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43.レオ、茶会に出る(前)

 精霊祭、当日。


 まさに春の訪れを祝うその日に相応しく、空は青く澄み渡り、花々は美しくその蕾を綻ばせていた。

 町では朝から大砲が鳴らされ、至る所で市や踊りが催されている。

 この日ばかりは、どの店からも大量のワインや菓子が振舞われ、人々の陽気な笑い声が、国中に響き渡るかのようだった。


「ふふ、町でのお祭り騒ぎが、ここまで聞こえてくるようですわね、あなた」

「ああ、もう少し王宮に近付けば、今度はまた別の騒ぎが待っているがな」


 馬車の窓の外を見て、楽しげに微笑んだエミーリア夫人に、ハーケンベルグ侯爵クラウスが髭を撫でながら答える。


 精霊祭の日、王宮では昼からパレードが行われ、その後バルコニーから皇族の挨拶が行われるのが常だった。

 民たちは、朝から買い物と踊りとワインに酔いしれ、昼のパレードについていって王宮に向かい、そこで皇族を讃えるというのが、この日の一連の儀式なのである。


 エミーリアはにこにことしたまま、隣に座る孫娘に声を掛けた。


「レオノーラ。あなたも窓の外を見てみてはどう? 精霊祭の雰囲気が、風に乗って感じられるようよ」


 ぱっと顔を上げたのは、まるで精霊のように美しい少女だ。


 丁寧に梳られ、一部を編み込まれた髪は黒檀の輝き。

 小さな顔には零れんばかりの紫の瞳と、通った鼻、愛らしい唇が、絶妙なバランスのもとに収まっている。

 肌は白く滑らかで、頬と唇だけがほんのりと淡く色づき、まさに春の精霊、あるいは光の精霊と言われても信じてしまいそうな美貌であった。


 そんな彼女は、ベージュとピンクの間のような、柔らかい色合いのドレスを、先程から無意識に撫でている。

 緊張しているのだろうかと夫人は声を掛けてみたのだが、


「いいえ、よいのです」


 少女は可憐な声で、言葉少なに答えただけだった。


 そんな様子に、夫人は内心で少しばかり気を揉んでしまう。

 いつも愛らしい笑みを浮かべてくれる孫娘が、今日はまるで何か覚悟を漂わせているかのような様子であることの理由を、彼女は薄々察していたからであった。


(両陛下も、何をお考えのものか……)


 溜息が出そうになるのを、辛うじて堪える。


 かつて社交界の華として君臨していたエミーリアのもとには、未だに王宮や貴族社会に関する噂が、大量かつ迅速に届いていた。

 また、彼女のもとには、日夜カイからの手紙も届けられている。

 必然エミーリアは、彼女が婚約者にと見込んでいたアルベルト皇子を取り巻く環境が、今や危うくなっていることを、理解していた。


(皇子が権限を越え、陣を用いて治水の領域に手を出した。両陛下は彼に魔力封じと謹慎を命じた。恐らく沙汰が下るのは今日――場合によっては、茶会の場。レオノーラに、それで罪を思い知れとでもいうのかしら)


 エミーリアは表面上はにこにこと笑顔を保ちながら、内心で素早く思考を巡らせる。


 皇子がそのような「暴挙」に出た背景には、孫娘の陣構想とやらがあったのだろうことを、彼女はカイからの手紙で把握していた。

 それで、孫娘に咎が及ばぬよう、皇子が龍徴を取り上げようとしていることも。


 同時に、少女が自らを責めぬよう気を使うあまり、皇子は謹慎についての事実を伏せているらしいことも。


(正直、あの皇子がそこまでの気骨を見せるとは、思いませんでしたわねえ)


 エミーリアは、ゆったりと扇を取り出した。


 皇子が孫娘のために力を貸し、あげく身を滅ぼそうというのに、彼女を責めないばかりか守ろうとしているという事実を、夫人は高く評価していた。

 そもそもを言えば、治水業務による利益は享受する癖に、一向に拡充などの負荷を受け入れないハグマイヤー伯爵のことを、エミーリアたちは毛嫌いしていたのだ。


 貴族たるもの、権利と義務は等しく果たさなければならない。

 それをせぬのは恥でしかないし、子どもたちに先を越されたところで、なんら文句を唱える権利などあるはずもないのだ。


 継承権を剥奪されるかもしれない皇子との、見合いを兼ねた茶会。

 そんなもの、普通の人間なら投げ出してしまうだろうが、そこをあえてエミーリアが決行のまま進めているのは、そんなわけであった。


 無冠の学生でありながら、民を想い、複雑な陣を形成し、しかもその責を一人で負おうとする姿は、天晴れ。

 そんな上等の男であれば、大事な孫娘の相手として不足はない。

 多少の青臭さは、大人が尻拭いをしつつ、これから矯めればよいこと。


 なに、仮に皇帝が継承権剥奪を命じたならば、庶民となった皇子をどこぞの伯爵家辺りにでも養子に取らせて、その上で侯爵家の婿に迎え入れればよいのだ。

 今回の様々な要素を織り込み、充分にそれは可能であるとエミーリアは踏んでいた。


(今日のは、あくまでも公務の合間を縫った、「非公式な」場。けれど同時に、両陛下が初めて臣下の娘を招いた茶会。世間がこれを見合いと取るか、取らぬかは、噂の流し方次第ですわね)


