声は、いつまでも、いつまでも、城中に響き渡り、陽が落ちるまでやむことはなかった。




***




「バルトも、人が悪いこと。このような手を打たれているなら、わたくしにも教えてくださってよかったのに」


 軽い防音魔術を掛けている謁見室にあってなお、鼓膜を強く揺さぶる歓声に、アレクシアは軽く眉を寄せて隣に座す夫を見た。


「うん? だがおまえとて、民を利する陣に手を出したくらいで、俺が我が子を追放するとは思っていなかっただろう?」


 冷めた紅茶を淹れなおしてもらい、ゆったりとそれを啜る彼は、あくまで呑気だ。

 アレクシアは自らもカップを手に取ると、ちらりとその切れ長の瞳を夫に向けた。


「どうでしょう。あの子の王としての資質を、一番気にしていたのはあなたですから」

「――ふ」


 バルタザールは苦笑する。


「悩ましいものだ。俺が突然皇位を継いで、散々叩かれたせいで、あいつがああいった『完璧な皇子』を目指してしまったのはわかっている。親としてはその孝行心がいじらしい一方、王としては、その殻を破ってもらいたいとは、な」

「……傀儡の王は、いりませんものね」


 そう。

 皇子の役割とは、スペアとしての優秀さを示し、無用の諍いを招かぬよう個性と意志を殺すこと。

 しかし、皇帝となった暁には、苛烈な指導力を発揮し、この巨大な帝国を動かすことが求められた。

 そのためには、越権を気にして行動しなかったり、親の命じるままに力を削ごうとする従順さなど要らないのだ。


 それで発破を掛けるため、あえてハグマイヤー伯の好きにさせてみたり、皇子が大切にしている少女を目の前で追い詰めたりしてみたのだが。

 見事奏功し、皇子が自立心に目覚めてくれてよかった。

 彼を鼓舞すべく、群衆を扇動した甲斐があったというものである。


「しかし、王命とはいえ、ここまで大規模に民が集まろうとはな」


 王命とはまた別に、教会のネットワークを使って、貧民だけでなく一般の市民にまでクリスたちが扇動を仕掛けていたことは、さすがの皇帝も把握していなかった。

 我が息子ながら運のよいことよ、と顎を撫でてから、バルタザールはもう一口紅茶を啜った。


「あいつももう十七歳。成人も近い。このタイミングで殻を破ってくれたのは、実に重畳なことだ。折しも今日は精霊祭。新たな季節が訪れる日だしな」

「そして愛しい女性に愛を告げる日ですわね。――あの子の権力や金貨の魅力ではない、本人を愛し支えてくれる婚約者も得られて、本当によかった」


 皇后もご満悦である。

 彼女は、茶会のかなり始めから、美しく聡明で、控えめな少女のことを気に入っていた。

 が、その時点では、皇子はまだ追放処分の可能性もあると思っていたし、また少女の方も、庶民となった皇子を拒絶するかもしれない恐れがあった。


 しかし蓋を開けてみれば、息子は立派に、父帝が仕掛けた見極めを突破し、少女も皇后の仕掛けた意地の悪い問い掛けにも揺らがず、息子への愛を貫いてみせた。

 これを喜ばずして一体なにを、というところである。


「ふふ。わたくしたちに『青二才』などと言い放つとは、思いもよりませんでしたわね。わたくし、久々に心が震えましたわ」

「ああ。まったく剛毅(ごうき)な娘だ。帝国の妃にあれほどふさわしい人間もそういるまい」

「本当に」


 巨大な帝国を支えるには、優しさだけでなく強さが求められる。

 追い詰められた皇子に慈悲を、追い詰めた皇帝たちに厳しい弾劾を突き付けてみせた少女に、二人はすっかり惚れ込んでしまったのである。


「――恐れながら、陛下。わたくしどもは、この婚約を手放しで認め喜んでいるわけではございませんでしてよ?」


 とそこに、バルコニーに立つ孫娘を目を細めて見守っていたエミーリアが、ふと顔を振り向かせた。


「まあ、なぜ?」


 アレクシアは、美しいアイスブルーの瞳を見開く。


 侯爵家令嬢にとってみれば、第一皇子との婚約はこの上ない名誉のはずだ。

 親の欲目を差し引いても、アルベルトは文武に優れた美しい青年であるし、本人同士も愛し合っているようなのに。

 だがエミーリアは、優美な仕草で扇をいじると、思わせぶりに溜息をつく。


「僭越ながらも、言葉を選ばず申し上げますと――このような底意地の悪い見極めを仕掛ける姑や舅は、いかがなものかと」

「まあ!」

「む」


 いつも、言葉のベールで真意を何重にも包んで話す、エミーリア夫人のそのような言い草に、皇帝夫妻は少々慌てた。

 これは相当機嫌を損ねている証拠だ。


 ハーケンベルグ侯爵家は、古くから続く家柄であるだけでなく、エミーリアのその社交界での影響力は計り知れないことから、彼らは夫人を無下にするわけにもいかない。


 しかも、孫娘をぜひにと捧げられているならともかく、今はこちらから少女を息子の婚約者に所望しているような形だ。

 よって、彼らは即座に態度を改め、下手に出た。


「すまない、夫人、クラウス。この通りだ」

「申し訳ありませんでした、エミーリア夫人。どうぞ、古くからのよしみに免じてちょうだい」


 国の頂点に立つ二人から謝罪を寄越されても、エミーリアはちらりともその余裕を揺るがしはしない。

 彼女はぱらりと開いた扇にそっと溜息を吐くと、憂いを含んだ瞳で、まずは皇后を見つめた。


「レオノーラは、わたくしどもの大切な、かわいい孫娘。彼女の歩む人生から、全ての憂いを取り払うのがわたくしどもの役目だと、恐れながら信じておりますのよ。これまで大切に、彼女の情報が下町に伝わらないよう尽力してまいりましたのに、このように多くの民にあの子の姿が見られては、一気にその存在が知られてしまいます。わたくしは、かわいいあの子が、卑劣な輩に目を付けられはしないかと、それが心配で」


 先程、進んで皇子に自慢の孫を披露させた人間とは思えない発言である。

 しかし、この手の副音声の読み取りに長けたアレクシアは、その矛盾を突くことなく、瞬時に力強く頷いてみせた。


「もちろんのことですわ。わたくしもビアンカから、レオノーラの不遇の過去は聞き及んでいますもの。彼女の未来の母として、レオノーラを大切に守ってやりたいと思いますわ」

「まあ、光栄なことですわ。ですが、それはつまり……?」

「つまり、――そうですね、例えば、婚約が正式に調(ととの)った時点で、未来の妃に割く当然の警護として、レオノーラに騎士団を付けさせる、ですとか」


 のっけから大きく出た。

 人ひとりの警護に騎士団をひとつ当てるなど、小王国の国王をも上回る手厚さ、というか異常事態だ。


 傍で聞いていたクラウスはぎょっと目を剥いたが、エミーリアはまだまだ笑みを崩さなかった。


「まあ! わたくしどもも、彼女の安全には最も心を砕いておりましたので、そのお言葉にはとても心惹かれますわ。さすがは陛下。ですが、やはりこういうのを愚かな親心と言うのでしょうね。わたくし、あの子がそれでも危険な目に遭わぬかと、心配で心配で」

「いや、愚かな親心というのは、先程の俺のようなことを言うのだろう。あれだけの愛らしさ、夫人の心配はもっともだ。どうだろう、いっそ大胆に師団を充てては」


 バルタザールが、真顔で言い放った妄言に、クラウスはまたも目を見開いた。

 師団。

 その人数を賄うだけで、小王国の年間軍備予算を軽く食いつぶす程の規模である。


「旅団……だと、さすがに人数が多すぎて、小回りが利かないものねえ?」

「ああ、いっそおまえの実家から、暗殺や工作に優れた隠密部隊を引き抜いてくるというのはどうだ」

「まあ、その手がありましたわね」


 アレクシアの実家は、代々優秀な密偵を飼っていることで知られる、この国の暗部を担う公爵家である。


「まあ、素敵ですこと」


 しかしまだまだエミーリアは余裕の笑み――そして物足りなそうな視線を崩さない。

 彼女は、婚約というカードをあざといほどに活用し、少女を守るためのあらゆる兵力を、権力を、財力を、せしめてみせようというのであった。


 その交渉の鮮やかさ、およびえげつなさといったら、侯爵が戦場で接してきたどの参謀にも勝る。


(しかも……こやつ、気に入らないことがあれば、さくりと婚約を破棄させて、皇子を虫よけに終わらせるつもりと、言っていたであろう……?)


 しかも、クラウスの見立てでは、婚約が成るか成らぬかは五分五分といったところだった。

 なぜなら妻の寝室の見えにくい場所に、羊皮紙五十枚に及ぶ「我が愛・レオノーラを嫁に出す前に、一緒にしたいことリスト」が隠されていたのを発見していたからである。

 あれは、到底数年でこなせる分量ではなかった。


(こやつ……)


 クラウスはぶるりと身を震わせた。


 彼は戦場で鬼将軍と讃えられた、歴戦の猛者であった。

 その眼光は鋭く、戦場を退いた今となっても、最強の戦士の誉れを他の誰にも譲りはしなかった。


 が、しかし。


「うふふ、もう一声」


 扇の傾きひとつで、少し大きめの国の年間軍備予算ほどの額を引きだしてみせる妻に、彼はこの日、帝国最強の戦士は同じ屋敷内にいたのだという事実を思い知った。

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