 この茶会は、色々と変則的だ。

 しかしだからこそ、情報操作を間違わねば、いかようにでも転がせるとエミーリアは思っている。


 たとえば、皇子がつまらぬ男だと思えば、この茶会はあくまで、「精霊祭の間に孫娘を連れ挨拶に来たもの」とし、婚約など匂わせなければいい。

 両陛下主催の茶会に招かれたという、その箔だけを頂戴するのだ。


 逆に見込みのある男ならば、王命すらくぐり抜けて、皇子をきっと孫娘の婚約者に仕立て上げてみせる。

 それだけの実力と権力が、ハーケンベルグ侯爵家にはあった。


(もっとも、レオノーラの方は、そう簡単に心の整理がつくものではないでしょうけれど……)


 唯一気がかりなのが、孫娘の心だ。

 エミーリアは、先程から黙り込んでばかりいる少女のことを、痛ましそうな視線で見やった。


 カイからの手紙によれば、皇子から龍徴を返すよう諭された時、少女はいつになく取り乱したのだという。

 それはそうだろう、慕っている相手から、いくらその身を守るためとはいえ、実質的な婚約破棄を告げられたようなものなのだから。

 その後少女は、再三に渡る皇子の説得にも耳を貸さず、部屋に閉じこもっていたという。


 最初エミーリアは、いくら市民のためとはいえ、無謀にも命を危うくし、一国の皇子を巻き込んだ孫娘のことを叱ってやろうと思っていた。

 だが、カイの手紙を読み、塞ぎこんでいるという少女の様子を聞くにつれ、心配でたまらなくなり、彼女を抱きしめて慰めてやりたいと思った。


 しかし、今日。

 久々に少女に会ってみて、エミーリアは叱ることも慰めることもできず、その目を見開いてしまった。


 なぜなら孫娘は、事情もわからず浮かれるでも、皇子の変心に傷付きやつれるでもなく、なにか透徹した覚悟の表情を浮かべていたからだ。


 それを見た時、エミーリアは悟った。


 この聡明な孫娘は、全てわかっている。

 自分の引き起こしたことの重大さも、皇子の意図も、何もかも。


 だとしたら、エミーリアが彼女に掛けるべき言葉などない。

 できるのは、どんなことになったとしても、孫娘を守るだけだ。

 夫人はそう腑に落とし、後はただ、十三年越しに叶った孫との精霊祭の日をただ楽しもうと、心に決めたのであった。




(うーん、もうちょっと濃い目に染めたほうがよかったかな……)


 一方レオはといえば、先程から自身がまとったドレスを、生産者の目で入念にチェックしていた。


 なんといっても、今日この「新商品」を披露するのは、国一番のお偉方である。

 チェックはいくらしてもしたりなかった。


(なるべくこの染め上がりが見えるよう、仕立てがシンプルなドレスを選んだつもりだったけど。これだけ面積が広いと、逆にちょっと間延びするか? いやいや、下半身はテーブルでほとんど隠れるはずだから……)


 叶うならレオは今すぐこのドレスを脱ぎ捨て、マネキンに着せたうえで、最も魅力的に見えるポーズの検討を始めたかった。だが、すぐにいかんいかんと首を振る。


(いや、一週間に渡って検討を重ねたし! 人事は尽くした。後は天命を待つだけだ!)


 そう、彼はこの一週間というもの、部屋に閉じ籠り、ドレスの紅茶染めに血道をあげていたのである。


 事の起こりは、先週の安息日。

 いきなり皇子がやって来て、金貨を返せとのたまってきた日のことだ。


 レオは勿論大いに衝撃を受け、青褪めた。

 だって、何度も「いい人」と「恐怖の取り立て屋」の間で行き来していた皇子の評価が、ようやく「いい人」に収まりかけた矢先に、いきなり堂々と取り立てを宣言されたわけだから。


 その瞬間、聖堂の弁償金から身を守ってくれた皇子も、水の召喚陣を作ってくれた皇子も、利益遵守の想いでレオを守ってくれた皇子も、ガラガラと音を立てて崩壊し、後には高笑いのもとに金貨を奪う、悪虐の皇子像だけが残った。


(なんだよあいつ! やっぱ最終的には金貨を取り上げるのかよ! 一体今度はなんでなんだよ!)


 レオは混乱した。

 皇子が「また明日来る」と行って去ってしまった後も、しばらく部屋で呆然としていた。

 しかし、駆け寄ってきたカイが、


「そんな……! 皇子殿下が、婚約破棄を望まれるなんて……!」


 と叫んだことで、ようやく合点がいったのだ。


 先程皇子は、レオが茶会の話を振り、あまつ「見合いみたいですね」と言った途端に、このような暴挙に出た。


 つまりアレだ。

 嫌い抜いているレオが、両親主催の茶会に招かれ、うっかり婚約者になってしまうかもしれないと思ったから、キレたのだ。

 婚約者と思われる前に返せ、と言っていた気がするから、やはりそういうことだろう。

 彼は、金貨を人質に取られたらレオが逆らえないことを理解しているのだ。


(そんなことしなくても、元から婚約者なんて、なるはずもないのに!)


 衝撃を抜けると、レオは腹が立ってきた。

 ありもしない可能性を回避するために金貨を奪おうとするなど、なんという奴なのだ。


 レオだって、皇子が――というか男が婚約者など、ごめんこうむる。

 いっそ今すぐ追いかけて、その辺りを盛大に主張してやろうかとも思ったが、すぐに考え直した。


 あれで皇子は、気に入らないことがあると人の関節を外す男だ。

 せっかく今日のところは、脅しだけで済んだのに、挑発したことによって実際に金貨を奪われてしまっては、堪ったものではなかった。


(俺は守る! 守り抜くぞ、金貨を! こいつはもう俺のもんだ!)


 レオにとって、金貨はあくまでも金貨。

 それがまさか、婚約者候補の意味を持つものだと思わないレオは、悪ベルトの魔手から逃れることを心に誓って、ぎゅっと金貨を握り締めたのである。


 それからも皇子は毎日のようにレオに会いに来たが、レオは断固として会おうとせず、話しかけられても全力で逃げ出していた。


 取り立て屋から逃れるには、とにかく視線を合わせないことが肝要なのだ。

 頭に血が上っている相手には、どんな説得も通じない。

 自分が皇子と婚約する気などさらさらないことは、茶会当日に両陛下に告げることにして、とにかくそれまでは逃げ続けるのが吉である。


 そんなわけで、レオは寮の自室に引きこもりを続けていたわけなのだが――そしてそれを、カイが痛ましそうに見ていることなど全然気付いていなかったのだが――一日も経たぬうちに、早速暇を持て余してしまった。


 もとより貧乏症のレオ。

 いくら金貨を守るためとはいえ、タダ授業にも出席せず、級友へのサシェ販売もせずに日々を過ごすなど、耐えられるはずもなかった。


 そこで目を付けたのが、紅茶染めである。


 実はこれは、皇子との一件があった際、紅茶を盛大に絨毯にぶちまけてしまったことから着想を得た。

 紅茶の染みは、色は美しいくせに、家事マイスターのカイをもってしても落とすのが難しかった。

 ならば逆に、染めるのに使ってはどうだろうと考えたのである。


 幸い茶葉については、ベルンシュタイン兄弟から大量に送られたものがあった。

 カイは一度淹れたらすぐ茶葉を捨ててしまうため、勿体ないな、とレオも頭の片隅で悩んでおり、その点でも都合が良かったのである。


 レオは、孤児院に手紙を出して、レーナから延期快諾の返事をもらうと、商売モードに意識を切り替え、紅茶染めに着手した。

 箪笥の肥やしとなりつつあった白っぽい服を選んでは、せっせと染色に明け暮れ、出がらしの茶葉でも充分に着色できることを発見。

 とうとう五日掛かって、最高の出来のドレスを仕上げたのだった。


(この柔らかなピンク色といい、自然なグラデーションといい、飾らない感じを好む大人の女性に受けそうだぜ。廃物利用や手作りってコンセプトも、最近ちょっとブームだもんな。いける……! これが皇后陛下の目に留まれば、いけるぞ……!)


 商売はビッグに。

 仕掛けるなら大胆に。


 もちろんレオは、この皇帝皇后両陛下主催の茶会、という最大の晴れ舞台を利用して、紅茶染めドレスを売り込む気満々であった。

 帝国が誇るファッションリーダーの心さえがっちり掴めれば、後はどうにでもなる。

 そうしたら、ベルンシュタイン商会に染法や配合を教え、特許として儲けるのだ。


(よーし、声出してこ!)


 レオはぎゅっと拳を握りしめ、内心で発破を掛けた。


 両陛下に会いに行くと思ったら、さすがのレオでも緊張するが、偉いお客様(カモ)にプレゼンしに行くのだと思えば興奮しか催さない。


 馬車の外では精霊祭が盛り上がっているし、自分もそんな町の雰囲気に鼻先を浸したいところではあったが、今はそんな郷愁に心を揺らがしている場合ではない。

 最大限に心を整えなければいけないのである。


 レオは念入りにシミュレーションを繰り返し、エミーリア夫人は様々な思惑を扇の下に押し殺し、クラウスはただ顎ひげを撫で。


 三人を乗せた馬車は、王宮の門をくぐった。

エミーリアの目論見を微修正しました。

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